第66話 揺らぐ心

 私は泣きそうになってしまい、平静ではいられなくなってしまいました。


「須藤部長、そういえば、この後寄ろうと思っていた取引先があったんです。ここからすぐ近くなので歩いて行きますから、須藤部長は先に戻られて下さい。」


 私は急に思い出したような口調で彼に伝えました。鞄の中の書類をさぐる素振りをしながら、ろくに彼の顔も見ないままに車から降りました。運転席にいる須藤へ会釈をして、駐車場のエレベーターへ向かって戻るように背を向けました。


 寄りたい客先があるなどとは口から出まかせでした。私はただ、自分の顔を見られたくなかったのです。須藤からの寵愛を失いつつあることを実感し、これほど動揺し、泣きそうになっているのを見られたくはありませんでした。


 こんなはずではなかったのに。すべて、こんなはずではなかった。私はお金と付き合っていただけだった。不実からなるまやかしの愛情を取り違えるつもりなどなかった。なのにどうして涙が溢れてくるのだろう。


 須藤の乗る車が走り去るのを見届けると、私は口を覆って声を抑えました。人気のない、薄暗い駐車場で少しだけ泣いてしまっても誰にも気付かれずに済むはずでした。もう潮時だ、やめるべきことをやめる為の良い頃合いなのだと心に言い聞かせながら自分に涙を流すことを許可しました。


 ずっと、私は泣きたいのをこらえていました。会社で須藤と倉木さんが話すのを盗み見るたび、須藤の彼女に夢中であるような表情を見せられるたびに静かに絶望していました。彼が倉木さんに冷たくあしらわれてくれたらいいと願いましたが、そんなことをする人ではありませんでした。慎ましく上品に受け答えしながらも、彼女も須藤を悪く思ってはいないようでした。


 誰にも悟られるわけにはいきませんでしたが、すでに須藤の気持ちが自分にないことは悲しく、淋しく苦しいことでした。彼を恨むつもりはありませんでしたが、最初の頃とは想像もつかないほど、まさかと思うほど、彼に焦がれていました。


 そんな時に、なんという間の悪さだったのでしょう。エレベーターの方から近づいて来る人影に出くわしたのです。この時私は誰にも会いたくなかったのに、せめて知らない人であれば良かったのに。


 涙にくれる私を見つけたのが、かつての夫であったことは、なんとも皮肉な運命のいたずらのようでした。

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