第97話 兆し

 私が本当に心を許して過ごせるのは、昔からの親友である沙也に会えた時や、英語つながりの仲間と話しているときでした。大切にすべきなのは彼女たちのような人間関係であるとわかってはいましたが、忙しい方ばかりで都合を合わせるのは簡単ではありませんでした。本当に会いたい人たちと、そうでもない人との取捨選択をうまくできないままでいました。淋しかった私は声をかけてくれる人と安易に過ごしてしまいがちでした。


 社内の人たちに須藤との関係をはっきりとは悟られてはいないつもりではありましたが、同じ部署にいる真矢ちゃんに揶揄やゆされるように、常に怪しまれていることは知っていました。明るみになって特に不利なのは自分であることを重々承知していましたから、ストレスは常にありました。


 リスクの高い、不毛な関係から足を洗って身ぎれいになりたいのに、ふたりで会うときの須藤は優しく包容力があり、私を甘やかしました。常習性のある悪い薬のような、その須藤から離れられない自分にいつも苛立っていました。


 そんな日々の中、私にもささやかな変化が訪れていました。英語サークルの仲間で、語学講師をしていた遥香さんという友人がいましたが、ある時彼女から思いがけない提案がありました。


 英語つながりの仲間たちは語学力はもちろんのこと、人間性も好ましく快活な方が多いのですが、とりわけ遥香さんは知性あふれる美人で、いつも輝いているような方でした。


 そんな彼女の属している英語教室で、個人レッスンを担当するための講師を探しているとのことでした。それを私にやってみないかと打診されたのです。週末あるいは夜の時間帯で、生徒さんと日時を調整しながらできるというお話でした。


 遥香さんが勤務する教室の英会話サロンにお邪魔したことがありましたが、アットホームで温かい気持ちになれる、すてきな場所でした。大きな教室ではありませんが、生徒さんたちの年代も落ち着いていて、優しく上品な人ばかりという印象でした。


 遥香さんにそのように声をかけられたとき、自分など無理に決まっているという思いと、それでもやはり、やってみたいという気持ちに心が揺れました。


「私は本当は、英語にかかわる仕事にあこがれていたんです・・・でも学生のとき、思うように上達しなくて、無理だと諦めました。なので、会社員になりましたけど・・・でも今の会社でも、人に教えることが楽しいと感じていたんです。」


 一時期、社内のシステムをおじさん達に教えるような役割を与えられた時がありました。感謝されることが多く、やりがいを感じられる仕事でした。


「個人レッスンを希望しているのは初心者の女性で、何度か教室に来ていただいたけど、とても感じの良い方だから・・・優理香さんなら大丈夫だと思う。と言うか、優理香さんって先生ぽく見えるし・・・向いてると思う。」


 躊躇したものの、遥香さんの申し出に強く惹かれていることは見抜かれているようでした。遥香さんは軽い調子で、できるできる、と事もなげに繰り返しました。


 基本的に、会社で副業は禁止されていたと思います。ですが女性社員の中には内緒で夜のアルバイトをしている方もいることを知っていました。須藤もずっと副業を持っていました。


 私はお金を稼ぎたいというよりも、そんな機会をもらえるならば、取り組んでみたいと思いました。語学に対してすごくモチベーションが高かったわけではありませんが、教えるという役割を与えられれば、さらに真剣に勉強できそうだと思いました。その生徒さんと予定を合わせてできるのならば、ぜひやってみたいという気持ちが強くなりました。

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