第65話 翳り

 エレベーターが1階で止まると、貴之は降りました。私は前の隅の方で顔を逸らして彼に気付かれまいとしました。いくぶん不自然な様子だったかもしれません。


 エレベーターが地下の駐車場に着くと足早に車のある方向へ向かいました。私は助手席へ座り、運転は須藤に任せていました。


 中心街にある取引先を訪れる時、自分だけで近場の場合は徒歩や地下鉄で移動しましたが、この日は須藤も一緒で車で向かう方が早いからと勧められました。この頃の私はひとりで客先へ向かうこともよくありました。


 この日は須藤と一緒で良かったと思いました。離婚して2年以上過ぎていたというのに、元夫の姿が目に飛び込んで来たとき私はひどく動揺しました。もしあの時、彼に声をかけられたりしたらと思うと心穏やかではありませんでした。ほんのわずかに姿を見ただけでも、心乱されずにはいられませんでした。


 思いがけず、あの人と過ごした8年ほどの時間が瞬時に甦らされ、苦い気持ちにさせられました。もう赤の他人だというのに。私はしかるべき手続きを済ませ、彼とはもう何の関係もない人間になったのですから。


 そうは言っても、この時の私の生き方もまっとうとは言えませんでした。


「須藤部長、先日メールしましたけど、今週の土曜日はどうされるんですか?あるいは日曜日、家に来られるんでしょうか・・・?」


 車内でふたりきりだったのを幸いに、私は彼に直接尋ねてみました。このところ、須藤は私からのメールに返事もしなくなっていました。かつては私の方が、彼への返信に忙しい思いをしましたが、そんな時期はとうに過ぎていました。


 仕事でも、須藤は私と距離を置こうとしているようにも見えました。営業として外回りを始めた頃、私は常に須藤や他の先輩社員と一緒に行動していましたが、しばらく経つと、ひとりで出先をまわるようにもなりました。


 それは営業として一人前に仕事を任されつつあると感じられることでしたが、そんな時期でも須藤は何かにつけて、私をサポートしてくれました。私がひとりで行ける場所でも、彼はわざわざ時間を作り、短い時間であっても私と一緒に行動しようとしてくれました。


 それが最近では、社内でも出先でも、まるで避けられているのかと感じるほどに須藤との接点が少なくなりつつありました。それでもこの日のように、部署が同じ限り、一緒にいる日もありましたが、このところの彼の態度の変化に気付かないではいられませんでした。


「ああ、今週末ね・・・まだちょっと用事がはっきりしなくてね。でもユリちゃんも予定があるなら入れてしまっていいよ。俺を待って優先させなくてもいいから。」


 気のない風に彼は答えました。以前ならば、車内でふたりきりのときはすぐに私に触ろうとしましたが、そういうこともしなくなっていました。


「そうですか・・・わかりました。」


 私も深く追求はしませんでした。妻子ある人との付き合いなのだから、これまでもわきまえたつもりでいました。ですが須藤の妻に対する愛情はごく薄い義理的なものと理解していたので嫉妬したことはありませんでした。


 この頃、彼の心の中にはきっとあの新しい存在が占めているのではと想像すると私の心は暗くかげりました。気にするまいと思おうとしても、考えを逸らそうとするほど胸がしめつけられるようで、涙すらこみあげてくるのでした。


 まさか、こんな気持ちにさせられるなんて。かつてあれほどに私を気にかけ細やかな気遣いをしてくれていた人が。いつも私を驚かせ、喜ばせようと心を砕いてくれていた人が。


 もうこの人は私を見ていない。私は最初の時から、彼に惹かれていると認めたときからいつしか、しだいに強く気持ちをつぎ込むようになっていたのに。


 その挙句、こうなってしまったというなら。


 私はもう、この人から心を向けられなくなってしまった。


 そう心でつぶやいた私は惨めでした。

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