反世界

春里 亮介

 爾後、私が語ることは私の存在をあなたへと伝える目的を備えており、最終的に理解されなくても自己満足を以て顛末を《此処》に残すとする。

 だから、苦情は早めにした方が良く、止めるなら今のうちだ。途轍もない回り道を辿ることになり、後戻りはできないと決められた暗い旅の出発はあなたの自由意志によって委ねられており、正確には私の匙加減で全部コントロールされている。選択権を与えた風に言ってしまったが、実状では私の独断以外の反論は受け付けられないのだ。屹度あなたは不公平なことを理由に毒言を吐き、知性と暴力に身を巻かせた制圧をたくらむだろう。

 でも、あなたにどう思われようとも、それぞれに必要な共存在がいる世界がこの世界ででなかったのだから、様々な犠牲を払い、結果として二人の女性が邂逅する瞬間へと転換することに異議は無い。無論、この異議にあなたの意志は除外されている……。




 窓の外に広がる風景が煌びやかな桜の彩光を強めるほどに、私の内界が澱んだ影の海へと沈んでいく因果は自明のことでありまして、四季の概念を拒絶したところで外界の時の流れに置いていかれる理不尽さもまた疑い得ません。

 必要以上のマイナス思考は決して苦ではなく、適度なリラックスを伴う頭の体操とも捉えられますが、子連れの客が多く騒がしいファミレスで私は実際のところ何をしているのかといえば、ブレンドコーヒーの苦みを舌で遊ばせながら春爛漫の景色を心で感じている訳がなく、窓際の四人席で初対面の彼女とぎこちない空間を共有している次第でありました。

「御食事ヲ疾ウニ終エタノニ、何故其方ノト御話ヲ進メナイノデスカ?」

 ずっと黙っていた時間を壊してくれたのは、右隣に座っているミュートリアでした。

 デミグラスソースがこびりついた皿を凝視するミュートリアは一刻も早くテーブルを片付けたい思いでいっぱいでしょうけど、皿を端にどければノートパソコンを置けるスペースを作れるので、ウエイトレスを呼ぶ必要性は特段ありません。

「面倒ダワ。ダカダカ知ラナイケド、待タサレル私達ノ気持チモ汲ミ取ッテヨネ」

 鋭利な氷柱で肉塊をつつくような声音を発するのは、左隣で寝転んでいるニャオデリカです。

 愚痴をこぼしながら私の腰を短い腕で叩き、対座している彼女との接触を催促しています。その彼女こそ、ミュートリアが言っていたクライアントであり、ハンバーグランチを堪能して革製のソファーに深く座る私を怪訝そうに窺っている女性であります。

「あの、そちらの……」

 彼女の視点は頼りなさげにフラフラと漂い、私を挟むミュートリアとニャオデリカを交互に行ったり来たりしているようです。

「ジロジロ見ナイデヨ。アンタニ用ガアルノハ私ジャナクテ詢子じゅんこデショ」

「駄目デスヨニャオデリカ。初メテ会ウ人ニ対シテ、アンタト呼ブノハ失礼デス」

「尤モナコトダケド、変ニガ溜マルノヨネ」

 分別のあるミュートリアが感情になりがちなニャオデリカを嗜めるのは日常的なやり取りであり、非日常の陥穽から逃れられる安心感を得られます。

「ごめんなさい。この二人ったら、お喋り好きなので。仕事の邪魔になりますよね」

 頭を軽く下げて陳謝した私は温くなった水を一口含み、グラスに付着した水滴を掌で何度も拭いました。その行動には合理的な意味はなく、対人コミュニケーション能力における欠落が不安定に示唆されているのだと思われます。

「そう、ですか」

 会釈した彼女の眼は笑っていなく、黒目の奥に潜む暗雲が鈍い稲光を走らせているようでした。扱いづらい人間であり、直接対面するのではなくチャットで全て打ち合わせを済ませるべきWebライターであることを御理解いただけましたよね、という半強制的な同意を求めたのは妄想上の私でして、

「クラウドソージングでいつもお仕事をいただき、助かります」

 実際の私は最低限の言葉で応答していました。社交辞令の感謝でなく、本心です。不器用な私は単価の安いWebライター一本で収入を得る愚直さと生き方を選択してしまいまして、クライアントによっては千文字書いてもワンコイン弁当すら買えない低価な仕事しかもらえません。

 幸い、彼女が所属しているベンチャー企業から継続的な案件をもらい、その上専属ライターとして今後、新規オウンドメディア向けのコンテンツを担当してもらうという良い話をいただきましたが、口下手と対人折衝能力不足のダブルパンチによって彼女を困らせてしまっています。

「いえ、こちらこそ伊東さんにはいつもお世話になっています。ところでその……」

 彼女は再度、何かを言いかけましたが同じ時を繰り返すように会釈をして、

「優先的に書いてもらうコンテンツのキーワードを、検索ボリュームと併せてお伝えしますと……」

 真四角のビジネスバッグをあさり、使い古されたタブレットを出して具体的なライティングの依頼内容を教えてくれました。その間、ミュートリアとニャオデリカは彼女に興味津々な様子でいます。

