第80話 軽蔑

 貴之は私を見返しました。彼は何も言いませんでした。気の遠くなるような間がありました。


 彼はポケットから煙草を取り出しライターで火をつけました。テーブルには灰皿が置かれていて、喫煙のできる店でした。


 煙草のにおいが嫌いでした。喫煙を許可している飲食店も嫌いでした。雰囲気にこだわっている風な一見洗練されたカフェでも、喫煙を許すような店は秘かに軽蔑しました。私にとって、食べ物とタバコは一緒にしてはいけない存在でした。


 貴之は、家ではタバコを吸わない人でした。吸う量は多くありませんが、外出先や飲みに出かけると吸いたくなると言っていました。いまこの時に吸われるのは、嫌がらせなのかと感じました。確かに私も彼に対して嫌な言葉を吐いたわけでしたが。


「・・・優理香が怒っているのは仕方ないね。あの頃は、いろいろストレスもあったし、俺もおかしくなってたから。」


 彼は静かに言いました。


「俺もすごくバカだったから。あの時ね、優理香が出て行っても、俺はまだわかってなかった。優理香が俺を捨てるわけないと思ってた。そのうち戻るだろうというぐらいにしか思ってなかった。」


 彼は再び煙草を口にしました。私は彼を睨みつけました。


「優理香のこと、探そうともしなかった。自分で出て行ったんだからと思って。優理香が戻ってくるなら拒む気はなかったけれど。」


 私は苛立ちましたが、黙っていました。私が彼のところへ戻るなどと、そんな可能性はある筈もなかったのに。言い返したい気持ちでしたが黙っていました。


「・・・でもだんだんとわかってきた。優理香は帰らないつもりだと。離婚届が送られてきて、俺は怒り狂ってた。そこまでするなら応えてやろうと思った。俺はすぐにサインして判を押して、封筒を出した。」


 皮肉な笑みを浮かべながら、思い出すように彼は語りました。私の出した離婚届は、予想外なほどに早く返送されたのを思い出していました。貴之も、よほど私と離婚したかったに違いないと改めて思い知らされた気がしたものでした。


「慰謝料ね。俺が払って欲しいぐらいだよ。黙って、いきなり出ていかれて・・・普通はそれなりに話し合いもあって、それから互いに努力したり、それでもダメなら、というのならわかるけど・・・」


 愚痴をこぼすような言い方でした。ここに来てまで私を責めたいのだろうか。私の心は次第に冷えて固まってゆくようでした。


「優理香は冷酷だったね。いきなり最後通達というやつだもんね。俺にはなすすべもなかったからね・・・」


 黙って聞いていれば、何なの?話し合いだとか、貴之のような人に何を話せたと言うのか。いつも私が話そうとしても、聞こうとしなかったのに。いかに自分が正しくて、いかに私だけが間違っているのか、それを証明することだけが大切だったくせに。だから私は次第に彼に心を閉ざしてゆくばかりでした。


「貴之にそんな事を言われる筋合いはないけれど。私はあなたのために離婚してあげたの。会社の女性と良い仲になっているようだったし、いつも私に出て行けと言っていたでしょう?その通りにしてあげたのに。」


 怒りに震える思いでしたが、極力冷静なそぶりをして言葉を吐きました。貴之はまた、皮肉っぽく笑いました。


「ああ、あの人ね。優理香の思い違いだよ。少しは仲良くしたけど、好きだったとか、愛していたとかそんなものじゃない。確かに俺が悪かったんだけど・・・うん、あの時のことは、くだらなかったと思う・・・」


 何を今さら、と思いました。今さら取りつくろう必要などないのに。ごまかす必要なんてないのに。彼が不倫をしていたことは、携帯のやりとりを盗み見たのでわかっていました。鈍く暗い憎しみと軽蔑が、私の内側でずっしりと居座っていました。

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