JKがポン刀持ってロボに乗る
@con
第1話
不意に屋根を叩く雨音に気づいてまどろみかけていた意識が戻った。古い登山道のわきに朽ち捨てられた廃屋のトタン屋根に時雨の粒がよく響いていた。
雨音を聞いたのは純白の鈴懸に身を包んだ修験者のなりをした男だった。男は晩秋の冷気がただよう霊山を登っている途中でこの建物を認めると、特に理由もないが中へと入ってしばらく座り込んでいた。
別段、休憩というわけでもなければ、天候を察して雨宿りを目的としたわけでもなかった。男にとってはこの程度の登山などなんらの苦役でもなく、また、濡れた体を風にさらしたところでさしたる苦痛を感じることもなかった。
やおら立ち上がると、男は廃屋を出て山頂へと向かった。雨はやんでいた。頭上にはまだ黒い雨雲がめぐっていたが、空の端の方には青空が出ていた。
険しい斜面や危うい岩場を越えるときも男は表情を変えずにいた。
男が山頂に着いたとき、遠い西の空の端へと日が沈み始めようとしていた。陽光の庇護を失った山岳は人にとり苛烈な様相をあらわにしてきた。
男は日の入りを最後まで見送った。あたりが暗く、冷たくなっても変わらずその場にたたずんでいた。結局、男は明くる朝に日が昇り始めるまでそのままでいた。
「さて」
東へ向き直り、来光をじっと見つめていた男は一言だけそうつぶやいた。男は来た道とは反対側へと向かった。そちらは切り立った崖になっていて、はるか見下ろす視界には鬱蒼と茂る木々が映るばかりである。男はなんらの躊躇も表すことなく、その身をいともたやすく崖下へと落下させていった。男にとっては造作もないことであった。
最近、死ぬ夢をよく見る。頭に鈍器を振り下ろされたり、巨大な物体に押しつぶされたり、高いところから飛び降りたり、炎に包まれたり、ここ一週間ばかり澤田ヒロコは夢の中で様々な手段で死んでしまい、そのたびに焦りながら起こされていた。夢の光景は臨場感あふれるものであり、自分の五体に何事もないことがかえって不審に思えるほどであった。目覚めてもしばらくは夢か現か判然とせず、いまにも寝室で先ほどまでの悪夢の続きが始まりそうに錯覚した。
「お母さんも未だに試験の夢見ることあるわぁ」
ヒロコは今朝も何かで殺される夢で目が覚めた。あまり深刻に話して大事になってもめんどうだと思い、冗談半分のような口調で母にそのことを話してみるとそんな軽い返事であった。朝の食卓を囲みながら、父は「死ぬ夢は縁起がいいんじゃなかったかな」とかなぐさめともつかない変なことをいっていた。
ヒロコが通う高校はさしあたって具体的な志や野望を抱いていない地元の生徒たちが漫然と集まってくるようなところである。小中学校からの同級生や腐れ縁もさしてめずらしくない。休み時間、ヒロコは小学校と中学校でそれぞれ仲良くなったサキとマリに夢のことを話した。
「あれでしょ、欲求不満とかいうやつ」
「それは空飛ぶ夢とかじゃない」
「ええー、似たようなもんでしょ」
「寝坊しないで便利だ」
サキは頭に思いついた端からペラペラとしゃべった。そういう女子だった。マリは上の空でほかのことを考えているような顔をしていたがちゃんと聞いていたし思いついたことを唐突に口にした。そういう女子だった。
二限目の授業にもなるころにはヒロコは夢のことなど思い出さなくなり、いつものように機械的に黒板の文字をノートに写しながら時間が過ぎていくのを待ち焦がれた。
午後の授業は半分ぐらいうつらうつらとしていた。やはり寝つきが悪くなっているのだろうかとも考えたが、しかし一年生の後期ぐらいから既にそうだったような気もした。
学校が終わり、駅前の商業施設を三人でひやかした。外は十分に肌寒かったが屋内は暖房が効きすぎていた。他校の生徒、散歩とおぼしき老人、乳幼児を連れたり抱いたりした夫婦などがあちらからこちらへと行き交っている。
レンガ模様のブロックタイルの道に街路樹の落ち葉が散らばっている。それらがときどき強く吹く北風に巻き上げられていた。まだ落ちてから日が浅いのか、踏みしめるとわずか濡れた感触がした。
一通り施設をまわり、あたりも薄暗くなり始めたのでそろそろ帰ろうかと三人で話していると、広場のようになっているところに見慣れぬ外見の人物が立っていることにだれからともなく気づいた。
「ねねね、あれって托鉢ってやつでしょ」
「こんな時間に? もっと明るいうちにやるものじゃないの」
「そもそもあれってお坊さんの格好違う」
サキ、ヒロコ、マリの三人が話題にした人物は修験者の格好をした男だった。男は彼女たちの存在にほとんど気を向けていないようで、目深にかぶった笠の下で物思いにふけっているようであった。
「そうだ、丁度いい機会だよ。ああいうのってお金あげたらお払いとかしてくれるんでしょ」
「学割がきくといい」
「あるの?」
「あ、あとうちらって今年厄年とかじゃない? 知らないけど」
「ないないない」
三人は歩調をゆるめてキャーキャーとらちもなくはしゃいでいたが、結局、ヒロコが修験者の格好をした男に小銭を渡してみることで話がまとまった。
「あのー、そういうサービスがあるかわからないんですけど、お祓いとかお祈りとかってやっていただけませんか」
ヒロコは五十円玉を見せながら修験者の格好をした男に話しかけた。サキとマリは一歩後ろから少しばかり茶化すような笑みでやりとりを見張っていた。
男は笠を傾けて自分に話しかけてきた相手に目を向けた。この姿になってから、月に一度ぐらいはこういうやりとりに出くわすことがあった。いまではどのように振る舞えば相手が見かけだけでも満足するかも理解していた。
「ここ一週間ぐらい、怖い夢を見るんです。私が何かに殺されるような……。そういうのの厄払いというかカウンセリングというかお願いできたりしませんか」
男はヒロコの頭の上に手をかざして特に意味のない文言をつぶやこうとした。ヒロコは笑いをこらえるようにかしこまって目を閉じている。
そのとき、男はやにわに驚愕の色を見せた。こちらの世界にやってきてから最大の、一般的な人間から見れば小さなもののようだが、感情だった。男はでたらめのお祓いをやめてヒロコの顔をじっと見つめた。
「終わりました?」
頃合と見たのかヒロコは目を開けた。既に男の顔から感情は消えていた。
「そなたの行く末、険しいものとなろうが夢の話は悪くはない予兆を示しておる」
「はあ」
「私も見届けさせてもらおうかの」
男はヒロコに手を合わせるでも会釈するでもなくあいまいな仕草をした。ヒロコはこの手の修行僧だか修験者だかの言動には釈然としないということに釈然として二人のもとに戻った。
「どうだった、人生初お祓いは。祝詞とかいうんでしょ。神道っぽいもん、ああいうの」
「うーん、特にはなんにも感じなかったかなぁ」
三人は修験者の格好をした男をダシに、縦でも横でもいいような無駄話をしながら電車に乗り、そろって最寄の駅で降りた。
