第2話

 朝食を摂りながらなおざりにテレビを見ていると地域のニュースが市内で起きた殺人事件を伝えてきた。それまでトーストに載っけた目玉焼きのバランスに注意を向けていたヒロコは、慣れ親しんだ市の名前を耳にしてにわかに現実へと引き戻されたような錯覚をした。目玉焼きは皿に落ちて半熟の黄身が破けてしまった。

「あらぁ、この道って何度か通ったことあるところじゃない」

 ヒロコの母が独り言のような感じで口を開いた。確かに、テレビに映し出されている現場はヒロコにも見おぼえがあった。

「ヒロちゃんが乗る電車の路線じゃなかった、このへん」

「うん、そう。まあでも、私が使ってる駅を通り過ぎた方だよ」

「気をつけないといかんね」

 ヒロコの父が真面目なような社交辞令のような感じで注意を促してきた。ヒロコは朝食のトーストに目玉焼きを載せた意味を内心で自問自答しながらも「はーい」と返事をした。


 殺されたのは市内に住む三十代の会社員の男性、日課のランニングの最中に鋭利な刃物のようなもので首を切られて失血死、貴重品のたぐいを物色された形跡がないことから警察では通り魔的な犯行と見て調べている、とのことである。

「今朝のニュース見た? やばいよね。あっちの方に用ってあんまりないけどまあまあ近くじゃん」

「寒かったろうに、ああ」

 特に待ち合わせなどはしていないのだが、運行ダイヤの都合でサキとマリとは駅で合流するのが常だった。朝っぱらからサキは騒がしかった。とはいえ、近所での殺人事件というこれまでの人生になかった出来事を聞いて、ヒロコも多少は落ち着かないところはあった。マリは「人間は早朝にランニングなんてするもんじゃあないよ」と自説を披露した。

 朝のホームルームで担任の教師が殺人事件について触れた。それに関連して、暗くなってからは極力外出しないこと、登下校はなるべく複数人で行うこと、当面のあいだは部活動とサークル活動は中止して明るいうちに帰宅すること、といったお触れを出してきた。今朝行われた臨時の職員会議で決まったそうである。そのために担任の教師は未明に起こされたとかであからさまに眠そうだった。

 その日は短縮授業で時間割が組まれていて、普段よりも一時間ぐらい早く学生の本分から解放された。暦の上では冬になったとはいえ夕方という時刻でもなく快晴の空は明るかった。風が凪ぐと日光が頬をじんわり暖めている感触がした。

「これはさすがに素直に帰るべきなのかな」

「通り魔まだ捕まってないみたいだし、そうした方がいいよ」

「気持ちはわかる」

 改札を通る前でサキがちょっとだけ立ち止まりかけたが、結局は人の流れもあって粛々と家路に着いた。


 一夜明けたが事件についてはなんの進展もないようだった。地方のありふれた殺人事件に注目するところなどないのか、もはやテレビでもインターネットでも話題になっていなかった。当の市内に住んでいるサキですら、そんな事件などもはや記憶のかなたへと飛び去っていた。

 というのも今日は学校が休みであり、サキはいま現在を生きることに尽力していたからである。彼女は家族で市営グラウンドで開催されている骨董祭りにやってきていた。この骨董祭りは今年で数十回を数える由緒正しいお祭りらしいのだが、現在の内実としてはフリーマーケットと陶器市と木市と道の駅の出張販売が混淆したよくいえば大変にぎやかなものとなっている。

 会場の端の方には動物をモチーフにした空気を入れるドームの中でフワフワ遊ぶやつまで設営してあった。この正式名称はサキの一家のだれもよく知らなかったのだが、サキの弟が「おかあさん、ぼくあのフワフワするやつで遊んどく!」といって走り去っても、両親ともに特に妙な顔はしなかったので、フワフワするやつなのだろうとサキは解釈した。

 サキの両親は苗木が売っている一角へぶらぶらと歩いていった。サキは陶器のコップを物色していた。彼女は少し前から炭酸飲料を飲むときに適したコップを探しているところだった。サキは飲み物ごとに容器にこだわりを持つことについて家族に若干うっとうしがられていた。一時期は炭酸飲料はやはりガラスのコップで飲むのが一番であると結論を出しそうになっていたのだが、あるときふと紙コップで飲むと特別な感じが出て味わいが違うといいだし、一ヶ月ほど前から、しかしもっといいものがあるのではないか、と考えるようになっていた。

