第112話 潮時

 須藤はきまり悪そうな表情を浮かべました。


「妻と終わっていたのは事実だよ。今さら修復なんて、できるわけがない。それは変わらない・・・」


 私の言葉は彼には不快だったのでしょうか。あるいは図星であったのか。視線を落として、呟くように彼はそう告げました。


「でも須藤部長は、離婚される気はないのでしょう?いつだって私よりも、家庭を維持することが大事だったじゃありませんか。娘さんのことで、奥様が須藤部長とやりなおす気持ちになったのなら、良い機会でしょうね・・・」


 須藤は、彼の妻と向き合うことからずっと逃げ続けていたのでしょう。おそらくあの奥さんも、逃げていたのでしょう。ですが彼女が夫と向き合うと決めたのなら・・・須藤に力はなくとも、彼女ならば・・・


「須藤部長は娘さんのことは大切なのですよね。今がご家族と向き合うべき時・・・やり直すときなのでしょう。あのような奥様がいらっしゃるなら、私といる価値なんて・・・」


 須藤は苛立ったような面持ちで歩み寄り、私を強引に引き寄せると唇を押し付けてきました。切羽詰まったような彼の口づけに心崩れそうでしたが、いけない、と思いました。うやむやにされてしまうわけにはいきませんでした。少しの間だけキスを受けると、かろうじて顔をそらし、彼の唇を離しました。


「・・・いけません、もう終わってしまったんです。私が辛くないとでも思っているのですか?傷ついていないとでも・・・?」


 私は彼から身を離し、距離を取って告げました。悲しい気持ちでした。


「・・・奥様は、言ってくれたんです。私に、真っ直ぐに愛せるひとを見つけるべきだと。私のしてきたことを責めずに、このような関係はあなたにふさわしくない、と言ってくれたんです。」


 あの時の須藤の奥さんの私に対する態度を、許すような眼差しを思い出していました。


「不倫だとか、まっすぐではないあり方は私に合わないと・・・そんな風に、私をまともな人であるかのように言って下さったんです。


だからもう、私はあの方を裏切るようなことをしたくないんです。」


 そう伝えながら、涙がこぼれ落ちてくるのを止めることはできませんでした。あの時須藤の奥さんが私にかけてくれた言葉に心癒される思いがしたと同時に、須藤と別れるのはつらくて怖いことでした。私はこの人のことをまだ大好きでした。


「・・・須藤部長がどんなに良くして下さったか、わかっています。でも、仕方ないです。終わりの時期ということですね・・・」


 彼の奥さんが、私に良心のあることを疑わずにかけてくれた言葉は、昔の自分に力を与えてくれていました。長く追いやられていた、かつてはもっと真っ直ぐであった過去の優理香を呼び戻してくれたようでした。


「ユリちゃん・・・ユリちゃんは、それでいいの・・・?そんな風に終わらせることができるものなのかい?俺のことを好きだと言ってくれたのに・・・?ユリちゃんだけは、ずっと一緒にいてくれる人かもしれないと感じていたのに・・・」


 須藤は納得できないという様子でした。彼の声も、表情も、戸惑いと不安で混乱しているかのようでした。


「・・・ユリちゃんに、尽くしてきたつもりだよ。まっとうな形ではなかったかもしれないが、俺なりに一生懸命ユリちゃんのことを愛していた。仕事でも、いつもユリちゃんには特別にした。ユリちゃんが喜んでくれそうなことはなんだって・・・」


 彼は再び私に歩みより、手を握りました。すがるように、問いただすかのように彼は私を見つめました。私はもう、なにも答えられませんでした。なすすべもなく、言葉を失くしたまま彼を見返しただけでした。須藤の目に、絶望の色が浮かびました。


「そんなの・・・だめだ・・・」


 納得のいかないような、怒っているかのような口調でした。


「俺は・・・じゃあ俺は、どうすればいい・・・?」


 須藤はソファーに座り込んで顔を覆いました。疲れ切ったかのような、怖がっているかのような哀れな姿でした。

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