自動改札だけがある無人駅で降りた客は少なかった。日は沈みきっている。首筋に冷たい風がまとわりついてきた。
「えーっ、パンクしてる!」
一人だけ自転車で駅まで来ているサキが、サドルにまたがるやいなやおどろき半分、嫌気半分といった声を上げた。
「うそっ、わっ、ホントだ。先週もこんなことなかったっけ」
「もう、なんなのいったい。いたずらしてるのがいるよこんなの絶対」
停めてある自転車をざっと見てみると、サキ以外も同じようにやられているようであり、情けなくへたれたタイヤが雁首そろえて並んでいた。
「ああもうまったく! 今からじゃ自転車屋さんも開いてないし明日もこれで来ないといけないじゃん。監視カメラとかやってないの」
サキは眉を吊り上げながら周囲を見渡した。こんなちゃちな自転車置き場にわざわざカメラを取り付けてあるとも思えなかったが、何か手がかりでも残されていないかと近辺をぐるっと改めることになった。
「カメラないよねぇ、やっぱり。目撃者とかいればまだ……。明日にでも警察にいおうよ。それからここの管理人とかにもいってさ。巡回とかしてくれるかもしれないし」
「大変だ」
見回りながら、ヒロコとマリの二人はなだめつつなぐさめるような口調でサキに話しかけた。サキは生返事をしながら苛立ちを放つような所作を見せている。
元々サキ自身もたいした成果を上げられるとは思っていなかったのか、やるだけやってとりあえずは納得したらしく「もう!」と一声上げてから、もたもたと自分の自転車に乗ることにしたようである。「じゃあねー」なんて手を振りながら、ヒロコはふと改めて置き場の端っこの、やる気のない蛍光灯の明かりがほとんど届いていないあたりで何かが動いていることに気づいた。
「ねえ、あそこに何かいない?」
ヒロコがこわごわ指差すと、あきらめ気味になっていたサキとマリは即座に反応した。
「あのへん、さっき見たときは……あっ、いわれてみれば確かに」
「なんかいるようないないような」
暗くてはっきりとは見えないが何かの影が動いていることを三人で確かめ合った。
「どうしよう。やっぱり声かけたりした方がいいのかな。でも、こっちに襲いかかってきたらどうしよう。ああいうのってストレスでむしゃくしゃしてるとかそういう人なんでしょ」
「そりゃまあ、ほくほく顔の人はやらなそう」
ヒロコとマリは影の主に会話を聞かせるような具合で話した。それで向こうがおどろいて逃げ出してくれないかという魂胆だったのだが、相手はいっこう構うことなく、自転車のタイヤに張り付いて何かを続けている。
「走って逃げればいいでしょそんときは。そこの家とか電気ついてるし大声出せばなんとかなる」
直接の被害をこうむって気合の入りようが違うのもかもしれないが、だいたいにおいてサキは楽観主義者なのだ。自分の能力というよりも運の強さを信じている。サキを先頭に三人はじりじりと影に近づいた。
静かににじり寄っていると、影の主が発しているらしい何かをつついたりこすったりしているような小さな音が聞こえた。
「思ったけどあの大きさはネコか何かじゃない」
「ね、それっぽいよね。爪を研いでるとかだよ、きっと」
「お行儀が悪い」
人間ではなかったことにわずかに落胆しつつも大部分では安堵した。それから、一連の騒動にとりあえずのオチを求めて、サキはスマホで影の主を照らした――。
かわいいネコの姿を期待した三人の意に反して、ライトの光で暴かれたのは異形の生物だった。ヒロコは変なしゃっくりのような声を出して身を縮こませながら無様なステップで後ろによれた。サキとマリも似たり寄ったりで、部屋で嫌な虫に遭遇したときのような反応をした。
「な、何あれ」
「ネコ、ではないよね……」
「ど、ど、ど、どうしよう」
かがんでいた異形の生物は立ち上がると彼女たちの腰ぐらいの大きさで、爬虫類と毛が抜けた鳥類を間違って混ぜたような雰囲気をしていた。わずかに青みがかった灰色の表皮に包まれていて、焦点が判然としない吊り上がった双眸をヒロコたちに向けている。
それは彼女たちのそれまでの人生で見たことがない生物の姿であり、もちろん彼女たちは地球上のあまねく生物を熟知しているわけではないのだが、異形の生物から発せられる違和感はこの世に存在するための調和を著しく乱すものであった。見るものに強い拒絶と嫌悪の感情を抱かせた。
異形の生物は箸ぐらいの長さの細い金属のようなものを持っていた。おそらくそいつを使ってタイヤをパンクさせていたのだろう。
こいつは何者なのだろうか? 三人はめいめい必死に頭をはたらかせようとしたが恐怖でうまくいかない。しかしそれでもなけなしの度胸を出して相手の動きに全力で注意を向けた。
異形の生物は襲いかかってくるでも逃げるでもなく、最初の遭遇のときの間合いのままでヒロコたちの様子をうかがっている。どうやら互いに相手の出方を測りかねているようである。
いっとき、彼女たちはにらみ合いを続けた。もう全力で走って逃げ出したかった。ヒロコの脳裏に小さなころ野犬に追われた思い出が浮かんだりした。マリが「とりあえずスマホで撮っとく」とささやいたが、変に相手を刺激して何が起こるかわからずヒロコは首を振った。
「……そいつはグレムリン、魔物の中では小物だ」
出し抜けに背後からだれかが話しかけてきた。落ち着いた口調であったのだが、おどろいたヒロコたちははじけるようにしてその場を走り去った。突然の動作にグレムリンと呼ばれた生物もどこかに逃げ去っていった。
百メートルほど走ったあたりで息を切らして止まった。最近設置されたばかりの真新しい街灯の光が心強く感じられる。酸欠でふらふらしながら後ろを振り返ってみたがグレムリンとやらは見当たらない。三人そろって安堵のため息を盛大に漏らし、引き続き膝に手をつき、うなだれてぜえぜえと肺と心臓が元に戻るのを待った。
「そう、おどろかなくともよかろう。やつなら逃げていった。安心するがよい」
すると、先ほどの声とともに修験者の格好をした男がおもむろに姿を見せた。三人はなんとか声を上げようとしたが、もはや走り出す元気がなかったこともあり、今度はその場にとどまった。
「詳しい話は明日ゆっくり話すが、ともあれ、あれはこの世の生き物ではない。そう、ヒロコといったな。ご苦労なことだ――」
男はヒロコたちの無事を確認すると、彼の表情にはいたわりとも慈愛とも違う何か得体の知れないところがあったが、彼女たちの呼びかけや問いに応えることなく去っていった。みな思うところは多々あったのだが、ともかく、疲れた。言葉少なに家路についた。
「お帰り。まあ、もう真っ暗じゃない」
「サキの自転車がパンクしててね、いろいろやってたら思ったより時間かかって」
「あらそう。早くお風呂入ってきなさい。お母さん、お腹空いたわぁ」
