さいわいなことり

町野 交差点

さいわいなことり

ピヨは幸福だった。

無論、籠の外の世界を己の翼で駆け回り、この世の美しさというものを、己の目で見てみたい、その様な思いを抱かないわけでもなかったが、その類いの衝動に後先考えずのっかかり、今手にしている確かな幸福を失ってしまうのが、何よりも恐ろしかった。優しく美しい主人と、清潔な住処、豊潤で工夫に富んだ食事、これだけのモノが与えられているのだから、私が不満を溢すなどというのは余程に罰当たりなことであるのだと、ピヨ自身、己の境涯を達観していた。

そもそもピヨは、主人――その飼い主の事を、非常に愛していた。彼は病弱であるが故にか異常にピヨを偏愛し、毎日の食事、日光浴、室内の温度調節や、果ては一時間に一度の糞尿の始末まで、滑稽と形容しうる程までに世話を焼き続け、その執着ぶりを家族にからかわれるや否や顔を真っ赤にして怒り、むしろ殊更その執着ぶりを誇示するかのように必要以上の世話をする様などを見せられると、どうにもピヨには彼が愛しくてたまらなかった。

「ピヨや、ボクより先に死んでくれるなよ」

そう語りかける彼の声などは、あまりにも柔和で、ある種の艶やかさすら、感じさせる程であった。女のように高く、それでいてどこか落ち着きのある声。あるいは、如何にも病人然とした青白い顔色をしてはいるものの、鼻がくっきりと高く、彫りの深い、整った顔立ち。ピヨにしてみれば、天地の美しさや四季の移りなぞよりも、よっぽどこれらの方が慈しむ価値のあるもののように思われた。

「私は死ぬまで、貴方のお側におります……」

ピヨは猛禽である。恋などという情動は、無論知らない。主人の一挙手一投足に何か暗示めいたものを邪推することもなければ、主人の為に眠れぬ夜を過ごすこともない。ただピヨは主人を慈しむこと、そのことのみを知っているだけである。

「私はこの世で一番、幸いな小鳥だわ」

これ程までに幸福な生活を送っている猛禽など、この世には居らぬだろう。まして、籠の外の世界に飛び出したところで、今以上の幸福を享受し得る訳がない。

――私は一生を彼の側で過ごし、そして彼の掌の上で死ぬのだ。

この様な悲壮な決意を既に固めているピヨにとってみれば、無論、主人の病が甚だしく、刻一刻と彼の体を蝕み、あるいはピヨの死を待たずに主人が逝ってしまうかもしれぬなどという、人間のつまらぬ都合など、全く預かり知らぬことであった。

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さいわいなことり 町野 交差点 @mousia

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