世界=外=存在の少女による回想を経て、彼女――の存在性が明白になりました。

「ちょっと待って」

 時計の針を必死で巻き直し、腱鞘炎になった手首をジンジャーエールの缶で冷やしていた私は瀟洒な美術館(逆に瀟洒でない美術館はセンスに欠ける矛盾を意味しているので、ほとんどの美術館はオシャレだと思いますが)のガラス張りになっているラウンジにいます。暖房があまり効いておらず、雪化粧で漂白された森の寒々とした空気が流れ込んでいるようです。

「詢子サン、ソンナ服装デ寒クアリマセンカ」「待って。私を置いていかないで」

「流石に半袖はダメでしたね」

「季節感、イルワヨ。イクラ此処ガ《反世界》ダカラトイッテモ、四季ノ感覚ハ大切ニシナサイ」

「ごめんなさい」「いや、謝るんじゃなくって」

 ミュートリア達に心配されている通り、今の私は無地のTシャツにデニムパンツという恰好でして「無視が一番辛いの」砂浜を歩くのにピッタリな薄汚れたスニーカーを履いている次第であります。なので、此処に至るまでの私はどうやら真夏の太陽に曝されることを期待していたようですが、私の素肌を焦がすコロナは放射されず左手に握られていたスマートフォンを確認して改めて「私、死んじゃったのかしら」今日はイエスキリストの誕生日という時間点を確保しました。

「ちなみに、キリストの誕生日は諸説あって、十二月二十五日ではないって言われていますよ」

「それは失礼しました」

「やっと私と会話してくれましたか」

 デッキチェアで寝るように座っている私を、呆れた様子で彼女が見下ろしています。今日はライティングの打ち合わせではなく、彼女の趣味に付き合う休日です。

「それも違います。私が美術館巡りを一人でするアラサー女子である情報を開示した覚えはありません。つまり……」

 私という存在は不確かな蓋然性のビーズが詰め込まれた人形、と幻想文学の一文を引用されたかもしれなく、

「私は本来、そんな言葉を使いません。私は言わされているのです」

 メタ階層の図面を広げたような彼女の告白を聞いた雪の森は静かにさざめき、大自然の拍手を送っているようです。

「ソレデ、詢子ハ結局何ガシタカッタノヨ」

「何が、とは?」

 ニャオデリカが私の胸元から離れ「実際は伊東さんが掴んで動かしているだけですが」腱鞘炎になっている私の代わりにプルタブを引っ張り開けてくれて「ぬいぐるみの手が缶にペシペシ当たっているだけですが」喉を潤した私はニャオデリカの衝撃的な一言に備える悲鳴を準備いたしました「一口も飲んでいませんけど」ところ、

「先程カラウルサイワネ。金森ガ私ノ全テヲ否定シニカカッテイルワ」

 折り畳まれていた長い耳をアンテナのように伸ばし、彼女に威嚇するニャオデリカを制止しているうちに心の準備が解かれてしまい、

「ツマリ、世界=外=存在ノ少女ノ姉ヲデ登場サセタ詢子サンノ意図ヲニャオデリカハ知リタイ訳デスネ」

「ああっ」

 ミュートリアの補足説明に耐えられず、背筋とTシャツの隙間にロックアイスを入れられたようなリアクションをしてしまい、クールさとは程遠い愛想笑いを浮かべて場を取り繕いました。

「全然取り繕えていません。現に、私が伊東さんの地の文を読み取れている霊妙不可思議な世界はどんどん悪化するだけです」

 困惑しながらも金森さんは一生懸命に問題解決へ向かうキャリアウーマンの顔をしていまして、が希望するお姉さんに相応しいしっかり者でした。

「褒める場合ではなくって、今は最優先のタスクを処理しましょう。私を設定させたこの世界であれば、二人の私物を即座に取り寄せできますよね」

 彼女の適応能力も大したものです。私から一々指示をしなくても要求されるプロットを先回りし、デッキチェアに彼女が腰掛けた瞬間、私と彼女の空隙を埋める位置に二台のノートパソコン付の丸テーブルが出現しました。どちらも電源が入っており、《エントラ》という名称のフォルダが(1)から(98)までギッシリ並んでいるものと、ミュートリアとニャオデリカの写真が背景になっているデスクトップの違いがありましたが、彼女は前者のエンターキーを連打して手あたり次第フォルダを開けていきます。