 サキは備前焼のコップを手に取ってためつすがめつ表面をなでていた。口に触れたときの感触を想像して、それがサキがよく飲む炭酸飲料の味わいを高めあうことになるだろうかなどと熟考していた。

「お嬢ちゃん、割らないように気をつけてね」

 売り子がやんわりと釘を刺してきた。値札を見るとサキの手持ちの小遣いで買えないこともないが当分は何もできなくなるぐらいの数字がしたためてあった。サキは「どうもー」とあいまいな笑みを浮かべながら売り場から離れた。

 それからサキはフリーマーケットを見て回って、似たようなやつ持ってるなぁ、こんなのだれが買うのかなぁ、などと心の中でつぶやきながらひやかしていった。

 さほど心が動かされる品も見当たらなかったのだが、せっかくなので何か買わないと損なのではないかという考えが浮かびかけたところで、声をかけられた。

「安くしときますよ」

 声の主は意外に若い男だった。今日は比較的ぬくい日とはいえ、この冬空の下で夏服のような薄着をしていた。この手の販売形態でありきたりな呼び声の一つのようだったのだが、妙に心に引っかかる声質であったため、サキは思いがけず足を止めた。

 売り場となるレジャーシートの上にはカラフルすぎる端切れや、意匠が不明なキーホルダーにストラップといっただれが買うのかよくわからないものがやる気なく並べられて、というよりも散乱していた。

 サキはなんでこんなもんが気になったのかと首をかしげながらも、かがみこんで商品をあさってみた。しかしやはりピンとくるものは見当たらなかった。「どうもー」と立ち上がろうとすると、売り子が呼び止めてきた。

「ああっ、ちょっと待ってください。実はとっておきの品があるんです」

 売り子の男はとっておきしていたらしい一振りの刀を取り出してきた。サキは刀に関して全く造詣は深くなく、素直な感想としてはずいぶんとボロい代物が出てきたように感じた。

「どうですか、これ。私が持っててもしかたないんで、ぜひお嬢さんに買っていただきたく」

 男はとんでもない値段を口にした。刀の相場を知らないサキにとってはそれが妥当なのかそうでないのか皆目見当がつかないのだが、しかしおそらく今日この会場のだれも現金では持ち合わせていないような金額だった。

「いやぁ、高いっすよ、お兄さん。高い。しがない高校生ですよ、私」

 検分というわけでもないのだが、サキは刀を手に取った。鉄の塊でできているわりには拍子抜けするぐらい軽かった。もしかすると竹光とかそういうやつなのかもしれない。そもそもこの手の刃物を所有するには何かの許可がいるはずだから、こんなところでおいそれと売っているわけがないのである。

「これ本物なんですか?」

「ええ、もちろん。小狐丸、ご存じありませんか。最近見つかりましてね」

 刀の銘なんて全く存じ上げないサキは「ふうん」と生返事をした。男はだれに聞かせるでもないふうに「本当に、ようやく見つかったんですよ」と小さな声を漏らした。

 男の様子に関心が向いていないサキは怒られない程度に刀身を見てみたくなり、鞘から抜こうとしたがうまくいかなかった。木だか竹だかでこしらえた鞘と刀身が湿気や気温の変化で歪んでしまっているのだろうか。いずれにせよ、二束三文の廃品にしか思えなかった。

「まあ、いらないです。ほら、私こう見えてもか弱い女子だし、物騒なものはイメージが崩れるというか。あと、高いし。どうもー」

 サキは刀を売り場に戻した。こういう手合いが跋扈するのも骨董祭りの醍醐味なのだと妙な邂逅をした気分になった。

「高い、ですか。ははあ……いや、失礼。私もさじ加減がよくわからなかったものですから。じゃあこのぐらいでどうですか」

 何を思ったのか売り子は平均的な高校生が昼食一回に使うぐらいの破格の値段を提案してきた。それなら遊びに購入しても惜しくはなさそうだが、あまりのでたらめぶりに当然のことながらうさんくささを感じずにはいられない。

