Ⅲ
わたしは昔から狂っていまして、如何に狂っていたのかを尋問された場合には、国民健康保険の保険料を払い過ぎた際に行うべき還付金の手続き方法を丁寧に説明するほど狂っていたのかもしれなく、脈絡のない経験談を妄想の砂城で取り繕っている可能性も無くはないです。
つきましては、《エントラ》の開祖になった具体的な動機を語ることに意味はありません。不気味な宗教団体の目的に世間が共感し得ないことと同様に、なりふり構わずメンバーを集めてそれらしい集団に仕上げた私の行動指針も別に聞きたくないし知りたくもないと思う人が大半でありまして、大半でなければ日本は終わります。あの国みたいな黙示録的終末を辿るでしょう。ただし、一点だけ強調して主張したいこととして、《エントラ》は宗教団体とは違うグループであり、私に勧誘されたメンバーは常人です。こういう言い方をするとまるで宗教団体が気狂いの集まりではないかと訝る人には、その通りですと告げておきます。
宗教の是非はさておき、わたしにとって一番大事ではないのは今であり、その次に過去と未来が同着で奈落のゴールに押し寄せてきて、最後に残ったのは《反世界》であります。《反世界》は一般的な時間軸に付随しない地平にある場所にあるといえ、そのような概念が生まれたのは伊東詢子との出会いによるものでした。
「金森さんって妹か弟さん、いますか」
わたしと伊東詢子は仕事上の付き合いがあり、常にそれぞれが浮かない顔をして工場に設置する計器の仕様を形式的に確認する面談を消化していく記憶に残らない関係性であったものの、素心蝋梅が咲く頃に突然そんなことを言われました。いつもは図面と仕様書以外の話を全くしない人であったので、不意を突かれたように固まっていましたら、
「全然関係ないことですみません。何か、そんな気がしまして」
僅かに口角を上げる伊東詢子は、斜陽業界の営業らしい地味な色のスーツを着ていましたが、彼女本来の美しさは損なわれておらず、プレハブの屋根の下で黙々と業務をこなす調達部隊の油臭い職場には相応しくない客人だと感じます。
「いえ、一人っ子です」
「意外でした。姉がいそうな印象を受けましたが、私の勘違いでしたか」
「ああ、よく言われます。妹っぽい感じって何だろうって感じですけど、そういう雰囲気があるらしくって」
この話の続きは客室(黄ばんだパーティションで囲まれた椅子と机ですけど)から伊東詢子の営業車へと持ち越されて、生産管理の担当者からクレーム品を受け取った後、時速二十キロ制限の工場内を数キロオーバーして伊東詢子が運転していた時のことです。
「伊東さんは兄弟姉妹、いるんですか」
時間にして三十分ほどのタイムラグが生じた会話により、それぞれの不器用さが見事に露呈されました。共に社会人として生きていて非常に窮屈しているんじゃない、と目顔で伝え合い、
「私も一人っ子です。だから、でしょうかね。金森さんと私が似ているのって」
「似ている」
淡々と鸚鵡返しをして、伊東詢子とわたしの相似性を指摘した意図を探っていると、調達部の陰気な二酸化炭素がみっしりと詰まっている建屋の入口へと戻ってきました。車から降りたわたしは振り返ってプロボックスの外観を眺め、凹んでいるバンパーと伊東詢子の顔を交互に見ました。
「私が入社した時からこの車はボロボロでした。お見苦しくて恐縮です」
わたし達の雑談はどこかぎこちなく、年齢と不釣り合いな演者を演じている感覚がずっとしていました。けど、それはそれで自然体で居られるのだと思います。
「特別悪いことではないからだいじょうぶですよ。わたしみたいにオートマ免許を取得するのに実技試験で三回不合格になった営業マンもいるかもしれませんし」
「数で争うことはしたくありませんが、私はマニュアルの実技で四回ダメでした」
「あら」
わたしと伊東詢子の間に初めて可笑しみが齎された瞬間でした。
また、それは取引先の担当者に伊東詢子がなってから一年が経過した時のことで、《エントラ》が発足される前の話になります。要は、どちらも人見知りであり慎重で臆病な人間関係に慣れていたのでしょう。
《エントラ》と世界=外=存在の少女という言葉と概念がわたし達の中で生まれた場所は、都心から少し離れた街にある映画館でした。プライベートで伊東詢子と会うようになり、行き先は交互に提案していく暗黙の了解が適用されていて、映画館はわたしの提案です。
「土曜日なのに観客が少ないですね」と言った伊東詢子の左手には半分無くなっているキャラメルポップコーンのカップがあり、上映五分前に食欲を率先して満たす可愛らしい姿が窺えました。
「ネット上で酷評されている作品ですので」
「意外ですね。今、魔法少女系のアニメや漫画って流行っていますのに」
律儀に伊東詢子が購入したパンフレットには『さらば魔法少女の光』の掲題がポップ体のフォントで書かれていて、顔面の半分近くが双眸で侵食されているようなデザインのキャラが嬉々として映っていました。
