第73話 携帯
離婚が成立して2年以上も経つのに、偶然顔を合わせたからと、のうのうと連絡をよこす貴之の神経がわかりませんでした。
彼と再会した日のことを思い返すと非常に苛立ちました。あの時は須藤のことでひとり涙してしまった時でしたから、あまりにも悪いタイミングに現れ、憐れんだ目で私を見つめた貴之には怒りが募るのでした。
彼が電話をよこしたというメモはすぐに捨てましたが、それだけでは済まされませんでした。翌日だったか、翌々日だったか、貴之から電話が来たというメモは再び私のデスクに貼られました。悪い時には、そのメモは複数ありました。
まずいと思い始めていました。日中は内勤の方が営業社員宛の電話を受けてくれていますが、よく慣れている事務の方だと相手が取引先であるかそうでないかがわかってしまうのです。例えば営業事務の真矢ちゃんや前田さんですと、どの営業社員がどれほどの取引先を持っているか、あるいはその取引先やユーザーの社名をある程度把握しています。
別の部署の方が電話を受けた場合はどこが誰の取引先かまではわからないかもしれませんが、私に仕事とは関係ない相手から電話が来ていることが、じわじわと周囲に知られかねない羽目に陥りそうでした。しかもその相手が、私が入社した頃、離婚する前の名字と同じ名前であることに気付く人がないとも限りませんでした。
元夫が私と連絡を取ろうとしていることを、変な形で会社に知られるよりは、ひとまずあの人と向き合うべきなのだろうかと重い気持ちになりました。それでも私から彼に連絡を取ろうという気力がどうしても起こりませんでした。
結局、私が彼に電話をかけるという決断には至らなかったものの、いつまでも逃げてばかりはいられないという焦りの気持ちを抱いていました。
ある日のことです。私は取引先との契約が一段落した昼間の時間、あるオフィスビルから会社へ戻ろうとしているところでした。会社用の携帯が鳴っていたので少しの疑問も抱かずに出ました。
はい、桜井です、といつものように受けたとき、いくばくかの不自然な間を感じたことを思い出します。
吉澤ですが、とその相手は言いました。聞き覚えのある声と名字に言葉を失くしました。次に言うべき言葉も見つかりませんでしたが、なぜだかその電話を切るという行為も思いつきませんでした。
「・・・吉澤貴之です。いま、大丈夫だった?」
この時の気持ちを、私はうまく表現することができません。できるだけ避けたかった、もう関わりたくはない忌まわしい相手だったはずなのです。会社に何度も電話をかけてこられることも迷惑していました。
それなのに彼の言い方はまるで、苦いこだわりなど感じられないのです。腑に落ちないことでしたが、まるで旧友でもあるかのような、奇妙な懐かしさと微かな感慨を思い起こさせるのでした。
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