第87話 須藤の反応
須藤はひとまずは私の話を聞いてくれていました。ですが腑に落ちない風な表情をすることもありましたし、私の言うことを全面的に信用してくれているわけではなさそうでした。
私には切り札もありました。佐藤氏が私に告げた、屈辱的な言葉を録音したものもありました。何度も嫌な思いをさせられていたので、レコーダーを購入し、何かの時のために録音しておこうと思い立ったのです。
ですがそれを使うのは、私にとっても怖いことでした。その録音を聞かせたとしても取り合ってもらえなかったとしたら。須藤にも、会社の上の人にも、騒ぐほどのことでもないなどとあしらわれて守ってもらえなかったとしたら。それどころか、そのように相手とのやりとりを録音した私自身が、責められかねない可能性もありました。
その録音を聴くこと自体が滅入ってしまうことなので、できれば使わずに済ませたい代物でした。
「・・・ユリちゃんが大変な思いをしていたというのはわかった。話してくれてありがとう。」
須藤はなんというか、大人の対応といった風情でした。私も一通り話したところでわだかまっていたものを吐き出せて、いくぶん落ち着きを取り戻していました。
「今まで気付けていなくてすまなかった。他にも苦労していることがあれば、俺に言ってくれて良いから。」
彼は気遣うような表情で告げました。私がこの部署へ来たばかりの頃の、保護者のような佇まいで受け止めてくれたようでした。
「佐藤さんのところの担当を変えるのは問題ないよ。近いうちに、俺の方に戻せばいいだけだから。ただ、そのことで営業の仕事すべてを嫌だと思ったり、投げ出してしまうのは短絡的かもしれない。」
どうやら、嫌な担当者とは離れられそうな流れでした。私にとってはやや深刻に悩んでいた件でしたから、心の重荷がいくぶん軽くなったように感じられました。ですが部署を変わりたいという願いは、簡単には進みそうにない風向きでした。
「ユリちゃんは、営業経験としてはまだまだ短い期間だから・・・それで、自分に向いていないとか決めつけるのは早すぎるね。俺だって、まともに仕事ができるようになるまで何年も・・・いや、10年以上はかかったと思う。だからユリちゃんは、俺の駆け出しの頃に比べたらずっとよくやっているよ。」
営業から別の部署へ・・・それはおそらく難題でした。私は初めから、社員にさえなれたなら、いつかは異動のチャンスが訪れるかも知れない。そんな淡い期待を抱いていました。
ですがそれは、少なくとも何年かは実績を積み重ねた上で、須藤がわざわざ作ってくれたポストでそれなりの売り上げを果たしたところで慎重に進めなくてはならない件でした。人事異動は半期ごとに行われていましたが、営業社員がポストを動くのは、営業部内で課が変わることがあっても、内勤へ異動するケースはほとんどありませんでした。
ですから、相当深刻な事情がある場合や、よほど強い力が働くとか、なんらかのタイミングの合わない限りは難しいことに違いありませんでした。
その頃は私が営業職となって、2年も経っていませんでした。しばらくは、いまの仕事のまま留まらなくてはならないとしたら、心陰る思いがしました。
「そんなに深刻に考えないで、困ったことがあったら俺に相談して。できるだけのことはするから。ユリちゃんは成績も悪くないし、この調子で続けられれば問題ないよ。」
須藤は私の話をきちんと聞いてくれたのでしょうか。佐藤氏の件では対処してくれそうでしたが、部署を変わりたいという願いは聞き入れてくれる気配はありませんでした。私は失望を隠すことはできませんでした。
「・・・お時間取らせてすみませんでした。今日はもう帰ります。」
話し終えると、私は帰り支度をしました。須藤は何か言いたげに私を見つめていました。
「ユリちゃん。次の土曜日は行っても大丈夫?ずっと行きたかったけど、このところ忙しかったから。」
ふと口調を変えて須藤が尋ねてきました。須藤はしばらくの間、週末は私の家に来るとも来ないともはっきり言わなくなっていました。私も土日のどちらかは予定を入れるようになっていました。
「・・・土曜日は、もう予定を入れてしまったんです。日曜日でしたら大丈夫です。」
少し申し訳ない気持ちにもなりましたが、以前から、彼から特に何も言わない場合は、予定を入れても構わないと告げられていました。
「そう。じゃあ、日曜に行くから。また何かあったら聞くからね。」
須藤は気遣うように私を見ました。
「わかりました。お気遣いありがとうございます。お先に失礼します。」
久しぶりに彼とまともに話したような気がしました。彼が心を向けてくれているのを感じました。
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