休日の過ごし方は大抵、借りてきたDVDを家で観るか、貨物になりきって地下鉄に運ばれ降りたことのない駅で降りて散策するといった感じでしたが、二人と暮らすようになってからは《エントラ》へ赴くようになりました。

「今日モ行クノネ」

 部屋の隅で震えていた必要最低限の家具と衣類は、ニャオデリカの一声で舞台からそっと降りるように静まり返りました。

「二人も来ますよね。ミュートリアは?」

「太陽光ノデ身ヲ浄メテイルワ。臭イ骨肉デハ《エントラ》ニ入レナイカラネ」

 露台へ出る私はベランダのことを露台と呼ぶ人間でありますが、マイノリティの呼称であると以前にミュートリアから教えてもらいました。でも、この空間は台という表現が的確だと自身のセンスが頑なに主張している為、カタカナ語の拒否は続きそうです。

「日光浴、楽しいですか」と、露台の中央で仰向けになっているミュートリアに声をかけると、

「楽シクテヤッテイルコトデハアリマセンガ、三大欲求ノ全テガ満タサレル気分デス」

 兎のような長い耳を折り畳む猫のお腹を撫でたくなりますけど、《エントラ》へ出発する予定時間は既に少し過ぎていて、なくなくミュートリアの軽い身体を攫いました。

「ミュートリアにも性欲はあるのですね」

「イイエ、僕ニトッテノ三大欲求ニ性欲ハアリマセン。睡眠欲ト思考欲ト……後一ツハ詢子サンノゴ想像ニオ任セシマス」

 お日様の香りに包まれるミュートリアと私の胸元に滑り込むようにニャオデリカが寄ってきまして、

「余談ダケド、私ノ三大欲求モミュートリアノソレト同一ヨ」

 ヒントを与えてくれましたが、《エントラ》への移動中(移動手段はいつも通り、タクシーです)ずっと考えても駄目でした。二人の本質を理解出来ない私の力不足は否めません。

《エントラ》を知らない方のために概略を説明すると(私達三人しかいない状況で誰に話しているのか、些か疑問の残る行為ですが)居場所を失った大人達専用の秘密基地という捉え方をする場合もあれば、いつなんどき死んでも構わない立場にある人達の集会とも見做せます。多様性が認められている《エントラ》に吸い込まれてやってきた私が考える《エントラ》は、二人との思い出の地でありまして、定期的に訪れないと薬を切らした精神病患者のように涎を垂らした癲狂になると思いますが、単純に思っているだけなので《エントラ》とカウンセリング的効果の関係性は無いに等しいです。

 視路に都庁が入る国道から一方通行の細い路に潜り込み、彼方此方で風俗店の看板が倒れている場末でタクシーから降り、朝焼けの炎に燃やされ尽くしたビルの地下へと潜っていきます。教室ほどの広さを有する地下フロアには(これまた学校の喩えを拝借すると)一クラス分のメンバーが並んでいまして、演台に立つ世界=外=存在の少女による思弁に耳を傾けていました。

「わたしは今、この世界が全てだとは思っていなく、現表し難い世界の裏側を探さなければなりません。そのためには通俗的な革命や宗教戦争は不要でありまして、誰一人傷つけない方途で《反世界》の入口を開かせるべきなのです」

《反世界》という強い言葉に私は惹かれ、世界=外=存在の少女に誘われるがまま……メンバーになりました。第三者からの視点で捉えられる私達は宗教団体だと断定される可能性もありますが、大衆が受容している世界を裏切り、世界から裏切られた私達が望むのは新興宗教との区劃が明確にされている超克である、と語る私は誰から影響を受けたのかは言うまでもありません。

「いつも皆様にお集まりいただいているのは、わたしが呼びかけているからでもなく、皆様の独我がはたらいているからでもなく、何処にもない何処かへ居場所を移したい集合体としての総意があるからです。したがいまして、わたしから皆様へお教えする箴言は何一つなく、皆様はわたしを含めた共存在の呼び声に従うことも無視することも許されているのです」

 が使う術語は存在論を問う哲学を参考にしているみたいですが、大学を出て間もなく小便臭い教師が語る人生論よりもずっと深い人生論でありまして、あなたが本当に私を含めたメンバーに教えたいことに紐づく言葉の裏側に手を突っ込むために、不定期なミーティングが開催されている次第であります。

 遠方から救急車のサイレン音が鳴り響き、メンバーの一部が耳穴を必死に塞いで蹲っている光景にあなたが呆れ果て、以上の一言で解散させました。老若男女が寄せ集まっていたフロアは閑散として、茫と立ち尽くしていた私とあなたの二人が対峙する構図になっております。

