第103話 亀裂
会社の仕事への気持ちはそれなりでも、安定した収入が得られますし、待遇も悪くありませんでした。上司は優しく理解があり、財力もあって私を潤わせてくれました。さらにやりがいのある副業を持つことができて、充実した日々を過ごしていました。
不倫を続けているような自分が日々を楽しみ謳歌するのはいかがなものかと思われそうですが、須藤との関係のみですと滅入りがちだったのが、英語の仕事をするようになって精神的にずいぶんと安定するようになっていました。
元夫の貴之や、その他の取引先の男性に声をかけられても、英語の仕事や準備があるので断れるようになりました。貴之とは特殊な関係でもありましたが、会う頻度は次第に減ってゆきました。
英語仲間や生徒さんたちと一緒に過ごす時間が増え、好ましい人間関係に恵まれていました。いずれは不動産を持ち、その収入と英語の仕事だけで生活するという目標もできて、それまでどこか暗く陰りのあった日常が明るく色づいたように楽しく日々を過ごしていました。
自分の恵まれていることにすっかり良い気になっていたのかもしれません。そのように舞い上がった気持ちでいても、所詮はかりそめの日々でしかありませんでした。
私の偽りの幸せが覆される時はもうすぐそこまで来ていました。
これといった予兆もないままに、いきなりその日は訪れました。
ある夕方、私は会社で事務処理をしていました。その日は水曜日で、残業せずに帰る予定でした。須藤は東京へ出張中でした。
携帯に知らない番号からの着信がありました。それもよくあることでしたから、特に構えもせずに受けました。
はい、桜井です、といつものように答えました。後になって思えば、出た後にわずかな間のあったことが、ふだんとの微かな違いであったとも言えました。
「・・・桜井優理香さんでお間違いないでしょうか。私は、須藤裕司の妻ですが。」
聞きなれない女性の声に言葉を失いました。なんと答えて良いのかわかりませんでした。
「・・・須藤裕司の妻の美沙子と申します。突然お電話してしまって申し訳ありません。」
穏やかな、気遣うような口調ですらありました。私は茫然としたまま、何も考えることができませんでした。半ば途方に暮れつつ、なんとか言葉を返しました。
「・・・お世話になっております・・・」
まるで彼女が取引先でもあるかのような、いつもの挨拶をするのが精いっぱいでした。
「私に、ご用件というのは・・・」
声を絞り出すために気力が必要でした。
「・・・今日、お会いすることは可能でしょうか?お仕事の後にでも、お話できたらと思っています。会社のすぐ近くに来ています。」
全身から血の気のひくような感覚でした。もうこの女性はすぐ近くにいると想像しただけで息が止まりそうな気がしました。
「・・・大丈夫です。どこでお会いしましょうか。」
わずかな気力を振り絞り、なんとか受け答えをしました。私がおおよその退社時間を伝えると、須藤の奥さんは会社のすぐ近くにあるホテルのロビーで待ち合わせをしたいと告げました。
「・・・わかりました。では、終業後すぐに・・・必ずおうかがいします。よろしくお願いいたします。」
なんの心の準備もないところへ、あまりに唐突な申し出でした。私にはそう感じられたものですが、彼女はずっと以前から私のことを知っていたと、後に知らされることになるのでした。
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