夕食時に異形の生物のことについてあまり真剣みのないような感じで話した。ヒロコの母は「ネコじゃなければ子グマじゃないかしら」などといい出した。父は「そういうのは近所の家から逃げたペットだろうね」といって何やら独りでに得心した様子であった。
その夜は死ぬ夢を見ることもなくヒロコは眠った。
翌朝、ヒロコたち三人は電車が来るまでのあいだに念のため自転車置き場を見て回った。
「サキ、今日は送ってもらったんだ」
「あれから自転車取りに戻る元気もなかったから迎えに来てもらったし」
「グレムリン……だっけ。いまはいないみたい」
「ああいうのって夜にならないと活動しないとかでしょ」
「そういうムードは大事」
とりたてて不審なものは見当たらず、短期的には安心する反面、問題が根本的には解決に至らず長期的には不安が残るようでもあった。
休み時間にあれはなんだったのかと話し合ったが無論正解など出てこない。実際のところはたいしたことのないありふれた生き物を暗くて見間違えただけではないか、というあたりで無理矢理納得しようとした。
そういうわけであんなことは忘れて例のごとく駅前でぶらぶらたのしく生きようとしていると、聞き覚えのある男の声が話しかけてきた。
「待っていたぞ」
声の主は昨日修験者のなりをしていた男だった。どういう風の吹き回しか今日はスーツ姿をしてた。とはいえ、妙に落ち着き払った佇まいはいかにも浮世離れしており、ヒロコたちの記憶を呼び戻させるには十分であった。
「はあ。あの、昨日お祓いしてもらった方ですよね。その節はどうも。今日は非番とかそういうわけですか」
男の意図がわからず、ヒロコは少しばかり用心しながら当たり障りのない応接をした。
「そのあとほかの駅で会ったけど……あれはうちらをつけていたとかじゃないですよねまさか。あとなんか事情を知ってるふうな感じだった。そうそう、グレムリンとかこの世の生物じゃないとかなんか変なこと……。ヒロコにああいうことやってもらったけど、うちら宗教とかそういうのあんまり興味ないんで。勧誘とかだったらお断りします」
ヒロコに続いてサキが蛇口をひねったように話し出した。マリは静かにしていたが一応見てはいた。女子たちは自分なりのやり方で目の前の得体の知れぬ男に警戒心をあらわにした。
「君らが不審に思うの無理もないが、まあ少し時間をくれんかね。昨夜のあれの正体は知りたいだろう。そこの店で話をしたいがどうだろうか」
昨夜の事件を話題にされて三人の心はおおいに動いた。提案された店には食べたいがやや値が貼るメニューがあることもダメ押しとなった。この男がどんなやつかは知らないが、いわば自分たちのホームで衆人環視の中おいそれと不利な状況におちいるはずがないという自信もあった。
「どのみち、そう間もなく、決心せねばならんのだ」
歩き出しながら、男はちらと一瞬だけヒロコに視線を向けたが彼女は気づかないでいた。
「するとおじさんかおにいさんかは魔界の住人だってわけ?」
「それも魔王? 世界が破滅するって?」
「正気か」
男はそういうことを率直に話した。ヒロコたちは矢継ぎ早に聞き返したが、男は平然と「そうだ」と自らの発言を短く肯定した。
「まあね、その、確かに昨日見たのは変な生き物でしたよ。うんうん。でもそれで魔界とか魔物とか魔王とかいわれても、うちらもさすがにいい歳なわけだし、はいそうですかとはねぇ」
こういうときに切り込むのはだいたいサキである。彼女は弁が立つ、というか変なところで理屈っぽい。謎の議論をぶちあげることが多々ある。それが高校の学習課程における勉学に役立てば結構なことなのだが若干遺憾な成績である。
自らを魔王と称したスーツ姿の男は特に反論も補足もしようとはしなかった。おもむろにガラス越しに外に視線を向けるとそのまましばらく平凡な駅前の情景を眺めているようで、それから感慨深げに頭を動かし「そうだろうな」とだけ返した。
自称魔王がいうことにはこうである。ヒロコたちが住む世界は魔界の住人たる魔物たちにねらわれており、彼らの目的はこちらの世界の破壊である。昨夜遭遇したグレムリンはその尖兵である。グレムリンは取り立てて超自然的な能力を発揮するわけではないが、今後はより強力な魔物がやってくることが予想される。そのときまでに、人類総力を挙げておさおさ準備を怠らないことである。
「じゃあまあ百歩ゆずってその話が正しいとしてですよ、魔王っていうのは魔界を治める立場にあるんですよね。そういうひとがどうして私たちが有利になるような情報を教えてくれるんですか」
ヒロコの問いかけにすぐには答えず、男は相変わらず窓の外に視線を向けている。いまは景色というよりは空か、あるいはもっとずっと遠くの彼方へ思いを馳せているようであった。
「それは話せば長くなる」
「いいから」
「ざっと四百億年前になるが……」
男の態度はあくまで冷静沈着であり、話しぶりは悪ふざけしているようでもないのだが、途方もない数字を出されてさすがに女子三人はそろって呆れ顔を浮かべた。
「マリ、四百億年前っていったら何時代」
「まだ宇宙できてない」
「さすがに無理があるよね」
どうにも擦り合わせの悪い会話になんとなくしらけた空気がただよった。丁度いいタイミングで注文の品がやってきてくれたので、ヒロコたちは食べる方に精を出しながら次の間を考えたりした。
「ま、おじさんさ、どういう目的なのかは知らないけど、その話が長くなるのならまた今度にしてもらって、そのグレムリンとやらのことを知ってるっていうのなら生態とか退治のしかたとか教えてよ。現に見たからそれがいるのは確かなことだし、あたしの自転車もう何回パンクさせられたと思ってるの」
食べてるうちに多少はスポンサーに恩義を返そうという気持ちがわいたのか、サキが口をもごもごさせながら話をうながした。
「グレムリンは機械的な要素を分解する魔物だ。とはいえ小物で魔物にしては個体数が多い。その分、いろんなやつがいる。ねじを外すことに執着するやつがいれば、回線を切断するのが好きなやつもいる。君らが出会ったやつはタイヤをパンクさせて中の圧力を解放させるのを好む個体のようだ」
「何か魔法とかそういうのを使ったりするんですか」
「いや、何も。知能もさして高くはないし、力も体力も強くはない。たぶん銃火器でも使えばかんたんに倒せるだろう」
「でも、うちらそんなの持ってないしなぁ」
マリなら持っている可能性がゼロではないかもしれないと、サキは冗談めかした視線を送ったが「ないよ」とすげない返事である。
「警察か役場にお願いすれば自衛隊とか猟友会の人たちが駆除してくれないかな」
「そんな、まどろっこしい。それまでに何本タイヤがやられると思ってるの。話を聞く限り、弱いんでしょ、それ。ちゃっちい針金をがんばってタイヤに刺そうとする程度の相手じゃない。うちらでササッと片づけちゃおうよ。余裕でしょ。これの借りを返すつもりでさ」