「そんなんでいいんですか? 何かいわくつきの品とかじゃないですよね。実は盗品でしたなんてのも勘弁してくださいよ」

 売り子の男といくばくかの問答をしたものの、依然としてあやしさは払拭できなかった。しかし、結局、サキはその刀を買った。最初はボロく感じられたのだが、よくよく見れば柄も鞘もきれいにすればそれなりに見られる代物のように思えてきた。何より金額が決め手になった。飽きるか邪魔になってきたら、弟にあげればよろこぶだろうという考えもあった。

 サキは刀を持って売り場をあとにした。買ったものは彼女の趣味や実用に即しているわけではないのだが、手ぶらで帰るよりは来た意義が出て良かったろうと考えた。刀を売った男はサキを見送ると急にくたびれきった感じでうなだれた。

「どうか彼女たちを守ってやってくれ……」

 男は人知れずサキの後姿に祈りを込めた。それから売り場を放置して会場から立ち去ると小さな影となってどこかに消えていった。


「サキ、またそんなもの買ったの」

「毎度思うけど、そういうのってどこに売ってるの」

 サキが無駄遣いのようなそうでもないような買い物をした翌日、ヒロコたち三人はなじみのネットカフェのファミリールームでだらだらと過ごそうとしていた。部屋に入るや否や、サキは持ってきていた細長い手荷物の包みを開けて見せた。中身の刀を見たヒロコとマリは、あきれ半分、感心半分といった態度で応じた。サキは脈絡のない代物を突発的に買ってみては持て余す悪癖を持っていた。

「このあいだ買ったのはなんだっけ、ほら、目の錯覚を利用してゴルフのパッティングが上達するとかいうやつ。ゴルフなんてやってないでしょ、だって」

「エビングハウス錯視」

「あれは……だって百円ショップで売ってたから、つい出来心で……。いや、そんなことより、今度のはすごいんだって。見てよ、ねえ、このすごそうな感じ。刀とかぜんぜん知らないけど、それでもなんというかこう……うん、すごいって思うもん」

 サキがいうにはとにかくすごい刀なのだそうである。ヒロコとマリは「はいはい」と適当に流しながらも、一応はおつきあいというものでくだんの刀を持ったり眺めたりさすったりしてみた。

「これ、やけに軽いけど真剣なの?」

「もちろん。いい刀っていうのは扱いやすいもんなのよ」

「銘は?」

「ええっと……たしか小狐丸とかいったっけ」

「マリ、知ってる?」

「なんとなくは。仮にそれが本物なら文科省の役人が血相変えて走ってくるよ」

 マリの話によれば、小狐丸とやらはお稲荷様がお手伝いをしてできた刀だそうで、現在の所在は不明ということになっているとのこと。

「ということは世紀の大発見だね」

「でしょ、すごいでしょ。いやー、日ごろの行いってやつかな」

「すごいすごい」

 ヒロコとマリが刀身を見ようとちょっと力を込めてみたがやはり柄と鞘はびくともしなかった。その場のだれも刀の正しい扱い方に自信がなく、かつ、さほどの興味もわかなかったため、それ以上の詮索はやめておいた。そして食べ放題のソフトクリームの新しいトッピングの開発を試みたりしながら、実にくだらない話に花を咲かせた。


 三人の話は延々と続きそうだったのだが、明日提出の課題やソフトクリーム一杯当たりのカロリー、浜辺の円高、それから近所の殺人事件のことなどを思い出して、遅くなる前に帰ることにした。店を出ると小雨が音もなくけぶっていた。湿気のせいか、季節はずれの妙に生暖かい気配が漂っていた。

「あー、やっぱり降るんだ。天気予報って当たるわ、実際」

「昼ごろ晴れてたのにね」

「雪降らないかな」

 ヒロコ以外の二人は傘を持ってきていなかったが、それぞれの自宅までの道のりなら気にするほどの降り具合でもなさそうだった。ヒロコが傘に入るか尋ねると、サキはこういうのは結局どっちも濡れることになるからいいわ、と遠慮した。代わりに、これが濡れないように持ってくれるとうれしいと刀を渡してきた。マリはさっきの店でおやつを食べたときに余った紙皿をなぜか持っていて、それを頭に載せて若干したり顔をしながら「アホっぽい?」と聞いてきた。ヒロコが「否定はできない」と評すると満足げであった。

