第13話 取引

「毎月渡すから、気にせず受け取って欲しい。言っておくけど、俺は会社の給料以外にも収入があるから心配しなくてもいい。給料の大半は家内に渡していて、不自由はさせていないつもりだよ。家内の把握していない別の仕事と収入があるから、無理をしているわけではない。」


 いまや須藤は途方もない圧力で私を畳みかけようとしていました。私はそっとその封筒に手を伸ばし、中を見ました。一瞬で正確に数えることはできませんでしたが、私には大金に違いありませんでした。貴之と結婚していた頃、食費や生活費として受け取っていたよりも明らかに多い額でした。


「須藤部長はお金持ちなんですね。うらやましいです。」


 以前から、須藤の金銭感覚には大いに差を感じていました。会社の水準や役職を考えれば、高給なのだろうとは思っていましたが、副業もしていたとは知りませんでした。


 皮肉なものだ、と思いました。かつて結婚していた頃、私は惨めでした。収入もなく、夫からは冷遇され、性的にも求められなくなっていた。


 家事や雑用、料理をこなして尽くしたところで愛されもしない。そんな境遇から抜け出したくて、惨めな自分を変えたくて私は飛び出してゆきました。


 そして須藤と出会いました。この人はかつて私の欲しかったものをすべて与えてくれるのでした。


 自分は変わったのだと思いました。元夫からの精神的な暴力に傷つき、浮気をされ、生活に疲弊ひへいしきって苦悩していた私は過去のものとなりました。


 むしろ愛人の方が幸せかもしれない。少なくとも、かつての結婚生活よりは、ずっとましに違いない。


 この人になら、買われてもいい。どうせこの人もやがては冷たくなるかもしれない。私に飽きるのかもしれない。だけど今は私に夢中だと言うなら、夢を見させてあげてもいい。


 彼の好きだった真面目で世間知らずな桜井優理香はもういないのだから。彼の前にいるのは、そうとは気付いていなくとも、すでに心の冷え切った娼婦なのだから。


 そのような堕ちた自分に大金を出してくれるなら、悪い取引ではないはずでした。


 結婚だって、取引だった。愛の保証もなく、明確な契約も取り決めもなく、大雑把で浅はかな取引でしかなかった。愛人の取り決めの方が、まだ誠意がありそうなものだ。


 正直なところ、私はお金を愛していました。お金は自由と選択肢そのものでした。男性は裏切るけれど、お金は裏切らない。そう信じるようになっていました。


 私は彼からの封筒を受け取りました。


「次の土曜日は運転の練習がしたいです。」


 封筒を別の場所へ片付けながら私は告げました。


「毎週土曜日は須藤部長と会う日にしようと思います。土曜日が難しければ、日曜日にすることもできますが、早めに調整させて下さい。友人と会ったり、習い事もしたいと思っています。」


 私は仕事の打ち合わせであるかのように彼に告げました。自分は娼婦で、彼は雇い主なのだと思いました。この時から、須藤は私の取引先になりました。


「須藤部長のこと、好きです。でも絶対に、誰にも知られないようにして下さい。そうでなければ・・・」


「ユリちゃん、わかっている。」


 須藤は私の身体を引き寄せました。


「誰にも秘密だよ。」


 彼は私の顎を引いてキスをしました。彼の舌は私の舌にゆっくりと絡みついて動きました。


 この人を好きだけれど、愛したりはしない。私が愛するものはお金だけいい。保証などない、一時的な男の心に長く頼ろうとは思っていませんでした。

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