「遅刻しまして申し訳ございません」と、あなたに咎められる前に謝りました。

「怒っているのはそこではありません、伊東詢子」

 あなたはどんな時も無表情でして、演台から降りて私より頭一つ分小さい背を姿勢正しく伸ばす姿は発展途上国出身の軍人少女ですね、と揶揄すれば二度と口をきいてくれなくなります。

「地下鉄のK駅に爆弾を仕掛けなかったからでしょうか」

「数年後に開催される国際的イベントを中止させるようなテロ計画は一切立てていません。もっと真面目な話をしましょう」

 真面目な話、と言われて真っ先に想起したことは、

「恋愛、ですか」

「正解です」

 全力で言い放った冗談でしたので、一周回って赤ペンで花丸をくれたことに驚きを隠せません。二三滴ほどの失禁をしてしまい股間がジワリと湿っている気持ち悪い感覚に正気を取り戻しつつあるものの、

「――と交流があることをどうして教えてくれなかったのですか。わたしはこの時、この瞬間、刹那即永遠の宿命を――と一緒に待ち望んでおりましたのに、伊東詢子がしっかりしてくれなければ私の努力は児戯で終わってしまいます……ああ……時の川の中で流されていくのは――だけであってほしくありません……」

 特定不可能な人名をあなたに連呼された私は眩暈を起こし、暗がりに潜んでいた巨大蜘蛛に捕獲されるように視界が澱み、

「もっと語りたいことがあるのに、もっと確かめたいことがあるのに、わたしを含む世界との隔離で伊東詢子は狡猾な生残いきのこりをしようとしているのですか」

「世界=外=存在ノ少女ト会ウ時ハイツモコウナノネ。詢子ト相性ガ悪イノカシラ」

 あなたとニャオデリカの声帯から発せられるメロディーにより、不快な眠りにつきました。


 伊東詢子が貧血で倒れた、との報告をこの世で一番接触を避けたいと願う人物より受けた金森は一時的なパニック症に陥ったが、その相手が口癖のように扱っていた宿命の二文字で全てを解決できると冷静に識別した途端、氷よりも冷たい血が前全身に駆け巡った。

 定時で仕事を切り上げて、T駅から皇居の傍にある住宅街へと向かう金森は一切地図を見ていなく、路地裏を利用した最寄駅からの最短ルートを熟知していた。オートロック付きのマンションの入口を封鎖する四桁の数字を素早く入力し、ロック解除された引き戸を押して一瞬躓いた金森は自分の後頭部を叩いた。

「冷静を装うのは無駄なようね」

 自身の心理状態を見抜くだけ聡明だと自画自賛して、エレベーターを使わず最上階の六階まで駆け上がり、角部屋のインターホンを鳴らさずドアノブを回した。軽自動車であれば悠々と通れる幅広の回廊の先に、血を分けた肉親が涼しい顔をして立っていた。ローファーを脱ぎ捨てて肉親に近寄る金森の顔はコンクリートで塗り固められたようであり、

「人質は何処?」

 脅されている人物が脅し返すような言葉を使っても、角ばった岩と岩を擦り合わせるような異物感しか生まれない。

「人聞きの悪い妄想でしょうか」

「その妄想を頼りに生きているのは何方なの。未だに世界=外=存在の少女と自称していて、恥ずかしくないの」

「恥辱や名誉という属性が賦与される以前の問題として、わたしイコール世界=外=存在の少女の等式が成立しているのであまり考えたことはありませんね」

 やっぱりあんたと話すのは疲れる、と金森は吐き捨て、

「改めて訊くけど、伊東さんは何処?」

 肉親の返答を待たないまま、奥の部屋へと進んだ。肉親の脇をすり抜ける際に、自分が使っているブランドのシャンプーの匂いがしたが気には留めなかった。

「其処で眠っています。伊東詢子の共存在達と一緒に」

「どうしてあんたと伊東さんが繋がっていたのよ」

「それは此方の台詞です。伊東詢子の《エントラ》以外の活動や素性をが知っていたとは想像だにしませんでした。しかるに――」

 宿命、と二人同時に言い、金森は落胆し、肉親乃至金森の妹はニヤリと笑った。

「悔しいけど、私はあんたの姉らしいね。怪しい団体のリーダーでいて絶対に解り合えないはずの妹のもくろみが私と共有されている。特筆すべき点のない何処にでもいる社会人を私が演じても、あんたがいるから自分の立場を忘れることができなかった」