「アンタ……ジャナクテコノ女……先刻カラズット私トミュートリアヲ観察シテイルワ。アイドルヲ舐メ回スヨウナ目線ハ止メテヨネ。私達ガアマリニモ可愛イカラショウガナイケド」

「コノ女、デモ充分ニ失礼デスガ、ソレ以上ニ失礼ナノハ自分自身ヲアイドルニ置換シテイル点デス。ダト勘違イサレテシマウカラ言葉ニハ気ヲ付ケマショウ」

「ハイハイ。謙虚ナ猫ノ美ヲ磨ク努力をサセテイタダクワ、デイイノネ」

「幾分マシニナリマシタ」

 二人の会話が止まらないので、無理矢理口を塞ぎました。

「お話は後にしてくださいね。家でちゃんと、お茶菓子も出しますから。SEO対策になるライティングのルールを折角ご説明いただいているのに、全く頭に入りませんよ」

「ゴメンナサイ」「悪カッタワ」

 聞き分けが良く素直な猫でありまして、多少の迷惑を被ることがあっても即座にこの子達を許せます。ただ、自由奔放な性格については初対面の相手が戸惑わせる障害になってしまい、事実彼女はクエスチョンマークを頭部に終始ぶら下げていました。


 T駅から歩いて五分ほどの場所にある雑居ビルのオフィスへと戻った金森は、薄手のカーディガンを椅子の上へ放り投げ、ポストに入っていた郵便物を上司へ手渡した。

「要らないダイレクトメールもあると思いますが」

「ありがと」と言った上司は笑顔で、大半の封筒を近くにあったシュレッダーにかけた。

「先程お会いした、ライターさんのことでして」

「あまり信頼できない人だったかな。金森さんの顔がそう語っているよ」

 そんなつもりでは、と金森は否定しかけたが、恐らく自分の表情が非常に複雑そうにしており、マイナスの符合をなりふり構わず奪い取ったような陰気臭い顔を客観的に想像できたが故に、とある質問を選んだ。

「八代さんは、ぬいぐるみを好き過ぎる女性のことをどう思いますか」

「突然どうしたの。話題転換かしら」

 首を横に振った金森の神妙そうな眼つきで察した上司は、言葉を続けた。

「年齢にもよるけど、そういう趣味の人はまあ……いるんじゃないの」

「ちなみに八代さんは?」

「嫌いじゃないけど、ぬいぐるみは興味ないかな。三十路交差点を通過した身分だと、ちょっとね」

 自虐を織り交ぜた冗談と渇いた笑いで持論を述べる上司に、

「前も聞いたことありましたけど、三十路交差点って直進と右折、または左折で何が違ってくるのでしょう」

 硬い口調で金森が掘り下げようとすると、上司は手許にあったレジュメの左端にホッチキスを留め、隣席にいた別チームの社員に会議資料ですと言って渡した。

「で、何の話だっけ」

「はぐらかし方、下手ですね」

 不毛な会話であるかもしれないが、無垢な笑顔を見せる上司の若さを維持できたことに金森は嬉しくなった。

 オウンドメディアを運営するベンチャー企業に入社して一年が経ち、経験を積んだ金森はディレクターとして責任のある業務をこなす日々を充実させていた。仕事場における人間関係も良好で、滞りなく進む小川のせせらぎと軌を一にして穏やかな時間に流されていく。

 けだし、引っ掛かりのない毎日であったからこそ、今の金森にとって先程の出逢いは印象深いものになり、日常的な可笑しみが心の角に溶けて無くなる速さに背筋を凍らせた。

「結局、ぬいぐるみ好きの女性の話とライターさんの件で、何がどう繋がっていたの」

「簡潔に申し上げると、ライターさんがぬいぐるみを好き過ぎるみたいでした」

「単純な好きじゃなく好き過ぎる、ね。人それぞれ個性や感性ってものがあるから、趣味や考え方の違い……度合いは異なるからしょうがないんじゃない」

 馬の合わない相手であったとしても、クラウドソージングを通して仕事仲間になった相手だから、割り切るのが大人の対応だ、という箴言を上司は直接的に言表せず、自分なりの曖昧な喋りと目で訴えた。

 ――八代さんのおっしゃっていること、よく解ります。でも、ぬいぐるみが好き過ぎるっていう言い方には……もっと厄介な事情が含まれているんですよね。

 金森は事情の仔細を上司に明かしたい欲求を腹の中へ押し留め、自席での事務作業に没頭した。着用していたカーディガンをクッション替わりにしていたと気付いたのは、退社後の帰路で肌寒い灰色の風を浴びた時のことだった。

 数日後(金森の体感では数カ月後)、ビジネスチャットツールの新着メッセージを就寝前に確認した金森は、例のライターからの連絡を何度も黙読した。


《先日はお時間をいただきまして、有難うございます。早速ですが、ご依頼いただきました下記のコンテンツにつきまして執筆いたしました。お手数おかけします。ご確認願います》


