第75話 過去の人

 彼を憎んでいました。そしてかつては、彼をこの世の誰よりも愛していました。私には彼がすべてでした。貴之だけが、私にとっての男性でした。


 田舎の小さな町で育った私は、地味で内気なせいもあり高校を卒業するまで男友達のひとりもありませんでした。女友達もどちらかと言えば地味な印象の、優しい子達とばかり付き合っていました。


 若い時代の恋する気持ちを味わったことはあるものの、常に片思いでした。そして誰かと付き合いたいなどとは思い至りませんでした。ただ秘かに、相手を好きでいるだけで満足していたのです。


 男女のことについてほとんど知識もありませんでした。頭では知っていても、考えようとするだけで無理でした。並みの中高生よりも非常に疎かったので、高校を卒業する頃まで、男女が結ばれるのは結婚後の話であると信じていました。例えば、高校時代に男女で交際をする人達がいても、そういったことはしないものだと考えていたのです。


 ですから、高校の卒業時に友人と旅行をした時、そういうわけではないことを知らされ、さらに言えば、一緒に旅行をした3人の女子のうち、私以外の2名が処女ではなかったことを知って、衝撃と拒絶感のあまり泣き出してしまいました。今にしてみれば滑稽な話でした。


 札幌の大学へ進学し、同じサークルの先輩であった貴之と出会い、恋をしました。初めての片思いではない恋であり、初めて男女としての交際をはじめました。


 その時になって、好き合った男女が至る行為を経験しました。それがごく自然な、当たり前のことだとわかったのです。


 私は早く貴之に抱かれたいと願いました。ですが簡単なことではありませんでした。貴之もそれほど経験豊富というわけではなかったので、なにかと時間がかかりました。お互い一生懸命なのには違いありませんでした。


 彼と付き合ってすぐにこの人と結婚するだろうと思いました。体を重ねることは、そういう意味のことだと信じていました。貴之もそう思ったかどうかはわかりませんが、私は恋愛イコール結婚という考えの持ち主でした。


 以降、私は貴之だけを愛しました。他のひとに惹かれたことはありませんでした。なぜかはわかりませんが、私は生まれた時代よりも古めの恋愛観、結婚観を抱いていました。愚直なほどに、最初のひとである貴之だけを盲目的に愛しました。


 彼と交際した5~6年の間、もちろん多少の波風はありました。倦怠期のような頃もありましたし、どちらともなく冷めている時期もありました。


 それでも結局、私と貴之は結婚しました。彼と出会った頃に信じた気持ちは、この人と結婚するのだという思いは実現したのです。


 それでもその後の私達の結婚生活は幸せなものとは感じられませんでした。貴之は私に対して冷ややかになってゆきました。私は思い悩み、苦しみました。


 私なりにいろいろ努力しようとしたことはありましたが、ひとりで空回りするばかりだったように思います。心が荒み、疲弊しきった気持ちでいたところに、彼の浮気を知った私はすべてを投げ出しました。


 もう決して男性を愛するつもりはありませんでした。二度と、誰とも結婚などしないと自分に誓いました。


 貴之という相手が悪かったのであり、すべての男性が不実で裏切り者だと言うつもりはありません。それは私の偏った思い込みだと言われるに違いありません。


 ですが私にはもう無理だったのです。貴之だけを愛して、それを無残に踏みにじられ、壊されてしまったとき、もう誰も愛せないと私の心も壊れました。


 それほど、私は愛していました。


 かつて私はあの人だけを。


 ただひとりの男性だけを、愛していました。

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