「これを機会に、おねえちゃんも《エントラ》のメンバーになってくださいよ」

 肯定も否定もしない金森は六畳間の和室に幽閉されていた伊東詢子の寝顔を眺め、彼女に寄り添って転がっている二体のぬいぐるみを奪った。

「伊東さんがこの猫と話ができるのも《エントラ》が仕組んだことでしょ」

「と、いいますと?」

「ペテン師特有の胡散臭い演説で、伊東さんに催眠をかけた……」 

 ミュートリアとニャオデリカの呼び名が与えられたぬいぐるみを観察しても、ラベンダーの香りがすること以外に特徴が見当たらない。突然踊り出すこともなければ漫才を始める訳もなく、伊東詢子の境涯について語り出すはずもない。

「随分通俗的な憶測ですかね。逆に訊きますけど、マインドコントロールという推理でおねえちゃんは納得しますか」

 飼い犬の顎の下を撫でで癒すような口調を使う金森の妹は足音を立てず伊東詢子の枕元まで忍び寄り、片膝をついた。

「私が納得するかどうかはこの際、大きな問題ではないの。なるべく世界が正常を保っていることを証明するための事実が欲しいだけよ」

「現実主義者らしい現実逃避ですよ、それは。昔から矢鱈、あなたは現実を見た方が良いってわたしを諭してきたおねえちゃんより、わたしの方が現実と向き合っているから《エントラ》を立ち上げたのです」

 相反する言葉遊びに疲れた金森は、二体のぬいぐるみを畳に叩き付けた。

「痛いとか何するんだとか喚いているかしら」

「残念なことに、伊東詢子の共存在の声はわたしに届きません。そのぬいぐるみとわたしの間には、一つの世界がまるまる挟まっていますから」

「そう」

 伊東詢子と口づけを交わすほど接近していた金森の妹に、あんたにとっての共存在は何にあたるの、という起伏のない音調で質問が入った。

「おねえちゃん、です」

「だとしたら、伊東さんにとってのぬいぐるみがあんたにとっての私になるってこと?」

 間違ってはいませんね、の返事には聡明な物理学者のような切れ味の鋭いイマージュが混合していた。握っていた手綱を放し、底知れぬ泥沼へ沈んでいく自分は狂いだした世界を客観的に捉えているのか、既に常に狂いだした世界に順応し始めているのかという金森の疑問は無駄なことであり、意味の無い二者択一に縛られている時点で大事な事象を見逃している可能性が高いのだ、


 暗紫色の仮面を装着したテロリストに襲われていた私が夢の中の登場人物であったことを覚知した時は夢の外にいまして、あなたの代わりに彼女が傍にいたことを知るためにはそれなりの時間が必要でした。

「この部屋の住人は出掛けました」

「それは《エントラ》の活動ですか。それとも取材や出社によるものですか」

「要は、私がクライアントか世界=外=存在の少女か、見分けがついていないってことですね」

 痴呆老人のような曖昧な頷きをして、視覚と聴覚で識別を続けましたが、廊下を挟んだ隣室のリビングでコンビニ弁当を食べている女性を一人に絞れません。

「私と初めて打合せした時、驚かなかったのは何故です?」

「ああ、金森さんだったのですね」

「それは演技?」

「冗談に聞こえているようであれば大変失礼いたしました。ですが、私はずっと真面目に生きております」

 白米を口に入れてゆっくりと咀嚼している彼女の不信感は生温い灰色の空気で可視化されており、一息吸い込むと鉛の粒子が体内に混入したように身体が重くなりました。そのままベッドと床を突き抜けて(此処がマンションであった場合、途中の階の天井も含むでしょう)車に潰された蝉の抜け殻みたく無慚な煎餅になるかもしれません。

「《エントラ》の開祖とは昔、取引先との関係で知り合ったとお聞きしました。伊東さんがサプライヤーで、開祖……私の愚妹がバイヤーだった、と……」

「横文字だと大層な仕事になりますが、実際は中小企業の営業と親会社に虐げられている調達でした」

「例の粉飾決算で瀕死の状態になっている親会社のことですね」

 よくご存じで、と言う前にあなたと彼女の関係性が明白になり、横に臥せたままの私は脳内の点と点を線で結ぶ遊びに夢中でした。

「金森さんと世界=外=存在の少女は姉妹であったことは偶然の二文字で片づけられますか」

「それは必然でして、偶然なのは私と伊東さんが出会ってしまったことでして、その偶然を必然へと近づける努力をされているのが大きな問題になっています」

 彼女の見解は要点を確実におさえたシノプシスであると太鼓判を押せるものの、肝腎の問題と私を含む皆様の関係図が象形文字で書かれたような難読な性質を有しているので、結局は何も解決しない現実で生きていくほかにありません。