「あの映画の二番煎じだとか、メインキャラクターの性格がクソだとか、脚本がイマイチだとか、素人が喚いた結果この有様らしいです」
百五十人ほど入れる劇場内にはその十分の一ほどの観客が空しく散らばっています。わたしと伊東詢子は丁度中央の席にいまして、右を向けば伊東詢子と暗幕だけが広がる景色に現実とはかけ離れた特別な空間にいるイマージュが降臨してきました。
突発的な告白でわたし自身も戸惑うかもしれませんが、わたしは間違いなく伊東詢子のことが好きでした。それまで何も感じず、何も期待していなかった人生を誤魔化すために常人とは違う素振りを見せてきましたけど、わたしの愛する人が不在な世界を否定するために仮初の狂気を醸し出していたのでありまして、その愛する人との邂逅を達成した以上は世間が認める一般人に戻れるはずです。
「でも、金森さんはこの映画、観たいって思ったから選んだのですよね」
「どうでしょうか。わたしと軌を一にして無価値の烙印を押されてしまったC級映画に寄り添って、可能であれば抽象的な性行為を成し遂げたい目的がありますから、単純に観たい映画かどうかって問われると微妙です」
「抽象的な性行為?」
されど、人々が望む幸福な普遍化こそ淡い期待でした。伊東詢子と共有する時間が増えていくほど、わたしの感情は言葉によって暗号化されてしまいます。
「マジョリティの好みから遠ざかった作品を知り、マイノリティの矜恃を分かち合うと換言できることです」
「そう言われると納得しました。ある意味、金森さんのポリシーみたいなものですか」
それでも伊東詢子がわたしとの関わりを持ってくれた理由は恐らく、彼女の器の大きさも一つの要因ですけど、わたしへの興味と同意を齎す厭世観が凄まじかったからでしょう。
「詢子さんは何か拘りは」
「なるべく、人との関与を断った生活を望んでいます」
「それって、わたしと休日を過ごしている時点で違っていませんか」
「金森さんは例外です。ミュートリアやニャオデリカと同じような理解者だと感じました」
外国の友人ですか、とわたしが問うと寝る時に抱いている猫のぬいぐるみです、と間を置かず伊東詢子は答えてくれました。
「私は多分、私という存在を否定してくれない者であれば、人間でもぬいぐるみでも左程変わりなく認識するのだと思います。でも、金森さんとあの子達の最大なる違いは声です。私が何を語り掛けても、あの子達は返事をしてくれません」
「ぬいぐるみですからね」
不本意ながら(当時の年齢で)二十四年間生きてきたわたしの人生の中で、最もつまらない感想を口にしてしまいました。もしも伊東詢子が普通の気狂いであればすぐさま暴れ、純愛主義な学生が好みそうな映画の予告が垂れ流されているスクリーンに頭から突っ込み、卑称代名詞を連呼しながらキャラメルポップコーンを撒き散らす最悪の未来が訪れていたことでしょう。しかし、彼女は単純な気狂いではなく、
「おっしゃる通りです。なので、私はミュートリアとニャオデリカを玩具として売られている猫のぬいぐるみとして認識した上で、二人の声を聞き取る努力をしなければなりません」
世界内の現実を現実として確り見ています。それで、わたしの中で使命の種が現出されました。とても突飛な因果で上手く説明できませんが、伊東詢子の人生観を知ったわたしは確実に変わりました。
『さらば魔法少女の光』の上映が始まった後も、彼女への貢献策をずっと考えていました。聞き分けの難しい甘ったるい吹き替えで喋るスクリーン内のキャラクターが数分置きに物故され、一時間も過ぎれば不気味に笑っている夜空の三日月が落下し、暗紫色の草木に養分を吸い取られた地獄の丘に突き刺さり、その傍で血塗れになって倒れている二人の魔法少女(らしきキャラクターだと思います)が涙を流して語り合っていまして、そこから伊東詢子の悩みを解消するヒントを直截的に得た訳ではありませんが、
「目の前の運命と戦っている彼女達は、何が楽しくて生きているのでしょう」
「脚本と演出を担当する世界=外=存在が楽しいから戦っているのでしょう」
伊東詢子の疑問を解消するわたしのメタフィジィックスワードを契機に、一つの答えに到達しました。
「つまり、生死を掌握された魔法少女が本当に救われるためには、世界=外=存在への路となる入口を探す必要がある、と金森さんはお気づきなのですか」
着眼点が凄いですね、と伊東詢子に褒められると悪い気はしませんが、あまり威張ることでもありませんから謙遜しました。
「わたしだけでなく多くの評論家が気付いていることだけど、無粋だから敢えて無視しているだけです。見て見ぬ振りをせざるを得ないエントランスの受付をうっかり済ませてしまうと、大衆から糾弾されてしまいますから」