 すでにして家路を急いでいると、彼女らが通いなれた道に設置されているコイン精米機から漏れる灯りに人影らしきものを認めた。そのコイン精米機のすぐ隣りにはベンチと自動販売機と野菜の無人販売所が設置してあって、農作業の休憩や井戸端会議や人生に呆然とするために、しばしばだれかがたたずんでいた。雨の日だろうと風の日だろうと、真夏の白昼だろうと真冬の未明だろうと、だれかがいるときはいた。したがって、ヒロコたちも最初はだれかが缶コーヒーでもすすっているのだろうと考え、気にも留めずに通り過ぎようと思っていた。

 ところが歩を進めて近づいていくうちに、ヒロコたちは尋常ならざる様相を感じてきた。どうしても、かかる人影が人間のシルエットであると認知することを脳が拒否した。

「ね、ねえ……あそこに何かいる、よね……」

 サキが声を震わせながら立ち止まった。彼女の裸眼視力は左右ともに1.5なのだ。ただ、うかつにも進みすぎていたのか、さほど視力が良くないヒロコとマリにも恐怖の対象が十分に目視できていた。二人は黙ってうなずくのが精一杯だった。

 彼女たちの視線の先では、濁った白色の生物が動いていた。ひどい粘り気のある液体の中から這い出て、そのまま全身にまとわりついた液体が定着したような容貌をしていた。足元は暗くてはっきりしないが、脚に相当する部位で直立しているように見えた。表面は粘膜のような質感らしく不快な光沢を帯びていた。自販機との比較から推測するに高さは2メートル以上はありそうだった。

 その生物はベンチに向かって右腕を振り下ろすような仕草をした。鞭で物を強く叩いたときのようなおぞましい音が聞こえた。

「な、何やってるのかな、あれ……」

「とっ、とにかく離れた方がいいかな」

「うんうんうん」

 本能的な危険を感じ、ヒロコたちは来た道をすみやかに引き返そうとした。すると、その行動に感づいたかのように、粘膜の生物がヒロコたちの方へ向きを変えた。前面とおぼしき側に人間でいうところの顔と呼べるものは形成されておらず、代わりに握りこぶしほどの大きさの一つ目がついていた。一つ目は瞬きもせずにヒロコたちにはっきりと視線を向けていた。腹のあたりに鮮血を浴びていることに気づいた。ひいきめに見ても、人類に友好的な存在には思えなかった。

 ヒロコたちはしゃくりあげるような悲鳴を上げた。大声を出そうにもお腹に力を入れられない。三人で寄り添いながら萎える足腰を必死に励まし少しでも遠ざかろうと足を引きずるようにして動いた。

 粘膜の生物は数秒だけじっと一つ目を向けていたが、おもむろにヒロコたちの方へと近寄ってくるらしき気配を見せた。粘膜の生物は数歩近づいた。殺されるのではないかと思った(経験主義に則るならば、殺されたこともない彼女たちがそう推測するのは変な話なのかもしれないが)。ヒロコたちはパニックに陥っていたが、なんとか「せーので走ろう」と声を掛け合って方針を確認した。そしてヒロコたちが「せーの」と声を上げようとした瞬間、

「下がって!」

ヒロコは開いた傘を前方に突き出して叫んでいた。ヒロコ自身、明確な随意にもとづく行動ではなかったのだが体が勝手に動いていた。

 ビニール傘に何かが打ちつけられたような音と衝撃がした。ヒロコは死ぬ気で傘を構えた。透明のビニール傘越しに粘膜の生物の動きに注意を向けると、相手が右腕を使おうとしているのが見え――たと思う間もなく、再びヒロコが持つ傘に何かが高速でぶつかってきた。

「あいつ、この距離で何かやってくる! ちくしょう、やられてたまるか!」

 サキが弱気を振り払おうとするかのような、はたまた自分たちに降りかかったなんの因果もない理不尽な災難に対する憤懣のためにか、声を張り上げた。すかさずマリが「やんのかこらー!」と精一杯の虚勢を張った合いの手を入れた。

 理由は不明だが粘膜の生物の攻撃はビニール傘で防げていた。見てくれだけで実はたいしたことのない攻撃なのだろうか? 案外、しっぺか平手打ち程度で済むかもしれない……。しかしそんな不確かなものに命をさらす蛮勇などだれも持っていなかった。傘で防げるといっても全身をくまなく遮蔽できているわけではなく、死の三角クジを引き続ける当然の帰結としていつかは致命的な一撃の当たりを引いてしまうおそれを感じた。

