第77話 追憶

 どれほどの時間、私はトイレに閉じこもっていたでしょうか。おそらく数十分ほども過ごしてしまったようでした。涙が尽きたころ、そろそろとドアを開けて周囲に人がいないのを確認し、手洗い場へ向かいました。


 鏡に映った私は泣きはらした顔をしていて、急いで顔を洗いました。ハンカチで顔を拭き軽く化粧を整えると、ひどくお腹が空いていることに気付きました。まだ昼食も食べていませんでした。


 気分を変えるために、近くのビル内にあるカフェへ向かいました。こんな気持ちで、こんな顔をして会社へ戻るのは避けたいことでした。


 この仕事の良いところは、外出している時間が多く、自分のペースで仕事をして、休憩時間にカフェやランチスポットの開発をしやすいことでした。込み合う時間を避けて昼食を取ることもできました。


 まだ新しいビル内のカフェレストランは、女性の好みそうな暖かく可愛らしい色合いのインテリアでした。ソファー席へ案内されて一息つくと、次第に気持ちも落ち着きました。


 ―なぜあんな風になってしまったのだろう。あの人から電話が来たというだけで。


 少し冷静になると、自分の気持ちの乱れようが腑に落ちないのでした。


 今更だと思いました。もう終わったことなのだから。


 “じゃあ、別れようか。”


 学生のとき。彼と付き合っていた頃、喧嘩をすると言われた言葉。


 私は拒みました。別れたいわけじゃない。でも話を聞いて欲しかったのです。


 “だったら、出て行け。今すぐここから出て行けよ!”


 結婚してから、口論になるとそう言われました。何度言われたかわかりません。


 寒くなりつつあった秋の夕方、私はコートを羽織り、家を飛び出しました。泣きながら、行く当てもなく地下鉄の駅へ向かいました。今日は帰らない、絶対に帰るものかと怒り狂っていました。


 ですが地下鉄の駅が近づくうちに気が付きました。バッグも財布も携帯も、何も持っていなかったのです。頭に血が上っていて、そんなことすら気付かずに家を飛び出していました。


 財布を持っていたとしても、大したことなどできなかった気がします。私は家に戻ることもせず、かといって遠くへも行けず、周辺を歩きまわっていました。思い切り泣きたいのに、まだ周囲は明るく、涙をこらえてとぼとぼと歩きました。


 薄暗くなってきて、人気のない小さな公園を見つけました。低いベンチに腰をおろし、ここなら泣いても良いだろうかと思いました。声を出さないようにして、ひとりうつむいて涙を流れるままにしました。


 怒鳴られるなど、耐え難いことでした。あの人に責められると、息ができなくなりそうなほど苦しくなるのでした。


 あの人はいつも私が何か言っても否定的でした。冷酷に私を責め立て、私の話を聞こうともしませんでした。


 理不尽だと思うのに、私にはどうすることもできませんでした。彼から突き放されると、私はいつも絶望しました。酷いと思いながらも、私はいっそう彼を求めていました。


 彼から離れて泣いているうちに、喧嘩のきっかけもよくわからなくなりました。ただもう戻りたい。原因なんてどうだっていいから。


 どんどん辺りは暗くなり、寒くなってきました。ここで泣いていても仕方がない。そう諦めて戻るしかないのでした。


 重い足取りで家へ向かいました。4階建てのアパートの2階。ドアを開けようとすると、鍵がかかっていました。インターホンを鳴らしました。反応がないので何度も鳴らしました。車はありましたから、彼は家にいるはずだと思いました。


 私は苛立ってドアを何度も叩きました。開けて、と周囲をはばかりながら何度も呼びかけました。泣きながら、必死でインターホンを押し、ドアを叩き、彼の名前を呼びました。


 やっとドアが開くと、冷ややかな目で彼は私を睨みつけていました。私はなりふり構わず、彼に抱きついて声をあげて泣きました。ごめんなさい、と繰り返しました。貴之に冷たくされると私はいつも絶望し、惨めでした。


「お客様、どうされましたか・・・?大丈夫でしょうか?」


 カフェのスタッフの女性が心配そうに、私に声をかけました。


 気が付けば、私はまた、泣いていました。

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