いつのまにかサキはもう一品追加で注文していた。そういうことならとヒロコとマリも追随した。伝票に連なる数字は結構なことになってきたが、魔王を名乗った男はヒロコたちの浮かれた注文に困惑するでも微笑ましく眺めるでもなく、よその考え事をしているようであった。
「よし。それではグレムリン討伐といきましょうか。いいんでしょ、魔王さん」
三人とも食べ終わるとサキが威勢よく席を立った。こういうのは勢いが大切なのだ。ここでのんびり、もう一杯もコーヒーを飲めば再び気まぐれなやる気が到来するのを待たねばならないところだった。
「そうか、うむ」
サキの力強い提案に、男は無感情な応答をした。弱いとはいえ仮にもこの世ならざる魔物を、依然としてヒロコたちは男の話をほとんど信じてはいなかったが、倒すという度胸を見せたのだから、少しはねぎらいだとか感激の言葉をかけてくれてもいいものだが、と少しだけ物欲しげな視線を送りたくなった。
「ああ、そうだ。君たちにいっておくが、こちらの世界にやってきた魔物をどうこうしようが私にとっては何も関係がない。倒して欲しいわけでもなければ、倒さないで欲しいわけでもない。それは君たちがやりたいようにやってくれればいいし、その結果に対してあとから何もいうことはない」
「はあ。その、わかりました」
「容赦する必要はないってわけね。思いっきりぶっとばしてやろうよ」
「ごちそうさまでした」
腹をおいしく満たしたヒロコたちはその内容について今回の感想と次回への構想をにぎやかにしゃべりあいながら店を出た。冷たい風に迎えられるとサキが「おおおぅ」と震えて、「マフラーってそんなあったかいの」と毎年のように口にしていることをいった。
店内に一人残った男は瞑目していた。周囲の人間からすれば、何か小さな音を聞こうとしているようでもあれば、どうにもならない運命の行く末をあきらめているようにも見えた。
「これからどうなるか……」
男が席を立った。レジで店員が会計の金額を告げると、ノーリアクションの男に代わって後ろの客が唖然としてくれた。
「さあ、グレムリンのやつがいるかどうか。いたらどうしよっか。蹴っちゃおうか。素手で触りたくないし」
「生け捕りにすれば研究所とかそういうところがなんかうまいことやってくれたりしないかな」
「家から軍手とか金属バット持ってくればよかった」
三人は電車内で対グレムリンに向けた作戦と呼ぶのもおこがましいとりとめのない無駄話をした。最終的に三人で囲んでどうにかすればどうにかなるのではないかという結論に達したところで駅に着いた。
無人駅のホームにばらばらといくらかの乗客が降りた。ヒロコたちはそれらの最後に改札を通った。殊更に正義にもとるような恥じ入る行為をするわけではないのだが、それなりの歳をして超常識的な行為に巻き込まれるところを第三者に見られるのがどうにもばつが悪く感じられた。
「そういやサキ帰りはどうするの。パンクしたのに乗って帰る?」
「あーどうしよ。迎えに来てもらおうかな。ちょっといまメールしとく」
「それまでに終わらせよう」
自転車置き場の暗闇を死にかけた蛍光灯が今生最期の光といった風情で照らしている。どうにも陰気でやりきれなく感じることもあるが、年の暮れへと向かうシーンの一つとしては相応にも感じられた。
スマホで照らしながら置き場内を三人であらためていると、ヒロコは前回と同じような気配を感じた。何かを叩くようなこじるような物音が聞こえる。すると、相手もこちらの存在に気づいたらしく、ぴたりと物音がやんだ。
音がした方へそろそろと近づいてみると、記憶にも新しい異形の生物がヒロコたちに挑むような視線を向けてきた。ただし昨夜とは異なることに、グレムリンが手にする得物は要領の悪い金属棒ではなく、どこで手に入れたのか小さなナイフのようなものになっていた。
魔王と称する男の前では勢いで空元気を見せたものの、さすがに現物を前にしてヒロコたちも慎重になった。まして、現在の相手は刃物を持っている。話が違うではないか。グレムリンとやらがどれほどの膂力を持っているのかは定かではないが、かするだけでも痛かろうし、万が一急所でも刺されれば一巻の終わりとなりかねない。
「ね、やっぱりやめようよ」
「ちょうどそう思ってた」
「いや、早すぎるでしょいくらなんでも」
サキが苦笑を浮かべながら逃げ腰と興味関心ゼロのヒロコとマリを制した。サキは二人の発言を冗談だと受け取ったのかもしれないし、この状況自体を冗談のようなものだと思ってるふしがある。
とはいえ、無策に突っ込むのが賢いやり方とも思えない。ひとまず間合いを保ちつつ頭をはたらかせた。得物を変えたとはいえ、いまのところグレムリンはこちらに襲いかかってくる様子はない。
ヒロコたちはにらみ合いを続けた。
グレムリンは前回の遭遇ではおどろいてあっけなく逃げたようである。サキがタイヤを何度かパンクさせられていたらしいがたいした話題にはなっていないし、この駅の周辺で人が怪我をさせられたという話など聞いたことがない。まして奇妙な生き物を目撃したという噂も聞いたことがない。この目の前の魔物は基本的には人間から隠れて行動する習性であり、そしてまた積極的には人間を襲うたちではないのかもしれない……。
「考えてみたんだけどさ、あれが野良猫とか野良犬だったとしてこのやり方で捕まえたりできるかなぁ」
「ご明察」
「何ひよってんのまったく。勢いだって、勢い。私のカンだけどあれはそんなすばしっこくはないよ。反応悪そうなツラしてるじゃない」
そう、あのツラが、外見が、雰囲気が、どうしても倒さなければならないという使命感のようなものを、弱そうな相手への嗜虐心だとか正体不明の対象へのとりとめのない否定などではない何かをヒロコに思わせてくるのだ。
「ちょっとこれで相手の出方を見てみようよ」
ヒロコは近くに転がっていた炭酸栄養ドリンクの褐色の空き瓶を手に取った。投げつけてみて、当たりどころよく倒せるなり(魔物も死ぬのだろうか?)気絶させるなりすればそれでよし。倒せなくとも外れても、おどろいて逃げるようならそれで相手の動きを確認できればそれでもよし。懸念は魔物が逆上して一転、憤然と襲いかかってきた場合だが――。
「そのときこそ走って逃げるわけ」
サキはいかにも熟慮の末といった表情でつぶやいた。果たしてこれは作戦と呼べるしろのものなのかという疑問が全くないわけでもなかったが、底冷えしてきたこともあり、ともあれ動いてみることにした次第であった。
空き瓶がグレムリン目がけて投げつけられた。しかしねらいは外れてコンクリートの床に直撃した。炭酸用の空き瓶は思いのほか頑丈らしくガラスの瓶は割れることなく、大きな鈍い音で静寂を破った。
「逃げた!」
「追っかけよう!」
「ちぇっ」
明らかな攻撃を向けられたグレムリンは反撃の素振りも見せず、ただちに逃げ出す行動に移った。