違和感のある隠喩を使ったわたしはその違和感が徐々に心地良くなりまして、エントランスという言葉を鋸で切断し、優秀な半身である《エントラ》に新たな命を吹き込みました。グロテスクな半身である《ンス》には、せめて三文字ずつ等分した方が良かったですかね、と声をかけてから仮想空間上の不燃ゴミとして処分しました。
「でも、金森さんはその入口を通り抜けて……既に世界の外にいそうです」
「それが事実かどうかを確かめられる術はありませんけど、少なくともわたしは世界の外にいたい……世界=外=存在の少女でありたい思いは昔からずっと懐いていました」
「世界=外=存在の少女……」
改めて伊東詢子に呟かれ、しまったと思いました。いくら何でも少女と自称するのだけは許されないのではありませんか。せめて、世界=外=存在の成人女性と丁寧に言った方が適切でしたのに。
「ええ、まさしく金森さんは世界=外=存在の少女です。そう言われて凄く腑に落ちました。でも、理由は訊かないでくださいね。自己完結した結論は説明不能ですから」
ただ、伊東詢子の優しさと超越的理解力に助けられ、わたしは世界=外=存在の少女に成り得たのでした。突然変異によって生まれた肩書は《エントラ》と相俟って、わたしの向上心を高め、前進と後退の両面で解釈できる新たな一歩を踏み出しました。ちなみに『さらば魔法少女の光』の結末はうろ覚えでして、エンドロールの途中で記憶が途切れました。特筆すべき面白味のない作品は厄介なことに、最も不都合なタイミングで睡眠剤になるようです。
伊東詢子の無謀な願いを叶えるのがわたしの役目です。彼女のおかげでわたしは世界=外=存在の少女として、彼女を愛する決心がつきました。しかし、恋慕は稀に脅威を知らしめる感情であり、その稀が必然の領域まで侵攻した現状、伊東詢子の厭世観は比べ物にならないほど厖大であるが故に、わたしでは彼女の恋人になり得ない悲劇に気付いてしまったのです。ただ、予め申し上げることとして、同性愛の壁はこの際問題にはならず、わたしと伊東詢子のそれぞれが真に求めている相手――共存在が一致していない点を受け入れる勇気の欠如がわたしを迷わせているのであります。本音を語ることを厭わなければ映画館からの帰りに、わたしがあなたのぬいぐるみになって都合の良い話し相手になってあげます、と伊東詢子に告白できると期待できますが、実刑を免れない被告人が卑しい表情で涙を流して執行猶予を要求していることと同義だと思わせてしまい、裁判官が所持する木槌でわたしを撲殺する彼女の未来がいとも簡単に現在になってしまうでしょう。
苦しい弁疏を解体して簡略化しますと、わたしの恋慕は完全な一方通行だった、と言い切れます。もっと無駄を省くと、不器用なわたしだけが残存します。こんなにもややこしい世界にしてしまったことをお許しいただきたく、賃貸契約の更新を来月に控えているワンルームの密室で膝を抱いて蹲っているわたしの殻がついに破られることにしました。
まともな生活を望まず玩具との共生を道標にしている伊東詢子を啓蒙する意図は後付けであったかどうかは別として、《エントラ》を発足したわたしは休職し、この世で最も非合理的な革命を起こそうと躍起になっていました。殊の
「金森さん……いや、世界=外=存在の少女さん」
彼女がわたしを見る目が変わり始めた頃、鉛色の雨が長々と降り注ぐ季節であったと仮定しまして(この際季節は彼女との想出に全く影響しないとします)築年数の浅いマンションへ引っ越した私の新居に彼女が来訪した時のことです。
「そう呼んでいただけるということは、詢子さんも《エントラ》のメンバーに?」
「可能であればインターンシップでどんな活動をしているのか、軽く体験したく思います」
「インターン生をテレアポの消耗品としてこき使うベンチャー企業のような制度は残念ながらありません」
お試し期間は無いのですか、と伊東詢子は多少不安そうにしていまして、わたしが注いだ梅昆布茶を一口飲み、牙を抜かれたライオンがする動作と等しく炬燵の中で丸くなりました(梅雨でなく真冬であったかもしれません……)。足裏をくすぐられたわたしは前蹴りを数回ほどしましたが、クッションを踏んづけた感触しかしません。
「暴力反対、ってこの子達が訴えそうなので止めてください」
炬燵から出てきた彼女は、あの(例の?)猫のぬいぐるみ二体を持っていました。
「それがミュートリアとニャオデリカなのですね。訴えているではなく訴えそう、ですか」
「ええ。私の偶像は不完全なままでして、未だに人間とぬいぐるみの関係から越えられません」
更にがっかりした口調で語る伊東詢子の舌がミュートリアの頬に這い、真綿が噴出してしまうほどの勢いで首を絞めました。激烈な愛情を注がれたミュートリアは歓喜の声を上げ、傍にいるニャオデリカは嫉妬の炎で燃え上がるエンディングは彼女の妄想であり、わたしが望むパラレルワールドの末端でもありました。
――捻じ曲げた仮想を現実にすればいいと思いませんか?
