第82話 愛の亡霊

 なぜ泣いたりしてしまったのでしょうか。貴之を前にして、こんな風になりたくはなかったのに。ただ冷ややかに、冷徹に彼と対峙たいじして、私に近づこうとする彼をねつけるつもりだったのに。


 あの頃の、貴之を愛していた頃の優理香が泣いていたのでしょうか。ですがかつての優理香は既に別人になったはずでした。


 ―この人が私を探しに来るのを、私は、本当は、心のどこかで・・・


 あの頃、貴之を拒絶しながらも、心の奥底のどこかで、密かに待ち焦がれた優理香は絶望して死んだも同然でした。その亡骸なきがらもいつしか心の闇深くへ押し込められ、知らぬふりをされました。今の私はその哀れな優理香の仇を討つべきでした。


「・・・そんなの、無理だから・・・」


 私は俯きながら立ち上がり、逃げるようにその場を後にしました。店を出てすぐのビルの中に入りこみ、階段を駆け上がりました。冷静でいられなくなっていた私はただ逃げることしかできなかったのです。


 やはり、貴之と会うのはまだ、普通ではいられない。癒えない傷が広がってゆく・・・


 あの人を前にすると、自分が自分でなくなってしまうようでした。


 ―憎んでいる。憎んでいる。許すことなんてできない。


 それなのに、心のどこかに、私の内側のどこかに、あの人にすがりつきたくなっている自分がいる・・・認めるわけにはいきませんでした。貴之を目の前にして、無条件にこみあげてくる愛しさをねじ伏せなければ、私は溶けて崩れてしまう。少しでも心を許してしまえば、あの優理香はまた餌食になるのに決まっているのです。


 それに私はもう、貴之が思っているような優理香ではない・・・もう、貴之しか知らなかった頃の私ではないのだから・・・


 ビルから外へ出た私は、泣き顔のまま札幌駅方面へ向かい、ひたすら歩いていました。

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