第106話 微笑
「私は紅茶にします。好きなものを選んでください。」
メニューを手渡され、言われるままに目を通しましたが気もそぞろで何かを選べる心持ではありませんでした。何も考えられず、コーヒーにします、と小さな声で告げました。
彼女がお店の方へ注文を終えると、私はまな板の上の鯉にでもなったような気分でした。須藤の奥さんの方を見ることもできず、無言で目を伏せていました。
「・・・いずれ、お会いしてみたいと思っていました。でも、いつの間にか遅くなってしまって。もっと以前から桜井さんのことは存じておりました。」
私はほとんど怯えながら、そっと目の前にいる人の表情をうかがいました。彼女の言葉にショックを受けつつも、その意図するところはわかりかねました。
「いきなり、驚かせて申し訳なかったですね。私もずっと、夫とあなたのことを知りながら、見て見ぬふりをしてきましたから・・・」
その人は淡々と語りました。その言葉には激しい怒りや、憎しみなどは含まれていないように思われました。多少皮肉めいた響きもありましたが、ただ事実を述べているという程度にしか聞こえませんでした。
私は不可解な気持ちでその人を見返しました。自分から言葉を発することはできないまま、彼女が話し続けるのを待ちました。
「・・・夫から、私のことをどのように聞いているのかわかりませんが・・・いえ、本当はなんとなく想像はつきますけれど、確かに私たちは、到底気持ちの通じ合った夫婦関係ではないんです。家で話すのも最低限で・・・互いに避け合っているようなところがあるのも事実です。」
率直な彼女の言葉に、いつしか耳を傾けていました。須藤が家族から疎まれていると口にしていたことを思い出しました。須藤の言うことは話半分程度に聞いていましたが、当の奥さんから聞かされてしまうと複雑な思いでした。
「私はもう、好きにしてもらえればと思っていたんです。お金さえあてにできれば、それ以上は望むまいと考えるようになりました。それで実際、お互い楽になれたと思っていたんです。夫は家事や料理に関してうるさいことも言いませんし、私や娘に対して横暴な態度や言葉もありませんから・・・
あなたのことや、他の女性たちのことなど、あの人にとっても負い目があるからでしょうか、家でもどちらかと言えば物分かりの良い夫で、娘に対しても優しい父親だと言えるほどなんです。」
私は不思議な気持ちでその人を見つめていました。彼女のような感性が、私にはわかりかねました。須藤はやはり浮気を重ねていたようでした。それを、奥さんも認めて諦めてしまっている・・・
かつて元夫の浮気を知って家を飛び出した私とは、異なる選択でした。娘さんがいたからなのでしょうか。確かに気持ちがわからないでもありませんでした。私も貴之から追い詰められていても、ひとりで生きる自信が持てず、何年も我慢したうえでの選択でした。お子さんがいて、働きに出ることも難しい状況ならば・・・とはいえ彼女のように、割り切った考えに至るものかと不思議に思いました。
「そんな目で見ないで下さい・・・私も、昔からこんな風に思っていたわけではないんです。もっと若い頃は、あの人のすることに傷ついていたし、許せなかった・・・でも・・・まあ、いろいろなことがあったんです。夫をひどく憎んでいる時期もあったし・・・
今は、そうね・・・嫌いで、憎んで、諦めて、でも感謝しているような存在かしら・・・」
私はその人の話すことに聞き入っていました。不可思議な、哀しい夫婦のあり方のように思えました。気の利いた返事などできないまま、沈黙してその人を見つめていました。
「優理香さん、あなたって不思議な方ですね。私、こんなにあれこれと話すつもりなんてなかったのに・・・あなたは口を閉ざしたままなのに、あなたの目を見ていると、なぜだか言葉をつないでしまって・・・」
その女性はかすかに笑いました。この上なく奇妙で、どことなく親密な、不思議なほほえみでした。
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