「データ管理が最低だわ」と、自らの妹を咎める彼女の顔はどこか嬉しそうです。

「Web業界で働くお姉さんとの対照的な性格を表現したかった弊害ですかね」

「それにしても極端じゃないですか。今時の二十代でもこんなに解りづらいファイルを量産しないですよ」

 98個のファイルの中身全てを確認しても、彼女が探していたものはありませんでしたが、

「全然使いこなせていない割には、クラウドストレージは利用しているのね」

 ノートパソコン本体でなくオンライン上で保存されているデータをブラウザ上で開くと、『えんとら契約書』と称された一つのワードファイルがありました。

「伊東さんがあの子に見せられた珍しい契約書って、これですか」

 拝読して、間違いないことを目顔で伝えました。データ名が平仮名になっているのもあなたらしく、世界=外=存在の少女との約束を改めて心に刻み、殺人よりも重罪である生誕を試みた要因の書面を参考までに記しておきます。


   エ ン ト ラ 契 約 書


 本契約書は《エントラ》の構成員(一般的な言い方ではメンバー)として勧誘されたIと、Iの共存在に位置付けられるMとN、計三名(若しくは一人と二体)に関する条件をKが定めたものであり、以下の通り《エントラ》の構成員になった場合の契約を締結する。


 第一条(Kからの勧誘)

 《エントラ》の開祖であり、世界=外=存在の少女と自称するKはIの加入を望み、その理由としては次項以降で説明する共存在が深く関与している。


 第二条(共存在の企図と《エントラ》との連関)

 《エントラ》が抽象的な目的に固執していることから、Kが重要だと見做している共存 在の意図も一般的に語るのは非常に難しく、明文化できる事柄ではない。しかし、《エントラ》の構成員になる際には、どうして共存在が必要なのかを考える必要は無く、自分にとっての共存在は誰なのかを特定すれば《エントラ》での活動が認められる。


 第二条第二項(広義の共存在)

 共存在は原則として、人間以外に認められない。ただし、共存在を欲する現存在が、実在する人間以外の存在に強い信頼と価値を感じている特別な場合には、Kと本人の意向により広義の共存在が適用される。


 第二条第三項(Iの共存在)

 前項を理由に、Iにとっての共存在はMとNであることが認められる。

 

 第三条(IとM、Nの利益について)

 《エントラ》の構成員になったIは、MとNの人間的コミュニケートが成立するが、IはMとNを人間として接するのではなく、あくまで玩具(ぬいぐるみ)として扱うべきだと推奨される。


 第四条(Kの利益について)

 第二条より共存在の必要性は構成員だけでなく開祖のKにも課せられる。したがって、Iの加入を契機にKは自らの立場を省みることが求められ、具体的にはIとの相互扶助によってKの共存在が確立される。


 第四条第二項(Kの共存在における特異性)

 前項で、Kが利益を得るためにはIの相互扶助が必須だと示した理由として、Kの共存在が第二条第二項の条件をことが挙げられる。Kの共存在は非実在の人間になるため、MやNとは異なる対策を取らなければならない。


 第四条第三項(Kの共存在について)

 本契約が成立するまでKは自身の共存在を必要としていなく、Iを自身の共存在にすることを放棄している。したがって、Kの共存在は第五条で示すIとKの《反世界》で実現すべきとされる。


 第五条(IとKの《反世界》)

 本契約書で示す《反世界》は《エントラ》が行動指針としている《反世界》とは定義が異なるため、以降では区別してIとKの《反世界》をHに置き換える。

 Hは、Kの共存在をKと邂逅させるための道具として扱われる。


 第五条第二項(Hの形式と責任者)

 原則としてHは非現実的小説で収まり、その小説はIによって書かれるものとする。つまり、KがIの利益を創出する代わりに、IはKの利益を補うための執筆乃至代償を支払う解釈が為される。