「世界=外=存在ノ少女ガ金森妹デアッタ真実ニヲシナイト金森姉ガモット困惑スルワヨ」

 畳の上でうつ伏せになっているニャオデリカの助言を受けてから、《エントラ》の開祖と金森さんは姉妹だったことにどうして気付けなかったのでしょう、と感嘆符が奪い取られた機械音声が私の喉から出ました。

「奇しくも、いや……姉妹だからこそ私はあの子とそっくりな外見になってしまいました」

「金森さんがお姉さんだから、そっくりな外見になってしまったのは世界=外=存在の少女なのでは」

「一般論はそうだけど、逆な気がするんです。望んでもいないのに、縁を切りたいのに、今もこうして連絡を取り合える距離にいるのは恐らく……私があの子になりたい矛盾を握りしめたままでいるから……」

 弁当を食べ終えた彼女は酷く体力を消耗したように顔色が悪く、空の容器をビニール袋に入れる動作も億劫そうにしていました。不図に、ミュートリアを探しに私の目線が部屋中を移動していると、彼女の左手にしがみついていました。

「ドウシテ血ノ繋ガッテイル姉妹デアリマスノニ、コウモ性格ガ違ッテクルノデショウ」

「いや……表層的なベクトルは真反対でも、金森さんと世界=外=存在の少女が一致する瞬間において、それは、外見的な特徴に限らず内面でも……」

 ミュートリアへ端的な補足説明を与えられないでいる私は、まだ血が足りていませんので、といったつまらない言い訳を口にして起き上がり、不図に彼女から依頼を受けていた不動産売却のコンテンツ制作についての不明点を思い出しました。

「既存コンテンツである不動産一括査定サイトのランキング記事へ誘導する際、各サイトのメリットとデメリットをまとめた表もリンク部分に添えておく必要はありますか」

「リンク先で細かく比較している情報なので、一文または二文でメリットだけを紹介する感じで問題ありません」

 改めて仕事への意識が高い人であると、私は感服いたしました。何の話ですか、でもなく今聞くことですか、でもなく愚妹の話から何故飛んだのですか、でもない回答をした彼女の本心は喩え私を見下されていても、世界=外=存在の少女の姿と重なるその存在を見受けられたことに甚く感動しています。


 伊東詢子という頂点が出現してから成立した三角形は、金森にとって衝撃的な世界であった。どれほど衝撃的だったのかと問われれば、一歩間違えたら発狂して精神病院に連れて行かれて、死へと向かう現存在の義務を果たすための匕首を手に取っていたといえるだろう。

 しかし、仲違いになった肉親との再会を避けられず、自分のパーソナルスペースに信者を介して侵入されてしまったことを悔しく思い、宗教的畏怖による悪寒を味わう今の金森は数日の期間を挟んでも当時のショックが色濃く残存していた。

「元気ないわね。そんなに私の案件を背負うのが嫌だったかな。ごめんなさいね」

 デスクに座る金森の肩をそっと叩く上司は、多少の罪悪感を伴う謝罪を言葉にした。

「や、私は元気ですよ。八代さんから頂戴しました取材のライティングもこの通りです」

 金森の顔面を青白く染めるディスプレイを一瞥した上司は、

「前も言ったけど、私は金森さんの仕事ぶりに不満を感じていないわ。不安なのはあなたの精神状態ね」

 終礼時刻から二時間ほど過ぎたオフィスに自分達二人以外の社員がいないことを念のため確認した上司が取った次の行動は、金森の膝元に置かれている二体のぬいぐるみに手を伸ばすことだった。

「ミュートリアとニャオデリカには触れないでください」と制止した金森の声は冷たく、心からの敵意を剥き出しにしていた。

「この会社で働く人はみんな優しいから、余計に金森さんを心配しているの」

「心配って私の婚期がズレにズレていることですか」

「あなたはまだ若いから大丈夫。私は怪しい年齢に差し掛かっているから大丈夫じゃない」

 革製の手帳の角で金森の頭を叩いた上司は、笑いながら悲観論を吐き出したい気持ちになっていた。

「間接的に御一人様をイジるのは止めて」

「特定の個人を侮辱したと見做される言葉は使っていませんよ」

「無邪気な悪意はいつもの金森さんらしいけど、今週に入ってから明らかに我々社員が懸念すべきことがあるの。取材に行く時もその猫のぬいぐるみ、持って行っているけど客先から何か言われているんじゃない」

