2日目 「ウミユリ」
それは――確か失恋した直後のことだったから――俺が大学三回生のことだ。視界に突如ウミユリが住みついた。
はじめは幻覚か何かだろうと特に気にも止めなかったが、ウミユリのほうはそれが大層気に入らないらしく、たくさんある腕を踊らせては自己主張してくる。
「おい、俺の見るものの邪魔をするな」と怒鳴ってみたが、ウミユリは返事なんかせずうねうねと揺れる。……そもそも聞く耳があるのかすら知らない。
なんとか除去しようとあれやこれや試してみたが軒並みダメだった。
一方のウミユリは抵抗する素振りもなく、ただ腕をゆらゆらとさせる。
それ以外に特に害はないので、仕方ないと半ば諦め、普段通りの生活を送った。
夏の夜。研究が上手くいかずむしゃくしゃしていた。
おまけにウミユリの腕が集中力を散漫させるため、気分転換に外に飛びだした。
しかし外は夏祭り。落ち着くような空気ではない。
曇った空がそれを中和してくれたが、屋台の提灯は目に痛々しい。
肩にぶつかるカップルがこのまま川に転倒して濡れてしまえばいいと舌打ちをしながら、独り囃子の中を練り歩く。
途中からは花火も打ち上げられたが、この天気でははっきりとしない色が雲の輪郭に映るだけだった。
金魚すくいの文字が目に留まり、所狭しと泳ぐ金魚を眺めようとした。
水槽のなかはなんとも奇妙だった。金魚のほか、ザリガニ、ドジョウ、コイ、なぜかマダイやサメなどの海水魚が混じっている。
怪訝そうにしている俺に店主が、
「お主、何か取り憑かれておるな? そんな素振りをみせておる」
と気持ちの悪いことを抜かしてきた。しかしそれは正しく、実際に俺の眼球にはウミユリが居候して、元気に揺らめいている。
店主に旨を伝えると、店主は憐れな目付きで、
「ウミユリか……奴らは不憫なんじゃ。常に孤独で、餌を欲しては腕を必死にうねらせておる。暗い、冷たい、海の底で、じゃ……。ただ奴らは海底を歩く。歩いて仲間や餌のあるところを懸命に探そうとする」
俺の眼を見つめて、
「……お主はどうじゃ?」
閉口する俺の返事を待たずして、
「どれ、儂が取り除いてやろう」
そういうや否や、店主は俺の目に釣り針を投げつけてきた。
一瞬のことに避ける術のもなく、俺の眼球に針が刺さったが、不思議と痛みは感じない。
釣り針は眼中で上下に揺れ、ウミユリの腕を引っ掻けると勢いよく視界から消えていった。
店主の方をみると、さっきまで俺の眼球にへばりついていたウミユリが店主の手元でうごめいていた。
「これは儂が預かっておこう」
店主は乱雑にウミユリを水槽に投げ入れると、
「ウミユリみたいになるんでないぞ」
と喝に近い声音で言った。
一連の出来事に脳がついてこれなかったが、どこか今まで見ていた世界が違って見えた。
……そうか今までウミユリが邪魔していたからか。
楽しそうに会話するカップル。はしゃぐ親子。
彼らに混じって俺は独り祭を楽しむことにした。
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