 ヒロコたちがなんとか次善手をひねり出そうと苦心していると、粘膜の生物の背中越しにパトカーと思しき赤色灯が見えた。

『そこの白い人、止まりなさい』

 パトカーのスピーカーから警察官のやや険のある声が発せられた。粘膜の生物もそれに気づいたのか、ヒロコたちへの攻撃をやめてパトカーの方へと振り返った。

『その被り物を脱いで、ちょっとこっち来て』

 引き続き警察官は謎の相手に指示を出してきた。先ほどよりも更に口調はきついものとなっていた。しかし粘膜の生物はまるで意に介さない様子でいる。そもそもあれが人間の言葉を理解するかどうかもはなはだ心もとない気持ちであった。

「いまのうちに、逃げよっか」

「そ、それがいいのかな」

「気が変わらないうちに」

 三人で逃げる算段をしているとパトカーから人が降りてくる音がした。コイン精米所からの照明の当たり具合と化け物の背中越しのため、警察官と相手のやりとりは女子三人にはよく確認できなかったが――。

 粘膜の生物が右手を動かしたように見えた。パチン、と何かが弾けたような音がした。不可逆的で致命的な事象が起きたことを想起させる音だった。だらりと垂らした粘膜の生物の右手が赤く濡れていることに気づくと三人仲良く震え上がった。

 警察官の気配は消えて、もはや彼が殺害されたことは確実であった。雨音が白色雑音のように聞こえた。粘膜の生物がヒロコたちに振り返った。一つ目からはなんの感情も読み取れなかったが、次の獲物が自分たちであろうことは心根がお気楽なサキですら予想できた。

 ヒロコは改めて傘を強く握り締めた。こんなちゃちな膜一枚でどうして相手の攻撃を防げたのか理由は不明だが、ともあれいまはこれに賭けるしかなかった。粘膜の生物が攻撃態勢に入ったような気がした。祈る気持ちで傘が作る陰に身を潜めようとしたそのとき、突然、足元から機械的なビープ音が鳴った。

「ヒロコ、それ鳴ってる!」

「しかも光ってるし!」

 音と光のもとは小狐丸だった。サキが買ってきたがらくたと思われた刀がヒロコの足元で危急を告げるような赤い光と音を発していた。ヒロコもサキもマリも、あまつさえ粘膜の生物ですら警戒するように動きを止めて小狐丸に注意を向けていた。

 傘で両手がふさがっているヒロコに代わってサキがおもむろに小狐丸を手に取った。半ば脅迫的にも感じられるビープ音にうながされるようにして、サキは力を込めて柄を引いた。するりと刀身が抜け、光と音がやんだ。再び周囲を雨音が包んだ。

「うそっ。なんで。やだ。何これ。ふわわわわ」

 あれほどかたくなに抜けなかった小狐丸はいまやその刀身をこともなげにさらしていた。事態の張本人とはいえもちろんサキにもその理由はわからず、これまで人生で手にした刃物の長さの記録を大幅に更新したことと併せてとまどうばかりであった。

「サキ、それで攻撃できたりしないの!?」

 とはいえ武器らしい武器が手に入ったことに一抹の心強さを感じられるのも確かであり、ヒロコは半泣きになりながらも攻勢に転じようとした。

「どどど、どうやって!? 全然届かないじゃん!」

「このまま攻撃を防ぎながらじりじり近づいて、間合いに入ったところでグサッ、てできるわけないよそんなの!」

「そ、それもそうだよね……」

 しかしヒロコの衝動的な思いつきは当然のことながらサキとマリにごもっともな意見で却下された。警察官は基本的に二人組で行動するはずであるから、もう一人の生き残っている(と信じたい)方が助けを呼んだりしてくれることをお祈りした。

 小狐丸がもたらした状況の変化への期待とその反動による落胆でともすればくじけそうなヒロコたちの一方で、粘膜の生物は間合いを詰めるでも離すでもなく、攻撃もせずにじっと女子三人を凝視していた。

 不意に粘膜の生物はくるりときびすを返すと、ヒロコたちを避けるように反対方向へ去っていった。パトカーのボンネットだかドアだかを殴打したような音がして、それから遠ざかるサイレンとエンジン音が聞こえていった。