 第五条第三項(Kの共存在に賦与される設定)

 HにおけるKの共存在はKの姉として設定され、Iとは仕事関係で出会うストーリーラインが形成される。Iを経由してKは自らの共存在と対面し、空想的姉妹の軋轢に苛むことが求められるが、必ずしもKとKの共存在は幸福を享受しなくても良いとされる。


 以上の通り《エントラ》契約が成立したため、本契約書を四部発行し、本契約に関わる四名(または二名と二体)が一部ずつ保有する。


 平成○○年 四月 一日

 I K M(代理I)N(代理I)


 読み終えた彼女は瞬時に二十歳ほど加齢したような顔つきで、こう答えました。

「指摘事項で埋め尽くされている契約書ですね。どうして伊東さんは署名してしまったのです」

「あなたの妹の苦悩を感じ、異常者である自分の利益を優先させた結果です」

「とすれば、この契約によって伊東さんはぬいぐるみとの会話ができるようなった、と?」

「はい」「デショウネ」「ヲ持テナイ手ダカラ詢子ニ代筆シテモラッタワ」

 息を深く吐き、エイプリルフールが従順に適用された世界だったら気が楽たったのに、と独り言を呟いた彼女はノートパソコンを閉じ、ポロシャツの胸ポケットにしまいました。

「非現実な所作も自然にこなしている時点で、私は《反世界》の住人だと自覚するべきですけど、一つだけ教えてもらいたいことがあります」

「《エントラ》契約書に金森さんの署名だけ取らなかったことでしょうか」

「それも悲しいことだけど、見逃します」

「では、私が書いた《反世界》……契約書上のHは一度失敗して、金森さんが私に代わってこの子達の共存在になってしまったことに対する不満ですか」

「そんな展開も遠くて近い過去にあったかもしれないですね。理不尽なバットエンディングは確かに心地良くなかったですが、あれもあれで伊東さんが一時的に望んだ場面だと思えば割り切れます」

「ソウオッシャッテ頂ケルト幸イデス」「何ダカンダ、金森ガ一番大人ネ」

 ミュートリアとニャオデリカが彼女を認めているように、私も彼女の人間性が好きでして、自分を好きでいてくれた(でも、実際は……と真実を語るのはつまらないのでやめます)彼女其物を私は好きになれました。

「ところが、こんなにもややこしい世界で混乱を絶やさない伊東さんの努力により、わたしは……いや、あの愚妹は伊東さんと結ばれなかった」

「ええ。代わりに結ばれたのは私とこの子達。金森さんと世界=外=存在の少女です。共存在の鎖は非常に強力でした」

 其処にこそ、私が唯一確かめたいことがあるのですと金森さんは目を見開いて叫ばれました。

「共存在って何だったのですか? 私はどうして架空の人物として、何もかも中途半端な組織を立ち上げた妹に寄り添う必要があるのですか?」

「怒っているようでしたら、申し訳ございません」

「ええ、怒っていますとも。でも、私が腹立たしく思うのは私が実在しない不条理さに対してではなくって、私の名前が設定されていないことでもなくって、《反世界》に似た時空間……《此処》の不安定さに対してなのです」

 須臾、私の脳漿は氷塊の牢獄に収容され、全ての思考が止まりました。一番指摘されたくないことを、いとも簡単に彼女は言ってのけたのです。

「都合が悪いことには意地でも黙っているあなたを見ていると、昔のあの子を思い出します。でも、この記憶もあなたかあの子によって捏造されたフォトグラフだと自認すると、ノスタルジーの欠片もありませんね」

 丸テーブルに残っていたもう一つのノートパソコンに手をかけた彼女の相貌は、名探偵に劣らない眼光で照らされています。この構図は《此処》でも《反世界》でもない舞台で会ったあなたと私の関係性を再現しているようですけど、今となってはあなたも容疑者の一人になっています。

