第78話 奇襲

 貴之との記憶は私を苦しめました。辛かった日々のことが次々と思い出され、家では泣いて過ごす時間が多くなりました。


 もう、克服したつもりでいました。ずっと、あの人のことなど思い出したりはしなかったのに。


 私のことを、私が営業の仕事をしていることで、責任を感じているなどという言葉も、私には不快極まりないことでした。


 あの人は、まだ私のことを自分のものだと思っている。彼に放り出されて、社会で苦労して泣いているとでも思っているのだろうか。あの人と偶然会い、彼恋しさに泣いていたとでも言うのだろうか?


 そうじゃないのに。ずっと、私なりに頑張ってきたのに。


 契約社員として入社し、須藤の愛人になることもいとわず正社員になった。営業をするのは怖かったけれど、須藤や他の人達に助けてもらってなんとかやってきた。取引先で、女であるがゆえの意地悪を言われる日もあったけれど、めげずに足を運んだ。本当は傷ついていても、笑顔で受け答えをしてきた。少しずつ信頼を受けるようになって、契約をもらえるようになった。


 もうずっと前に私は自立しているのに。まだあの人は、私には何もできないと思っているのか。


 思い知らせてやりたい。私はもう以前の、泣いてばかりいた優理香ではないのだと。


 そんな憎しみにさいなまれ、眠れなくなる日もありました。


 ある日のこと、退社する時間になり、会社のビルのエレベーターに乗ろうとすると、少し離れた場所に立っている貴之と出くわしました。私は言葉を失い、硬直して立ち尽くしていました。とうとうこの人はここまで来てしまったのです。


 蛇に睨まれた蛙のように、私は固まったまま彼を見つめていました。彼が私の勤め先を知っていたなら、このように私を追い詰めることは確かに考えられ得ることでした。ですが私にはなんの心の準備もできていませんでした。


 彼は迷わず私に近づいてきました。


「やっぱり、電話ではどうしようもないから。会って話すべきだと思って。」


 貴之は事もなげに言いました。


「今、帰り?地下鉄で通ってるの?」


 ごく普通の調子でこの人は話しかけてきました。


「・・・うん。」


 私は視線を落とし、小さな声で答えるのがやっとでした。


「じゃあ、地下街から行こう。」


 彼はエレベーターを呼ぶと、地下階へのボタンを押しました。私はなすすべもなく一緒にそこへ乗り込みました。社内の人に見られでもしたら面倒そうだと頭をよぎりました。


 この人を憎んでいました。恨み言はいくらでもありました。いろいろ思い違いをしているらしいこの人に、思い知らせてやりたい気持ちで一杯だったというのに。


 いざ彼を前にすると、何も言えない自分になってしまうのでした。

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