 脅威が去るとヒロコたちはへなへなとその場にへたり込んだ。脚は萎えて力が入らなかったが反対に腕はこわばり、彼女たちはおのおの傘と日本刀と紙皿をしっかりにぎったままになっていた。

「助かった、のかな……」

 しばらく経ってから、ようやくヒロコは傘を下ろして安堵の息を漏らした。次第に平静を取り戻してくると寒気を感じ始めてきた。

「っぽい」

「うわー、死ぬかと思った。ほんともうダメかと思ったわ。いやでも、あれなんなの。魔物? このあいだ倒したグレムリンみたいな? にしてもやばいよあんなの。話が違うくない? あと、あれ、小狐丸、なんでか抜けたよね。あんなにあれこれやっても抜けなかったのに。というか鳴ったし光ったし」

 おなじく落ち着いてきたサキはいつもの調子を取り戻してそれまでのうっぷんをぶっとばすように一気呵成に頭の中身を垂れ流した。マリはほどよく相槌を打ちながら地面に放っていた小狐丸の鞘を拾い上げて、わずかにうなりながら不思議そうに中を覗いたりしていた。

 三人ともめいめい釈然としないところはおおいにあったのだが、いまはとにかく家に帰ってストーブにあたってコタツに入りたかった。暗くて見えないのだが、少し先の方では警察官の死体があるはずだし、粘膜の生物が最初にベンチの近くで何を叩いていたのかも不明では合ったが、それらをじかに確認するほど元気でもなければ頭のねじが吹っ飛んでもいなかった。

 結局、ヒロコたちはほかの道から家に帰った。淡々と歩いていると、直接目の当たりにしたわけではないとはいえ、すぐ近くで人が死んだことへの衝撃と感傷が遅れて去来してきた。その感情をうまく整理できず、みんなそうして死んでいったのだろうかと思うと虚無感にさいなまれた。


 玄関を開けるとヒロコの両親が「わっ、よかった!」などと感激した様子で出迎えてきた。確かに死にそうな目には遭ったけれども、まだ何も話していないと主客の感情の落差に戸惑っていると、「ニュースですぐ近くで警察官で殺されたって」とヒロコの父が説明してきた。どうやらあの現場にいたもう片方の警察官がしかるべき対処をして騒ぎになっているようだった。

「お母さん、ヒロちゃんたちが巻き込まれてたらどうしようって、心配で心配で……。でも、何もなくてよかったわ」

 ヒロコの母は短い時間のうちに泣きそうになったり笑顔になったり、見ている方も情緒不安定になりそうなありさまであった。この上、死ぬかと思ったということをありのままに伝えるとどうにかなってしまうのではないかという心配が浮かび、ヒロコはでき得る限り言葉を選んで自らの遭難の顛末を過小に伝えなければならなかった。

「それだけど私たちも近くを通りかかって……。いや、なんにもなかったから安心してよ。うん、おまわりさんらしき人も見かけて……お母さん、大丈夫だったって、ほんと。すぐ逃げたから大丈夫だったよ」

 実態よりも反対方向に脚色した内容を伝えたのだが、それでもヒロコの母はおおいに取り乱して卒倒しそうな勢いすらあった。あべこべにヒロコが母をなだめながら、どうにかこうにか事の次第を話した。

「まあでも、ヒロちゃんがどうともなくて良かったよ。や、人が死んでるんだからまるっきり良かったとはいいにくいけど。ままま、お風呂入ったらご飯にしよ」

 お風呂から上がるとヒロコの両親は引き続きテレビでくだんの事件に関する報道を見ていた。パトカーのドライブレコーダーが録画していたという動画の一部が映っていた。殺害された警察官と化け物が対峙しているところが静止画となっていて、下側に「殺害された警察官と犯人とみられる人物」というテロップが表示されている。おそらくドライブレコーダーの動画には警察官が殺害されるシーンまで収められているのだろうが、それがテレビの画面に映し出されることはなさそうだった。

「ヒロちゃんもこの犯人を見たの?」

「ちらっとは。気持ち悪いなぁって思いながらすぐに離れたけど」

 ヒロコの母は「しばらくは明るいうちには帰ってくるようにした方がいいんじゃないかしら」と不安げにいった。ヒロコの母の想像よりもはるかに危険な目に遭ったヒロコは「気をつけるね」と素直に応じた。


