第70話 取引の果て

 営業の仕事は嫌いとまでは思わないものの、多くの人と接する日々に疲れるときもありました。人と会うのは嫌いではないものの、本来内向的な性格であった私は、ひとりで黙々とこなすような作業の方が本当は好きでした。


 須藤との関係もそろそろ終わらせるべき時期が近付いているのを感じ、以前からほのめかしていた部署異動の希望も聞いてもらえないものかと思い始めていました。須藤が私のために新設してくれた女性営業社員のポストでしたが、今後の長い年月を続けてゆけるかどうかは心もとなく感じていました。


 彼が私に対して熱心な頃は、異動の願いなどとても聞き入れてはもらえませんでした。いろいろ根回しをして、私を社員にしてくれた須藤への恩義もありましたから、すぐにやめてしまっては彼に恥をかかせるに違いありませんでした。


 ですが、すでに状況は変わっていました。彼の私に対するかつてのような熱意や好意はすでに失われていたようでした。彼も私との関係を終わらせたいと考えているならば、もしかすると良いチャンスになるかもしれませんでした。


 須藤に伝えてみても良いのかもしれない。彼に伝えさえすれば、聞き入れられるのかもしれない。そう思いながらも、なかなか実行に移せずにいました。未練なのか、自分から言い出すほどの気持ちになれていませんでした。勇気が足りませんでした。


 あるいは、いつでも良いのかもしれない、とも思いました。もう冷めてしまっているのだから、どこかで踏ん切りをつけて、どちらともなく切り出すだけのことかもしれない。時間の問題かもしれない。いずれにしても終わりかけている気がしていました。


 私にとって大切なのは、私がこの会社に残れるかどうかでした。


 須藤を失うことよりも、職を失うことの方が私には怖いのでした。まだ彼と交際する前、私は社会人としてまともに自立して生きてゆきたくて、当時憎み嫌っていた須藤へ社員になりたいと告げたのでした。


 果たして私は良い取引ができたと言えるのでしょうか。社員になり、須藤と付き合うことによって金銭的、物質的には余裕ができたという実感はありました。ですが彼との関係が崩れそうな時に、私の雇用は保証され得るのか。あるいは彼との関係がどこかへ知れてしまったときのリスクに見合うものだったと言えるのか。


 あの時は納得したつもりではありましたが、結局私はいつの時も、もろく危うい橋の上を、危険を伴いつつ渡り歩くばかりだったような気がします。


 橋はもう崩れかかっています。


 仕事を失わないために、せっかく手に入れた正社員という立場を失わないために、慎重に動かなくてはなりません。


 今度は、どう立ち回れば良いのか。


 どうすれば良いのか、もうわかりませんでした。

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