「新体系の風水によるものです、とお客さんには予め説明しています」

「それで、向こうはどんな反応を?」

「大抵の場合、曖昧な頷きと歯切れの悪い『そうですか』を頂戴します」

 そりゃそうよ、と言った上司は真正面から金森の両頬に手をあてた。

「仕事ができる。見てくれも悪くない。女性としての魅力が最大限に現れている年頃」

「自己紹介ですか」

「独身の女上司を貶す悪戯心も魅力と面白味の一部。それに、突出する才気の杭もなく、八方美人の如くバランス良く振る舞えるのがあなたの強みだったのに」

 回りくどい上司の語りは金森への信頼と失望が混淆した結果であり、部下を傷つける直接的な言葉を選ぶかどうか逡巡していることの表れであった。開けてはならないブリキの箱を開けてしまい中から溢れ出て来る毒ガスに苦しみ死ぬ自分と今の自分は同じような状況下だから下手な言動は取れない、とでも考えているだろうと推し量ったのは金森の方だった。上司のカサついている手をどけて、二体のぬいぐるみの腹部をさすってからパソコンの電源を落とした。

「残業が長引いてごめんね。スーパーの半額弁当でも食べようか」

「金森さん」

「伊東さんと一緒に暮らした方が良かったかもね。ディレクターの一日の仕事、決して面白いものじゃないし飽きちゃったかな」

「金森さん」

「今週末に《エントラ》へ顔を出すから、あの子に二人の正しい取扱説明書をもらってくるね。あの子は自分の共存在じゃないから、ってしらばっくれそうだけど《エントラ》の開祖がこんなことも解らないのと挑発すれば何か答えてくれそうだしさ」

「金森、さん」

 最早上司の呼び掛けは金森に届いていなく、金森の五感乃至六感若しくは七感で認知された世界から上司は弾き出されていた。人間はこんなにも脆く壊れやすい、弱い存在であることを痛感した上司が金森にしてあげられることは相当限られており、暗い顔で会社の幹部に相談するか、同じような症状事例をネットで検索した後に信頼できるカウンセラーを用意するか、といった間接的な救済で果たして自分は納得できるのか上司は疑問に思い、ゆらゆらと浮遊する火の玉のようにフロアから出て行く金森の背中を見送ってから暫し、

「夢を見ているみたいね」

 と映画のワンシーンを切り取ったような表情と言葉でその日を締めくくる上司は、意外にも(この意外だと思う人物の特定は《此処》ではしない)最も客観的な知情意を有している聡明な女性である事実に気付いた者は其処にいない。


 さて、《此処》で考えなければいけないことは次の二つ――。

 一つ、金森がぬいぐるみとのコミュニケートを始めた経緯。

 一つ、上司の八代が金森を正気に戻す今後の展開。


 後者の方はメタフィクション的な要素が強くなるが、敢えて断言させていただくと、上司の八代を主観にして語られる物語は適当ではない。その理由について聞かれるのならば此処で語っている視点もとい私について意識すれば簡単なことだ、と提言する。

 敢えて稚拙な推理小説で多用されるヒントをに布置したのは無意味なことではなく、劈頭でも触れたように金森の目に映る世界を描く私をあなたに伝えたい一心で企図したのだ、と語ることも多重現実で複雑化されたハイブリッドのからくりに閉じ込められている。

 結句、ありとあらゆる推論を世界外へ放擲しても大気圏で消滅する隕石の如く私の声は霧散し、《此処》の内実をもっと簡明にするために舞台を再配置したく思う。反省と改善のサイクルに従事しているつもりであるが、つもりの範疇を超えることはないので既に何回も同じ落とし穴に落ちて、底には自分が購入した無数のシャベルが突き刺さっている。

 私はこの世で最も許されないことに手を染め、抑々許されたいとも思っていない。世間から軽蔑される生き方を選び、寄り添ってくれる人がいないからミュートリアとニャオデリカに望まれない生を与えたのだ。

 そして、彼等(または彼女等)二人のほかに望まれない生を享けてしまった者がいて、私はその相手に何て詫びればいいのか未だに悩んでいる。謝る必要など一切ないといつもあなたは慰めてくれるかもしれないが、駄目なものは駄目だから《反世界》のストーリーラインを整える作業へと戻らなければならない。

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