鋭い閃きが電流のように流れ、わたしの身体を痺れさせました。今思えば何てことない常識でありまして、当時のわたしは非常に鈍感でありました。
「詢子さん、わたしを誰だと思っているの」
「鬱病だと偽って休職届を出した人、です」
「じゃなくって」
山積みになった蜜柑を一つ投げて、彼女の前頭部に命中させました。その蜜柑を拾った彼女は丁寧に皮をむいて一口で食べてしまいました。彼女の口が大きいのではなく、蜜柑が小ぶりなのです。
「――の少女、です」
「咀嚼したまま喋らないでください。みっともないし何言っているか解りません」
果実を飲み込んだ彼女が一言。「世界=外=存在の少女」
「そう、それです。《エントラ》が生んだ《反世界》の重力は不可能と可能の境界線を有耶無耶にさせます」
「消し去るとは言い切らない金森さんは、政治活動費の全額を不倫相手のために費やす女性議員の生き方を模倣しているみたいですね」
冷笑的な理論を活用する彼女からすれば、わたしは滑稽な雌猿に認定されているみたいです。それでも充分な敬意をいただいているのは、彼女を愛するわたしの矜持を守っているからでありまして、わたしからの愛に応えている訳ではありません。
「では名誉挽回するべく、うっかり当選してしまった政治家にはできないことをやってのけましょう」
《エントラ》の活動に参加すればもれなく、そのぬいぐるみ達の声が聞こえるようになるでしょう、と彼女へ見返りを提示したところ、
「とても有難いお話ですが、それでは金森さん側のベネフィットが相対的に少なくなってしまいます。私から金森さんという貴社に雇ってもらった場合の貴社側のメリットを答えないと、恐らく私は不採用になってしまうでしょう」
謙虚な就活生の仮面を被っている伊東詢子に試されていました。改めて言うまでも無く、面接官は彼女であって、わたしは就活生ですらない、冤罪を盾に拙い論弁を繰り広げる被疑者の道化でした。したがってわたしは沈黙を貫いたまま部屋の角にあったノートパソコンを拾い、打鍵音を鳴らして《エントラ》に加入してもらうための正式な契約書を作成いたしました。
「読んでください」と、ノートパソコンごと彼女に差し出しました。
「……ん? 人名はイニシャル表記ですか。珍しい契約書ですね」
「甲乙丙の次にあたる代名詞が思い浮かばなかったので」
率直な言い訳は情けなく、説明不足以前の問題を追及される恐怖に怯えていましたが、黙読の後に彼女は是非ともプリントアウトして欲しいです、と要求されました。
「金森さんの《エントラ》に私が協力することで果たしてどんな実績があげられるのか不明瞭ですが、重要なのは《エントラ》其物にあるのではなく、非現実のコミュニティーに飛び込んだ私達人間達の転身だと今気付かされました。そして、世界=外=存在の少女の肩書を背負い、この世界には存在しない……かと言ってユートビアなどの宗教的桃源郷とは一致するはずもない……彼処を望む金森さんにわたしがしてあげられる最低限のことを遂行して、共に救われなければならない責任を感じています」
私の解釈、どうでしょうと確認されましたが、否定する理由が見つかりませんでした。裏を返せば、認めていいことかどうか判断を下す材料も無かったのです。結句、わたしは彼女に操られた舞台で活躍して、夢を見ない眠りにつくのです。
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