逃げた魔物は野良猫よりはすばしっこくなかったが亀よりはずっと速かった。平均的な女子高生の短距離走よりは遅かったが、あいにくヒロコたちの鞄の中身は教科書ノートその他いろいろで重かった。靴も衣服も全身全霊をかけて走り回るようには作られていなかった。
そういった都合のため、逃走者と追跡者らの競走はまあまあいい勝負だった。昨夜、逃げるときはもっと真剣みがあったようなのだが、いまは馴れ合うような妥協じみた態度で走っている。両者の差はじわじわと広がっていった。
「これは……ダメか……」
だれからともなく足を止めてヒロコたちは肩で息をすることになった。先の方でグレムリンがスーパーの駐車場に入っていくこところが見えたのだが、もはや追いかける気にはなれない。
思ったよりはたいしたことなかったともいえるし、思ったよりも手ごわい相手のような気もした。次の作戦とか今日の晩御飯とか明日の時間割とかを頭に浮かべながら、遠巻きにグレムリンを眺めていた。いますぐどうこうするつもりもなかったのだが、なんとはなしにヒロコが不審な動きに気づいた。
「あ……ねえ、あれって……へばってるんじゃないの」
「ヘロヘロだ」
「そりゃあ、あっちも生きてるんだから疲れるんでしょ」
遠目にもグレムリンはヒロコたちと同じかそれ以上に疲労困憊しているように映った。そのまま観察していると、グレムリンはよろけながら一番近くに停車していた原付のタイヤによりかかるようにしがみついた。スーパーに出入りする客が何度か近くを通り過ぎたのだが、異形の生物の姿にまるで気づかないふうに通り過ぎていった。
ヒロコたちは白い息を吐きながらその様を眺めていた。グレムリンはタイヤを叩いたり引っかいたりした。ああいう生き物の感情の機微などわかるはずもないのだが、その行為には焦燥感がにじみ出ていた。例えば水中で空気タンクがからっぽになって周章狼狽している人のような動きに見えた。不完全な表現がいくつか浮かんだが言葉にするのが億劫でヒロコは黙って観察を続けた。
暗がりと遠目のため、よくは見えなかったがグレムリンはタイヤに刃物を突き立てようとしているらしかった。思うようにいかないのか、何度も腕を上げ下げしていた。
「あれ何やってるのかな」
「パンクさせようとしてる感じだけど、いますることかって気はするね」
「悪いやつだ、あいつは」
グレムリンの行為を止めた方がいいのかもしれないが三人とも気力が尽きていた。それに、半狂乱の様相で刃物を振り回している敵に近づくことが利口なやりかたにも思えなかった。
しかし義務感というか収まりの悪さというか、一応は結末を見届けてから帰った方がいいような気もしていた。携帯電話のカメラで撮影してみたがほとんどまともに映らなかった。
突然、破裂音がした。わずかに退屈しようとしていたところ、不意の衝撃にヒロコたちは反射的に顔を上げた。どうやらグレムリンの野郎は目的を達成したようだった。小さな魔物は精根尽きたといったざまで崩れ落ちるようにして駐車場のアスファルトに突っ伏した。
「し、死んだ……?」
「のかな。うん、でしょう。これで一件落着。ふう、ま、なんだかよくわからなかったけど、とにかくうちらの勝ちってわけね。いやー、よかったよかった。あたしもタイヤも浮かばれるってもんよ」
サキが大げさにガッツポーズをして見せた(それは古式ゆかしい万歳ポーズに似たようなやつだ)。グレムリンに対して直接的に何かやったわけでもなかったのだが、しかしまあ、あれだけ体を動かしたのだから自分たちが倒したといってもいいのではないかと女子三人は軽く満足した。
それから念のためにグレムリン(いや、この場合は故グレムリンとか元グレムリンだ、とマリ)の死骸を確認して、状況によってはどこかしかるべきところに通報しておこうかと話し合った。
新聞とかに載っちゃったりしてね、などと軽口を叩きながらグレムリンのもとへ向かった。グレムリンはうつぶせに倒れたままピクリともしない。その隣でやはり原付のタイヤはパンクさせられていて、空気が抜けてぺしゃんこになっていた。
おそるおそるサキがグレムリンを足で軽くつついた。「どう?」と聞かれるとサキは「わかんない」と答えた。ついでに刃物を蹴って排水溝に落としておいた。
すると、やにわにグレムリンが起き上がった。片足立ちに近い姿勢になっていたサキは驚愕でバランスを崩して転びそうになった。スーパーの客が「あんなところで騒いで若干眉をひそめるところもあるがあのくらいの年頃の連中はそういうものだ」といった視線を横目で送りながら通り過ぎていった。
ヒロコたちは飛び退くように二三歩ほど下がった。一呼吸すると若干冷静になれた気がして、ヒロコは相手を捕獲する手立てに考えめぐらせた。「網とか持ってない」と聞くと「持ってたら怖いわ」ともっともな意見が返ってきた。
スーパーでゴミ袋を買ってくるか、いや、着てるオーバーコートをかぶせてくるんで、でもこれまだ去年買ってもらったばっかりだしお気に入りだし、などと逡巡していると、グレムリンがこちらに顔を向けてきた。元々そういう造形のようにも思えるが、明確な敵意を向けてきているようにも感じられてヒロコは思わず目をそらした。
ひるみつつも身構えているつもりで警戒したが、グレムリンは攻撃してくることもなくいずこかへと走り去っていった。つい先ほどまでの死骸っぷりからは豹変して、そこそこの俊敏さで夜の闇に消えた。
ヒロコたちはその方角に視線を向けたまましばし唖然としていた。いうまでもなく、あんなのを追いかける気力なぞ体のどこにも残っていなかった。ぼんやりその場に残っていると彼女たちが原付にいたずらしたと勘違いされるおそれもあり、ヒロコたちはそれぞれの家路についた。
次の日、昼休みにヒロコたちはない知恵を出し合って少しは頭を使った戦略を練ることにした。
「今日またあれに遭遇したとしてさ、考えなしに追いかけっこしたところでおんなじことの繰り返しだと思うわけ。いや、それどころかグレムリンだっけか、あれがどこまで賢くないのかは知らないけど、ややもするとうちらに一丁前に対抗してきそうな気もするのよ」
サキがちょっとだけ怒気を含んだ口調で話した。昨夜、「あんたなんで駅で待ってないの」と迎えに来た母親に小言をいわれたそうで、その腹いせが込められているのだろう。
「でも、惜しいところまではいったと思うわけ。あれはもしかすると急激に疲れると死ぬか死にかけるか……どっちにしてもそれほどスタミナはないのかもしれないね」
サキの熱弁に対してマリは無言のまま両手の人差し指でサキを指差した。ヒロコは「一回整理してみようよ」といってノートを開いた。三人で思いつくままに出た意見を書き殴り、憶測も交えたところグレムリンについておおよそ以下のような事項が並べられた。
・道具を使うぐらいの知能はあるらしい
・動きはそれほど速くない(ような気がする)
・タイヤをパンクさせたがるのはなぜなのか?
