第81話 裏切る涙

 私は黙ったままでいました。この時間になんの意味があるのか。離婚してこのように期間が過ぎてからも、この人はまだ、私が間違っていると責めたいだけなのかと思いました。


「こんなこと、本当は言いたくないけど・・・」


 しばらく互いに沈黙した後、貴之はまた話し始めました。私は苛立ちながら彼を見返しました。


「・・・離婚届を送り返しても、俺は本当は待っていた。優理香が戻ってくるなら、いつでも迎えるつもりだった。でもだんだんと、優理香がどうして出て行ったのか、わかってきた。優理香が一緒にいてくれた有難さもわかっていなくて、俺は傲慢な奴だった。そんな自分に気付いてしまったら、余計に連絡を取ろうとか、迎えに行くなんてできなかった。」


 低く、力ない声でぽつり、ぽつりと彼は続けました。


「俺のことを本当に愛してくれたのは優理香だけだった。いつも優理香は俺だけを見てくれて、俺に合わせてくれてたのに。」


 貴之の、思いがけない言葉でした。なぜ今更、そんな事を言うのかと思いました。私は戸惑い、心がざわつきました。


「優理香のことを思い出さない日はなかった。引っ越そうかと何度も思ったけれど、なんの気まぐれでもいいから、いつか、優理香が戻って来てくれるかも知れないと思うと動けなかった。俺はずっと、動けないままだから・・・」


 彼は俯きながら、独り言のように呟きました。私は何を見ているのだろうと思いました。あまりに、この人らしくもない言葉でした。私の困惑もかまわず、彼は話し続けました。


「そしたら、思わぬところで優理香を見つけて、泣いていた。久しぶりに会った優理香が泣いてたから・・・」


 彼は私を見つめました。私はまた決まり悪い思いをしました。


「ずっと、優理香は泣いてたんだと思った。俺はずっと後悔していたけど、優理香もずっと泣いてたんだって思った・・・」


 貴之は苦しげに言葉を詰まらせました。私は呆れかえる思いでした。そんなの、違うのに、と心で呟きました。あの時は、須藤の心がもう自分にないことが悲しくなって泣いていたのです。なんとこの人は綺麗に取り違えてしまっていたのでしょうか。


 それなのに、この人の思い上がった勘違いを否定することもできませんでした。何故なのか、勝手に目から涙がこぼれ落ちてきて、言葉を発することができなくなっていたのです。


「俺は、幸せだった頃もよく思い出したけど、泣いている優理香のこともすごく思い出してた。俺が優理香を泣かせていた。優理香が泣き虫なせいもあると思うけど、やっぱり、優理香は・・・」


 声を震わせ、彼は言葉を切りました。涙こそ流していなくとも、この人も泣いているように見えました。


「優理香に愛想尽かされても仕方ないとわかっているけれど、でも優理香に戻って来て欲しい・・・ずっと、言えなかった。自分のプライドが大事で、正直に言えなかった。せめてあの時、追いかけていれば良かったと思う。ずっと後悔してた・・・


 俺たちの家はあのままだよ。優理香はいつでも戻れるから。仕事が辛いなら辞めればいい。だから優理香も、もう泣かなくていいから・・・」


 私は目を覆って俯いていました。この人の言う事など、勘違いばかりなのに。思い違いも甚だしいと罵ってやりたいのに。涙ばかりが流れてきて、心締めつけられていて、何も言うことができませんでした。


「優理香のこと、もう泣かせたくないと思ってる・・・本当に、ごめん。」


 なんと、納得のいかない状況なのかと思いました。もう私達の関係はとうに切れていたはずなのに。


 この人の言葉に泣いているわけじゃない。そんな風に思われたら心外だというのに。私は手で顔を抑えつけていました。それでも涙は容赦なく、私から流れて止まらないのでした。

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