 雨の中を白い魔物が駆けていた。魔物は二日前にランニング中の男を殺して、ほんの少し前に散歩中の老婆と警察官を殺したところである。右手の先には人間の血液をしたたらせている。

 魔物はヌメヌメした体表を濡らしながらこの雨がやむ前にどこか手ごろなねぐらになりそうな場所を探している。

 それは魔界の住人で、ヒロコを殺すためにこの世界に顕現したのだった。したがって、先ほどもヒロコを殺すのが本来の目的で、そのほかの行為は魔物にとっては自己の生存のためとはいえ、さほどの意図があったわけでもなかった。

 追ってくるものがいたが、夜の闇に乗じて案外、簡単にまいた。

 少女たちとのやりとりを思い出しながら、魔物はあのときに勝負をかけるべきだったろうかと考えていた。怖気ついたのかと問われればうなずくよりない。しかし、魔物はなんとはなしに左肘の切断面をさすり、あの武器には見覚えがあった。この地で人間に左腕を斬り飛ばされた忌まわしい記憶がよみがえった。あれは決してたやすい相手ではないのだ、と目標を前に撤退した自分を納得させようとした。

 何者かが接近してきたことに感づき、魔物は反射的にその方向に右腕を振るった。その動きはいかなる生物が相手だろうと目標をやすやすと切り刻むことができる。しかし、目標をしとめた感触はなく、空しく弾かれた手ごたえが返ってきた。

「――ローゼよ、息災だな。よもや余を忘れたわけでもあるまい」

 粘膜の生物が攻撃した相手は人間の姿をしていたが、魔物の名前を呼びかけながら魔界の言葉を発した。ローゼと呼ばれた生き物はその声に直ちに畏まった。

「そのお言葉……おそれながら先代の魔王であらせられるルク様とお見受けしましたが……?」

「ひさしぶりだの」

 魔界の言葉を操る人間の姿をしたものは修験者の成りをしていた。手には先ほどの攻撃を弾いた錫杖が収められている。その姿にどんな意図があるのかローゼという魔物には興味がなければ関係のないことだった。

「これは……ルク様とは存じ上げなかったこととはいえ、とんだ不敬を……」

「構わん。いまの余は隠居の身、もはやそなたらにあれこれすることは何もない。その忠義は当主に果たすがよかろう」

 二体の魔物は街灯もない真っ暗な農道を歩きながら魔界の言葉を交わした。

「さてローゼよ、この星の具合はどうかね。お前にはいささか居心地が悪いことかと思うが」

「さすがはお見通しですか。この星は乾きすぎておりますし、何より以前にこの地で傷を受けましたゆえ、いまなお怯懦は隠し切れませぬ」

 粘膜の魔物は上肢だけとなった左腕を掲げて見せた。

「何を恥じることが。そなたの勇猛ぶりはみなが知るところであろう。ここの前の星で、ケイ素生物を相手に大立ち回りしたのは隠居した余のところにまで伝わったわ。一つしかない命、お互い大事にしたいものよ」

 十億年前、とある星に根づいていた知的生命体が絶滅したことをルクは話題にした。その星は毎日雨が降っていた。濡れることを嫌がる炭素生物が生活するのには適さず、地球人から見れば土と岩だけの荒涼とした土地が広がっていた。途方もない年月を経て風雨にさらされ続けた石が何かの気まぐれで知性を獲得して、その星の上でさまざまな活動を行うようになった。文明を開いた。繁栄が頂点を極めたとき、ケイ素生物は魔物たちに滅ぼされたのだった。

「この異界の地にてそのようなお言葉を賜れるとは……光栄にございます。もはやこの身を全くして戻ることは望まぬとはいえ、最期、ローゼは果報者でありました。必ずや勇者めを分解(バラ)して我らが本懐を遂げて見せます」

 一つ目の魔物は空を見上げた。曇天の夜空に何かが見えるわけもないのだが、果てることのない奥行きだけの空間が、はるか遠く、いままでとこれからの場所と時間を強迫的に連想させる。

 先代の魔王はかつての配下の言葉を少しうつむきながら瞑目して聞いていたが、おもむろに口を開いた。

「さらばだ、ローゼよ! 達者に果てるがよい。お前のことをどうして忘れることができようか!」

 そうして二人の魔物は今生の別れを告げ、おのおの思うがままのいずこにか去っていった。

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