・死にかけながらも原付のタイヤをパンクさせようとしたのはなぜなのか?
ヒロコはいくつかの疑問に引っかかっていた。タイヤをパンクさせたがるのはそういういたずらが好きという趣向で片づけてもいいのかもしれないが、それに命を賭けるほどなのだろうか。
「マリってコーラ大好きでしょ。でも、今生の別れに何がなんでもコーラ飲もうとする?」
「するね。私ならするね」
マリはノートの端にコーラ瓶の落書きをした。
「ごめん、いまのは忘れて。私が思うに、グレムリンはああでもしないと命が危なかったんじゃないのかな」
ヒロコは根拠に乏しいと思いながらも、心のどこかに確信めいたものを感じながら自らの考えを述べた。以前にそういう話を見聞きしたような体験とも妄想とも判然としない記憶があった。
「それがあってるとすれば死に物狂いで原付をパンクさせて、やつはなんとか一命を取り留めたってことか。うむむ、あのとき度胸を出して思いっきり踏んでやるべきだった」
「まあ、あんな得体の知れないのなんか踏み潰したら何がはみ出すかわかったもんじゃないし、しょうがない」
「それから、最後に逃げていくときって結構速かったでしょ」
「あれはびっくりした。死んだとばかり思ってたところだったし」
「もしかしたら原付をパンクさせたことと何か関係があるんじゃないのかなって」
ヒロコはノートに小さなドーナツ、大きなドーナツ、その横に悪そうな顔を配置したポンチ絵を描いた。
「原理はぜんぜんわからないけど、あの魔物はタイヤをパンクさせることでなんらかのエネルギーを得てるのかもしれない」
小さなドーナツから悪そうな顔に矢印が引かれた。
「サキが自転車のパンクをろくに修理しなかったみたいに、あそこの駐輪場に停めてあった自転車ってパンクしたまんまのやつが結構あったんじゃないのかなぁ。そのせいで昨夜のグレムリンはあんまりタイヤをパンクさせることができていなかったんだと思う」
「つまり腹ペコだったと」
「そうそう。それで走り回ってガス欠起こして死にそうになって、一か八か死に物狂いで原付のタイヤをパンクさせることに挑んだんだよ、きっと」
今度は大きなドーナツから太めの矢印が引かれて、更に、悪そうな顔に「パワー全開!」という吹き出しが追加された。
「なるほど。いや、なるほどって原理はわからないんだけどね。でも、なんとなくでっかいタイヤをパンクさせた方がエネルギーっぽい何かが出てくるような感じはするわ」
サキは「うんうん」とうなずいてヒロコの意見に賛同した。マリも「ほんとほんと」と調子を合わせて悪そうな顔の下に「悪いやつ」とキャプションを書き足した。
「それで私が心配なのは、あれが自転車のタイヤにとどまらず原付のタイヤでもパンクさせられる力が自分にはあることに気づいたってことだけど」
「ゴツいタイヤほどエネルギーを得られるなら、ちまちま自転車なんかねらう必要ないってことだ」
「うん、グレムリンが自転車をねらってたのは安全策を取ってたからなんだと思う。でも、これからは昨夜の一件に味を占めて原付か、あるいはもっと大きなタイヤをねらっていくようになるかもしれない」
ヒロコがノートにもっと大きなドーナツ様の図形を描いた。グレムリンはそこからどれほどのエネルギーを得ることになるのだろうか。
「まずいね。これはちょっと本気出して取り組まなきゃいけないかな」
サキが定期試験のときによくいってるセリフを口にした。つまり客観的にはいつもとあんまり変わらないやる気を意味している。
「それでヒロコ、こんなこともあろうかという作戦があったりする?」
「とりあえずは」
ヒロコは悪い顔の目に×印を入れて「やられたー」という吹き出しを更に追加した。
放課後になり、サキとマリは昨夜のスーパーの駐車場に向かった。ヒロコは秘密兵器を取りに部室に寄ってから遅れてくるとのことである。まだ外は明るかったが駐車場には冷たい風が吹きついていた。
「死ぬほど寒いすよこれは。頭おかしいのかっていうぐらい寒い」
サキは「ひょー」とか変な声をときどきあげては、手をこすり合わせたり足をじたばたさせたりした。
ヒロコが来るまでに二人で駐車場内をパパッと見て回った。昨夜の原付は停めてなかった。無理して乗って帰ったか押して帰ったか。持ち主には気の毒だがしようがない。不審がられない程度に場内に駐車してある乗り物の足元を見て回ったが、パンクさせられた自転車、原付、乗用車のたぐいは見当たらなかった。
「ねえ、やっぱりさ、明るいうちは出没しないんじゃないの、これって。ムード重視とかそういう理由じゃなくて」
「恥ずかしがりやさんだ」
「いや、それは知らんけど。けど、けどさ、いまはひっそりとちまちま活動してるあれが地道にパワーつけていって人間にびびらなくなったらどうしよっか」
「あ、人間って案外たいしたことないな、みたいな」
かような事態になったらさすがにまずいと悪いことを考えそうになったが、逆に世間一般に知れわたるところになれば警察とか自衛隊が出動してあっけなく片づけてくれるのではないかということを二人で話し合ったりした。
「ごめんごめん、寒かったでしょ」
そうこうしているうちにヒロコが学校指定の学生鞄のほかに丈夫そうな布袋を手にしてやってきた。
「部室に置きっぱなしだったやつを持ってきた」
ヒロコが用意してきたのはエアコンプレッサーだった。勝手に持ち出して怒られないのかと聞くと、元をたどれば彼女の私物であるからたぶん大丈夫とのことである。
「さすがはロボコン部、なんでもある」
「あんまり強くないけどね」
エアコンプレッサーのほかにヒロコは季節はずれの浮き輪を持ってきていた。
「えっ、泳ぐの」
「死ぬね」
サキが入れてくるくちばしを慣れた感じで適当に受け流しつつ、ヒロコは二人に作戦を説明した。
「たぶんだけどグレムリンは私たちに特別な注意を向けていると思う。いまもどこからかこっちの様子をうかがってるんじゃないかな」
ヒロコが周囲を見渡したので、サキとマリも一緒にあたりを警戒した。魔物の姿は見当たらなかったが、どこからかスーパーの客以外からの視線を感じなくもない。
「ここだとほかにお客さんもいるし、のこのこと姿をさらすことはないよ、きっと」
店には夕飯のための客がせわしげに出入りしていた。事情を知らない客らにとっては、異形の生物よりもヒロコたちの方がよほど場違いに映っていることだろう。
