第3話 妻は懐かしい仕草で梅酒の入ったグラスすすった。

 

そして彼女はグラス越しに私の顔を覗き込むようにして言った。


「ほら、あなた、」


「えっ?」


「ポケットに何か入っている」


私はまるでいたずらを咎められた子供のように気恥ずかしい気分になり、慌てて雨に濡れてしっとりと湿ったズボンのポケットの中を探った。

右ポケットは空。

しかし、左ポケットから小さく折りたたまれた紙が出てきた。


「ほんとうだ。気がつかなかったよ」


妻はしたり顔でにっこり微笑んだ。


「で、それ、何の紙? んん?」


小さい子をたしなめるような、優しいが迷いのない詰問口調。

ああ、口癖も昔のままだ。

俺は乱暴に、しかし丹念に折りたたまれた紙を広げてみた。

すると、そこには鉛筆書きのたどたどしい文字でこう描かれていた。


『つくえがほしい』


幼い頃の自分の文字だ。

よく覚えている。

これはサンタクロースに宛てて書いた手紙だ。


「机?」


グラスに梅酒をつぎ足しながら妻は尋ねた。


「そう、ぼくがべんきょうするためのつくえ」


俺は十歳の頃のぼくの声で答える。


「今、座っている、ちょうどこんな感じの木の机」


この手紙を枕にそっと忍ばせた後、代わりにクリスマスの前の日に机が来たんだっけ。後から思えば、しばらく食事が質素になって…。


「…そう、その机は初めからボロくて、ちょうどこんな感じのひどい傷があって」


でも嬉しくて嬉しくて、机はぼくの宝物になった。そして小説が認められて作家としてデビューするまでずっと使っていたんだっけ。


 俺は梅酒の入ったグラスを置いて、人差し指で机の傷をなぞる。なぞっているうちに鳥肌が立ってきた。

この傷は、あの机の傷にそっくりじゃないか。

…いや、あの傷そのものだ。

俺は目を皿のようにして古びた机の隅々を検分した。


 …いつの間にか、酔いはすっかり冷めていた。

再び目を上げると、妻はいつの間にか店と同じくらい古びた店主に戻っていた。

しかし、俺は迷いなく彼に言った。


「これは俺の使っていたあの机だ。どうか買い取らせてくれ。金はどうにかして工面する」


店主はにっこりと微笑んでポケットから電卓を取り出し、人差し指でぱちぱちと盤面を叩いた。


「よろしゅうございます…ではこの金額で」


その数字を見た俺は一気に酔いが覚めた。


「え、あ、いやその…分割払いとかはないですよね」


「あいにく当店は必ず即金でお買い上げいただいております」


「ああ、そうですよね。

では必ず買いに来ますからそれまで取っておいてください」


すると店主は顔全体でにっこりと微笑み頷いた。


ああ、雨が降っているうちに帰らなければ。

今、この体の火照りが冷める前に。

傘なぞ要らぬ、すぐにでも走り出したい気分だ。


「ぜひ新作を楽しみにていてください。ぜひ進呈させていただくよ…もちろん机の代金とは別に」


扉から出る前に振り返ってかろうじて思い出し、あわてて店主に振り返り一礼した。

ついでにおもわずウインクしてしまった。

子供の頃の癖がまだ残っていたらしい。


(了)

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青山天音 @amane2018

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