「これは伊東さんの私物であることは、ドキュメントフォルダに隠れていたデータで判明しています」

 無言の肯定を私がした後、『hansekai』のワードファイルが彼女の意志によって開かれ、メタ階層が一つ追加された音が頭の中で鳴り響きました。

「これを書いたのは伊東さんだけど、あなたがゴーストライターであることが契約書から解釈できる。でも、私が《反世界》で追加されたフィクションの城を能動的に築き上げたのは、あの子ではなく伊東さんだったのでは」

「とても答えにくい質問です。正直なところ、金森さんは妹のためだけでなく、私のために生まれた架空人物ですから」

「ほら、またあなた達は動機を不確かにさせている。未納者の老人を盥回しにする役所のように、現実的な断定から逃げている。そして、伊東さんは屹度『不明瞭な見識も私の意志であり、世界=外=存在の少女による差し金かもしれません』って弁解するのでしょう」

 私の心を正確に読み取られているのは当然のことでした。彼女は私とあなたの一部です。共存在の線引きで私は彼女と隔絶してはいますが形式的な処分に等しく、実質的に包含し、包含されている関係であります。

「妹に会わせてください。あなた達二人の問題に首を突っ込むのは、私以外に誰がいるのですか。それに、この物語を終わらせるためには、誰が誰のために書かれた《反世界》であったのか、明確にしなければなりません」

「そのルールについては契約書の第六条で明文化しようと当初は決めていましたが、削除されました」

「代わりに、私とあの子の幸福的終末を保障せずに逃げたのね」

 丸テーブルに腰かけた彼女は自らの大腿にノートパソコンを置き、秒速三・五字のタイピングに集中しながら話を続けています。 

「収集がつかなくなったのはこの《反世界》だけでなく、伊東さんとあの子が暮らしていた世界もそうだから……二人が空前絶後の不器用人間だから、二人の仲を取り持つ唯一の存在である私が単独で責任を負うのね」

「一応、僕モ金森サント関与シテイマス」「私ガ介入スルノハ無粋ナノカシラ」

 彼女を気遣うミュートリアとニャオデリカの声は依然として届いていなく、猫らしくドーナツ状に丸まって悲しむ彼等に私は憐憫の情を忘れません。

「空白で埋められていた『hansekai』のプロット、書き足しておきました。これを採用してくれてもいいし、バックスペースで削っても構いません。でも、これだけは知っておいてください。私に私の自我を持たそうとしても、あなたが気付いている通り私はあなたという円の中に包まれている人物だから、真犯人を私一人にさせて完結した推理小説はとんでもない駄作であります」

 醜い私を映し出していた鏡は室外に出て、一人分の足跡で曲線を描きながら雪の積もる森へと消えました。美術館という場所名を借りつつ美術館らしい展開を一切作らなかった自分を咎め、まるまる書き換えることを考えましたけど、過去改変は最も美に反する行為ですので、悔いを残さずに句点を残し歪な歴史を刻む決断をしました。


 はこれでいいと思っている。が架空の姉と再会し対決する最大の山場を書かなくても、この物語は目的を果たした。かわいそうな彼女に作者としての責務を追及されたのだが、《反世界》は自らの塋域を準備して債務の相続分割について専門家との相談を始めているようである。

 《此処》であなたを見つけられなかったことだけが心残りだった。この悔恨がどういった現実と紐づいているのでしょうか……と、痴呆患者の振りをして逃走を続ける癖はどのような舞台であっても共通事項である。

 暗い旅は終わり、私の脆い人生観を支えてくれたミュートリアとニャオデリカに別れを告げるのはもちろんのこと、最後まで茶番に付き合ってくれた彼女にも二度と会うことはない。《反世界》が一般的な小説であれば可逆性を頼りに何度も物語をやり直せるが、申し上げた通り過去改変は不可能であり、誰も希望していないからこそ私はあなたが眠る枕元に自我を喪失したミュートリアとニャオデリカを供えておいたのだ。


 ――夢を見させてくれて、有難うございました。《エントラ》が推進しているそれでもなく、アルファベット一文字で代理されるそれでもない、第三の《反世界》に突入する私はようやくあなたと一つになれるのです。

                                (了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

反世界 春里 亮介 @harusatoryosuke

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