「そういうわけでちょっと場所を移動しよ。グレムリンのやつも私たちのあとをつけてくる、はず」
昨夜の最後の場面、グレムリンが自分に向けてきた敵意をヒロコは考えていた。あんな生き物の恨みを買ったおぼえはないが、同時にあれを恨まなければならない心当たりもなかった。お互い、初対面のはずである。しかしお互いはっきりと相手を憎み合っているように思えた。グレムリンは自分を殺したいようであり、ヒロコもまたグレムリンを除きたかった。
三人がやってきたのは資材置き場か廃棄物収集所か何かになっている場所だった。記憶の限りでは十年ぐらい前からいまのような状態になっていたはずだが、ここで具体的な作業をしている人間を見かけたことがない。あたりには稲刈りを終えた田んぼがひっそりと広がっている。
「一時期ここにコンビニができるって話があったじゃん」
「すぐつぶれそう」
サキはコンビニができていれば逆にそこを中心にこのへんにでかいマンションが建っていたはずだと主張した。そんなたわごとをマリが相手をしているすきに、ヒロコは敷地内をかんたんに見渡した。年代物のがらくたや砂利が山積みにしてあった。入口のわきには廃車らしき薄汚れた大型トラックが野ざらしで打っ棄られていた。世界の終わりまでそのまま放置され続けていそうだった。
「始めるよ」
この場所がむかしからの記憶どおりであったことを確認したヒロコは敷地の中央に陣取り、サキとマリに呼びかけた。
「で、どうなるの」
「ててーん、この浮き輪をいまから破裂させます。あ、サキとマリはちょっと離れて適当に耳ふさいどいてね。そのあと、私の図が当たればあっちの田んぼまで走って逃げることになるから」
ヒロコは自分用のヘッドホンのような防音具と眼鏡の上からでもかけられる保護ゴーグルを取り出した。サキとマリは「はあ」とか「へえ」とか返事をした。作戦の中身をしたり顔で詳しく説明しないでいるのは、思うようにいかなかったときに反動で決まりが悪いからなのであろうとサキは解釈した。よくはわからないが、ヒロコがやりたいといってるのだからやらせてあげようといって二人は見守ることにした。
慣れた手つきでエアコンプレッサーを取り回してヒロコは浮き輪に空気を入れた。機械が想像を上回る騒がしい動作音を立てたと思うとたちまち浮き輪はパンパンに膨れ上がった。
それからすぐに、物事の当然の帰結としてビニール製の浮き輪は盛大に破裂した。サキとマリだけでなく、張本人のヒロコもその瞬間にはびくりと体をこわばらせた。
「わーもうびっくりしたー」
「ちびった」
思わず息を止めていたサキとマリが一つ深呼吸をしてから、ヒロコに事の顛末を尋ねようとした。そのとき、積み上げた砂利の陰から何かが飛び出してヒロコに向かっていった。
「逃げ!」
すぐに気づいたヒロコは取るものも取りあえず道路を挟んだ先の田んぼの方へと走り出した。サキとマリも感情を整理し終わらないままにおなじ方向に走っていった。
「えっ、何これどういうことうまくいってるのこれはいま」
彼女たちはそれほど長い距離は走らなかった。目的の田んぼは道路に面した土手が人の背丈ぐらいの高さになっていて、三人は土手の斜面に身をひそめる形になった。
サキが軽く息を切らせつつもどうにかこうにかヒロコに混乱気味に事態について問いかけた。ヒロコは土手から頭を出したまま小声で「ばっちり」と答えた。マリは一人あお向けに寝転がって「しまっていこー」と平坦な声をあげた。
ヒロコが大丈夫というからにはさほど道理に外れたことにはならないとは思ったが、当事者意識にもとづいてサキも土手から頭だけ出した。
「げっ、あいつじゃん。隠れてこっちをねらってやがったんだ」
なんとなく予想はしていたが、ヒロコに向かって出てきたのは仇敵グレムリンだった。明るいところで見てもやはりその姿は人間の目には不気味に映った。
グレムリンは当然ヒロコたちが逃げていった方角を把握しているはずで、おそらくはこうして土手にひそんでいることも感づいているのであろう。しかしすぐにはヒロコたちに用はないのか、敷地内にとどまって置き去られたエアコンプレッサーを調べることに執着しているようである。
「ヒロコ、あれいいの?」
「いいはず。あ、いや、あんなやつに道具を勝手にいじくられるのはよくないけど」
いっとき眺めていると、小さな魔物は生意気にも人間のための機械の使い方を理解したらしく、「プシュ、プシュ、プシュー」と空気を噴出させる音が聞こえてきた。更に見物を続けていると、グレムリンはがらくたの山の中から一輪手押し車に使われていそうなタイヤを掘り出してきた。
「あれをパンクさせる気だよ」
「そのつもりっぽい」
「ねえねえ、パンクってなんの略語だと思う」
グレムリンの作業を眺めるヒロコは不安げな顔をしている。その顔を見たサキはヒロコよりも更に一段階不安さが増した顔をしている。マリは近くに生えている草をひまそうに裂いたりちぎったりしている。
すぐにタイヤはパンクした。距離があったことを差し引いても、案外、腑抜けた音だった。それでも、正体不明の異形の生物にとっては得るものがあったのか、グレムリンはその場でうっとうしく倒れ込んだり飛び起きたりを繰り返している。乏しい力でナイフを突き立てるよりもよほど楽に目的を達成できたに違いない。
「ここまでのところは、よし。ここからうまくいけば……。うん、それじゃあ、危ないからもう頭は引っ込めて土手にふせて待機で」
「わかった、やってみる。ああ、でもこれじゃ向こうの様子が見えないけど」
「こういうツメのあまさが、うちのロボコン部がいまいち勝ちきれないところなんだって、たぶん」
サキは「しゃーない」とだけ返した。あとは特に何もいわなかった。ヒロコとサキは日ごろの些細な世間への善行を恩着せがましく思い浮かべながら心の中でお祈りでもしておくことにした。すると、二人の頭上を棒が越えていった。
「いぇーい。ほら、ピースピース」
マリが寝転がったままスマホを取り付けた自撮り棒を伸ばしたところだった。動画の撮影を行う設定にしてあるらしく、ヒロコたちに向けた画面にはグレムリンが大型トラックに挑まんとしている様子が映し出されていた。
