第95話 腐れ縁

 須藤との関係を続けていても気持ちの安らぐことはなく、私の心は病みかけていました。


 かつて考えていた以上に須藤に執着している自分を認めてしまってから、先行きの不毛な男との関係は私の心を滅入らせるのでした。


 仕事で彼を頼りにすることはできても、ふたりきりで会っているときも、所詮須藤は家庭ある身なのだと思うと心ふさいでしまう自分がいました。最初からわかっていたことなのに、後々になってそんなことを思い知るのは滑稽でした。


 その頃の須藤は東京本社への出張が多くなりつつありました。詳しく明らかにはされていませんでしたが、全社的に大きな動きがあり、会社の体制がいろいろ変化しようとしている時期でした。


 須藤と付き合い始めの頃は、彼に伴われ私も研修がらみの出張へ行ったこともありました。平日は他の営業社員もいましたが、土日をからめた後泊を加えてふたりきりで観光へ連れて行ってくれたこともありました。


 高校時代の修学旅行程度にしか東京のことを知らなかった私には、首都のいくつかのエリアを訪れたことは悪くない思い出となっていました。名前しか知らなかった山手線の駅の街を実際に訪れたこと、街それぞれに異なる特徴のあること、札幌のそれでは太刀打ちできない、この上なく洗練されたホテルやレストランにも圧倒されました。


 また東京にも行ってみたい気持ちになりましたが、出張であったとしても須藤と連れ立って歩くことは基本的にははばかられる行為でした。


 元夫の貴之となら、問題なく、どこにでも行けるのに、と頭をよぎりました。今の貴之ならば私が行きたいところへ、どこへだろうと連れて行ってくれそうでした。


 須藤が出張で不在のころ、私は貴之に誘われて焼き鳥のお店に来ていました。


「俺が選ぶとこういう店になっちゃうけど。」


 申し訳なさげでもなく貴之は言いました。人のひしめきあう狭いつくりの店で、カウンターの向こうでは焼き鳥の煙がもうもうとしていました。それがまた、たまらなくいい匂いなのでした。かろうじて少しだけ空いていたカウンター席へ座ることができました。


 須藤は私の身の丈には合わないような高級店へ連れて行ってくれましたが、貴之の連れてきてくれるお店も嫌いではありませんでした。昭和時代の古いビルの地下にある、ひとりで足を踏み入れるには臆するような雑然とした居酒屋なども、安くて美味しいお料理を出されれば好感が持てました。


「ところで優理香はいつ戻ってくるの?俺はいつでもいいんだけど。今日でもいいし。」


 何杯か飲んだところで、貴之はそのようなことを言い出しました。元妻を口説きだす人に、いつも鼻で笑いたくなりました。


「そうね・・・生まれ変わったら、かな。今もデートしてあげてるでしょ。贅沢言わないで。」


 私は元夫に対してすっかり高飛車になっていました。それなりに辛辣な言葉を浴びせていたはずですが、貴之は私から離れようとはしませんでした。


「慰謝料とやらを払えば戻るんだっけ?」


「慰謝料って、そういう買い戻す的な意味じゃないでしょ?離婚したときにもらうべきだったけど、遅ればせでも、払ってくれるなら喜んで。分割でもいいけど。」


 この人から慰謝料を取れそうだと本気で思っていたわけではありませんが、嫌味がてらに口にすることはよくありました。


「なんかがめついなぁ・・・優理香って変わってしまったよね。俺のせいかもだけど・・・戻ってくる前提なら払うのは構わないけど、そこが確約じゃないと痛いよね・・・」


 貴之は食べるのと飲むのがひと段落したのか、煙草を取り出して吸い始めました。私はそっと彼の横顔を眺めました。煙のにおいは嫌いでしたが、煙草を吸う貴之の姿はさまになっていて本当は好きでした。かつてこの人に夢中だった昔を思い出し、少しだけ心がしめつけられました。


「まあ、いいよ。時々は会えるわけだし。俺はいま、彼氏みたいなポジションなわけ?それもまあ、悪くないかもだけど。」


 上に向かって煙を吐くと、貴之はそんなことを言い出しました。


「そうね。清い関係での彼氏ってことでいいんじゃない?」


 皮肉意外のなにものでもありませんでしたが、表情だけは優しく笑顔で答えました。


「じゃあ優理香、こんど温泉でも行かない?旅行もいいよね。沖縄は覚えてる?俺、最近また行きたくなって。優理香が休み取れそうなら、俺が合わせるから・・・」


 旅行など、結婚していた頃は忙しいとか休みが取れないとか、この人から計画したことなどなかったのに。この有様なら、私が何か頼めば嬉々としてかなえてくれそうでした。


 その気になれば、私はこの人を利用することができる。気まぐれに振りまわすこともできる。


 そう思うと少しずつ恨みが晴れてゆくような気がしました。ですがこの人と、もう深い関係になる気はありませんでした。

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