第110話 報い
彼女が私に望んだことを、私はすべて受け入れました。
須藤と別れ、会社を辞めること。
職を失うことは、須藤を失うことよりも、私にとっては最悪の事態でした。
なりふりかまわず、この身を差し出す覚悟で手に入れた正社員の座。上司の愛人になることも
私にとって、すべてを失うに等しい報いでした。
ですが選択肢などありませんでした。須藤の奥さんは限りなく慈悲深く、限りなく冷酷でもありました。
彼女の私への対応に、魂を抜かれたようになっていました。とてもこの人にはかなわないと悟り、なすすべもありませんでした。
彼女の携帯に入れられた、私が裸で眠っている何枚かの写真を見せられました。
血が凍りつくようにぞっとして、気が遠くなりました。須藤に写真を撮られていたのです。
ホテルの一室であったり、私の自宅で撮られたものもありました。あからさまな裸体でこそなかったものの、肩や背中が露わな状態で、いかにもことの直後であるかの様子を感じさせられる代物でした。
そんなものを突き付けられた私のどれほど立場のなかったことでしょうか。頭が真っ白になるとはまさにあの状態です。何も考えられず、言葉を失い、身をすくめて黙り込むしかなかったのです。
「私は、夫のことで嫉妬することなんて、もうないと思っていたの。すでに慣れきってしまって、心も冷え切っていたから、もう好きにしてもらえばと思っていて。私の方も自由にさせてもらっていたし、普通より余裕ある暮らしもできていたし、生活さえできていればもう構わないかなって・・・」
淡々と、呟くように須藤の奥さんは話すのでした。
「ずっと昔に諦めたつもりだったの。もう傷つけられることもないと思っていた。」
冷めた口調で、彼女はスマホを持つ手元へ視線を移しました。
「でも、そんな私なのに、あなたには嫉妬していたの・・・びっくりしたのよ。私にそんな気持ちが残っていたなんて・・・」
少しだけ熱を帯びた口調で、まるで面白いことでもあったかのようにその人は語りました。決して感情的ではないところが、不気味でもありました。
「ちょっと、新鮮だったの。」
彼女は薄く笑いました。ぞっとするような、どこか狂気すら思わせるような不思議なほほえみでした。その笑顔の裏に、どれほどの傷や悲しみが、絶望や諦めが積み重ねられていたのでしょうか。
「この写真はほんの一部で、もっとすごいのもたくさんあったけれど、あなたに見せる分には選んだ方がよいと思って。」
少し意地悪な風に、皮肉っぽく彼女は呟きました。言葉では私への配慮を示しつつも、まだいくらでも、ひどい写真があるのだと脅されているのだと感じました。
「あなたの写真・・・それはもうたくさんあったの。夫がどれほどあなたに夢中だったか感じられた。それが長続きしていたものか正確にはわからないけれど、あなたは特別だったのでしょうね・・・」
彼女の携帯に示された、無防備に眠り込む裸体の自分を忌々しく眺めました。須藤は私の写真を撮っていた。そのデータはすべて彼の妻に渡っていた・・・そんな状況がこの身に降りかかるとは。
彼女は私にどれほどの復讐をできたはずでしょうか。ですが彼女が口にしたのは脅しの言葉ではありませんでした。
夫はずいぶんとあなたの写真を撮っていたけれど、知らなかったでしょう?パソコンの中のあなた専用らしいフォルダと中身はすべて、消しておいたから、と言われました。
須藤と私とのメールとのやりとりも知っていたようでした。読ませていただいたけれど、本当にどうしようもない人でごめんなさい、と彼女は言いました。
彼女は自宅にある須藤のパソコンを調べさせてもらったと言いました。彼のパスワードは、昔から知っているとの事でした。
私達のことを、彼女はずっと知っていたのです。須藤も私もなんと間抜けなことでしょう。おそらく彼の書いた卑猥なあのメールも、彼女が読んだのかと思うと死にたくなりました。
すべては彼女が放置するか、介入するか。そしていま、彼女が現れたのは、娘さんの問題が起きたために重い腰をあげることになった。須藤と私の関係とは、その程度のものでしかありませんでした。
彼女が示した条件は冷酷かつ、優しくもありました。
彼女は私に慰謝料を請求するつもりはないと告げました。
かつ、私が職を失うことを何よりも怖れているのを承知の上で、近く迫っていた、会社が社員に対して希望退職を募るそのタイミングで辞めれば良いと促してくれました。その時期まで待てば、退職金は大きく上乗せされるのと、自己都合で辞めるよりも雇用保険の失業手当がすぐにもらえるというメリットがありました。
彼女の言うなりになるしかありませんでした。私の写真を会社やネットの世界へばらまくと脅されはしませんでしたし、そんな下卑たことをする人間性ではないと思いつつも、その気にさえなれば彼女がそうできる立場であることは脅威に違いありませんでした。
会社を辞めることは、もはや避けようもない事態でした。
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