三人は小さな画面を凝視した。なかなかに無理のある姿勢ですぐに首が痛くなってきたが我慢した。グレムリンはしばらく品定めでもするかのようにトラックの周りを眺めていた。それから、お眼鏡にかなったらしい一本のタイヤを、収穫物を誇るかのようになでたり叩いたりした。
「まずくない、あんなでっかいのをパンクさせられるのって」
サキの心配のとおり、グレムリンはエアコンプレッサーを使って巨大なタイヤをパンクさせることに取りかかっているようだった。被写体との距離に加えて小さな画面のせいではっきりとはしないのだが、タイヤが徐々に膨らんでいっているように思えてならなかった。
「耳ふさいどいてね」
ヒロコは防音具を装着すると、両手で耳をふさぐマリから自撮り棒を受け取った。サキは歯を食いしばってスマホを凝視している。マリは目をつぶって口を開けている。
最後の瞬間、トラックのタイヤがいびつな形に膨らんだのが見えた――。
すさまじい轟音が鳴り響いた。雷が落ちたような衝撃が身をすくませていたヒロコたちの頭上を疾走していった気がした。すぐに周囲は閑静な田園風景に戻ったが、三人とも数秒ぐらい神妙なおももちで姿勢を保っていた。
「スマホ、見よ」
マリがヒロコの袖をくいくいと引いた。ヒロコは自撮り棒を爪が食い込むぐらい強く握りっぱなしだったことに気づいた。気をゆるめて三人そろって仰向けになり、ついいましがた撮ったばかりの動画を確認した。
時間を進めて、タイヤが膨らんできたところから始めた。グレムリンの野郎は喜色満面といった風情でいる。表情などわからないぐらい小さくしか映っていないことに加えて、魔物の心情など知る由もないので全くの邪推ではあるが。
「ここらへんまではちゃんと見てたわけよ」
「あ、ほら、タイヤが膨らんできた」
「おー」
動画の中でタイヤが破裂した。破裂したというよりもスマホのコマ数の関係のためか一瞬のうちに跡形もなく消え去ったように見えた。ホイールカバーがどこかへすさまじい速度で飛んでいく残像がかろうじて残っていた。尋常ではない威力を目の当たりにして、サキとマリは言葉を失っていた。それを仕組んだ張本人とはいえ、ヒロコも若干引いていた。やはり機械は安全に使おうと改めて肝に銘じた。
「で、ヒロコの作戦ではこいつでグレムリンを吹き飛ばそうって寸法だったんでしょ」
「うん。どうだったかな、うまくいったかなぁ」
爆発の間際まで、グレムリンは限界まで高まった魅力的な圧力を前に何を思っていたのだろうか? ともあれ敵の最期は動画では判然としなかった。タイヤが破裂した瞬間の近傍をコマ送りにして確認したが、体がかすかにゆがんだような絵が一コマ見つかっただけで、次のコマでは影も形も消え去っていた。
木っ端微塵にでもなったか派手にぶっとんだのか。みんなで「ああいうのは部屋に出た虫といっしょではっきりさせないとおちおち眠れない」といった。さすがにもう危険もなかろうと判断して、ヒロコたちは付近を調べることにした。エアコンプレッサーは故障していた。トラックは少し傾いていた。こんなことで新聞に載るはめにならなければいいがとヒロコは軽くため息をついた。
ふと、背後で何かを引きずるような音が聞こえた。とっさに振り向くと、あちこち負傷したグレムリンが地面にはいつくばりながらも体のまだ動く部位を使ってヒロコたちへ近づこうとしていた。あの衝撃をまともに受けて吹っ飛ばされたようだった。グレムリンの体からは青白く光る液体のようなものが漏れ出していた。液体はすぐに蒸発か何かをするらしく、漏れ出すそばから空間へ紛れるように消えていった。
おそらく死ぬのだろうな、とヒロコたちは感じた。漏れ出す液体の量が少なくなってきた。ヒロコたちは黙って見ていた。そのうち、グレムリンは地面に突っ伏して完全に動かなくなった。グレムリンだったものの残骸は次第にあいまいに見えてきて、やがて青白い液体とおなじように雲散霧消していった。
「死んだのかな……」
「だと思う。なんにも残ってないけど」
「えらかった」
万事うまくいきすぎるぐらいだったのだが、三人とも純粋に歓喜するような気分にはなれずにいた。達成感よりも精神的な疲労感の方を強く感じていた。「ま、ともかく良かったよ」とサキが努めて威勢よく区切りをつけた。暗くなってきたこともあり、そのまま現地解散となった。
その晩、ヒロコが見た夢は死ぬ間際だけではなく、もう少しだけ長い話だった。ヒロコは大勢の動物と一緒にいた。イヌかネコか、あるいはそのたぐいの動物のようだった。いつのまにかヒロコもおなじ動物になって走っていた。閃光――。そのあたりで目が覚めた。夢と現のはざまで悲しい感情がわいたが、すぐに夢の内容とともに忘れ去った。
「ひさびさ自転車乗ったけど、辛いね、寒い時期は。不思議なもんでさ、いっつも向かい風なのよ、行きも帰りも」
「坂道も」
「そうそう、いっつも上りばっかりでいやになるわ、ほんと」
魔物を倒して一夜明けたところで特に変わったことはなかった。新聞に載ることもなければ、学校からの呼び出しや警察の取調べを受ける不幸も起こらなかった。サキは平素とおなじく思いつくままにしゃべって、マリは気の向くままにしゃべっていた。そういう女子だった。
放課後、駅前に自称魔王の男が立っていた。男の中で何かの基準があるのかは知らないが、今日は修験者の装いをしていた。
「グレムリンを倒したようだな」
ヒロコたちが近づくと、男は笠を上げて話しかけてきた。あいかわらず男の口調からは感情を読み取れなかった。
「なんとかなりました」
「まったくもう、おじさんにも見せてあげたかったよ。うちら、すごいがんばったんだからね。でもまあ、魔物っていってもあの程度ならどうにでもなるんじゃないの」
マリは余所見をしているように見せかけて軽くうなずいた。彼女なりにちゃんと参加はしていた。
「それはよかった。ところで、このあと時間があるならもう少し話しておきたいことがあるのだが」
男はヒロコを少し無遠慮に見てきた。
「すみません、今日はこのあと用事がありますので」
「ごめんね、魔王さん。ヒロコが行きたいお店があるって。またねー」
「サイナラ」
ヒロコたちは溌剌と男と別れた。女子三人はだらだらふざけあいながらどこかへと向かっていった。夕日で長く伸びる影が見えなくなるまで、男はヒロコたちの行方を眺めていた。
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