 使い回された定型文を分析しても、相手の感情を読み取れるはずがない。自らの愚かさを痛感するとメッセージの添付ファイルをクリックして、ディレクターとしての金森がするべきことを優先した。

 金森が携わっているオウンドメディアの意義を一言で表すと、コンテンツという広告を利用して効率的なセールスを実現することであるが、金森自身の感覚で答えるならば文章で他者を誘導する意味合いになるだろう。

 個人のブログやソーシャルネットワーキングサービスを利用して、薄っぺらい自己顕示欲を小学生レベルの言葉やありふれた構図の写真で表現する流行(乃至は感染症)とは一線を画し、検索エンジン対策のほかコンテンツ内の自然且つ合理的な販促で価値を生み出すWebマーケーティングの土台に多くの可能性を秘めていると金森は信じていた。

 例のライターが製作したコンテンツをワードファイルの変更履歴を使って添削しようとしたが、金森にとって修正点の見当たらない無欠なコンテンツであり、添えるコメントは皆無であった。しかし、ワードファイルを閉じる前に腕を組んで熟考すると、ありがとうございますの一言で返すのは無粋であると見做した金森の気遣いは、チャットに長文を埋め尽くした。


《早急なご連絡、ありがとうございました。コンテンツを確認させていただきましたが、これで問題ありません。相続税の算出方法を図で分かり易く伝えられて、とても良かったと思います。それと再度恐れ入りますが、伊東さんのご都合の良い時にまた打ち合わせをしたく思います。場所は前回と同様、伊東さんの家の最寄駅にあるファミレスで考えていますが、いかがでしょうか》


 メッセージを送った後、自分があまり冷静ではないことに金森は気付く。再度とまたが重複関係になっている……前回と同様と言っているのだから、伊東さんの家の最寄駅という情報は不要……いかがでしょうかという曖昧な質問の投げかけ方……ライターを兼任しているディレクターが書くビジネスメールとしては、あまり誉められたものではなかった。

 洗面所へ移動して、鏡に映る人物の表情から動揺の気配を探ったが、喜怒哀楽の全てを放棄したのっぺらぼうを泡立てた洗顔フォームで蔽っても、つるんとしたゆで卵の表面以外の印象を感受しかねた。無個性の閾値に達すると人間の顔として認識できないことを学んだ自分の半身は夢を見ていても、残りの半身は現実に存在すると断言し得ない理由を考えている裡に眠くなり、寝室兼リビングに戻ってノートパソコンの電源を切ろうとした金森に新たなメッセージが届いた。


《別に構いませんが、金森さんにとって有益で期待できる話は私からできないと思います。それでも良ければ》


 謙虚な姿勢に相手本来の性質が備わっており、金森は胸をなで下ろした。仮に相手が善人でなかったとしたならば、世界の秩序が忽ち壊されてしまうから……といった推察が生まれたのは、世界の秩序が壊された後の世界を知っているからだった。

 上司の八代が言っていたように、人間にはそれぞれ個性が賦与されており、自分の理解が及ぶ空間の外へ突出した存在も少なくないものの、伊東詢子は極めて異常であることには金森は見逃せなく、所謂精神疾患に類似する人間の特徴に敏感だからこそ、一般論を捨てて相手の内界へ土足で踏み込む決意を固めたに違いない、


 目覚めるとミュートリアとニャオデリカが居てくれる毎朝に感謝しておりまして、この世界にいつか恩返しをしたいと思っているのですが、私の存在と幸福を約束してくれる御相手への捧げ方にいつも悩んでしまいます。

「難シイ問題デスカラ、アマリ深ク考エ過ギナイ方ガ良イデスヨ」と優しくフォローしてくれるのがミュートリアで、

「世界ニ対スル恩返シッテ何ヨ。哲学的ナ思弁ハ却ッテ、稚拙ナ反知性主義ヲ呼ビ起コスニナルカラ止メテ」と的確な助言と批判を口にするのがニャオデリカです。

「ごもっともです。今日は今日のことを考えます」

 両者の頭を撫でて抱きかかえ、家を出た私は春風の匂いが纏わりつく住宅街の小路を抜けていきます。この街に住んで四年近く経ちますけど、正直思い入れは左程ありません。山手線内に位置する都心の割には閑静な場所であり、私の嫌いな人種が少ないというメリットだけで賃貸契約をしたのでありました。

 駅前のファミレスに到着するまでにいくつもの学校を通過して、その度に私をノスタルジックな気持ちにさせたと言えば嘘になりまして、グラウンドで騒ぐ学生達の声と繋がる自分の想い出は消えてしまったのか初めから無かったのか、それすら判別がつかない現実に不思議という感想を述べるべきかどうか、それもまた判別がつきません。要は、何一つ解っていないのです。

「詢子サンノ学生時代ニ於ケル、興味ガアリマス」

 耳を立てる(これは聞き耳のことでなく、文字通り耳を立てています)ミュートリアの好奇心に素直な愛情が引き出されました。但し、私の愛情表現は拙く、遠い青空を見上げながら曖昧に頷くレスポンスでしかなりません。

「僕モ学校ニ行ッテミタカッタデス。詢子サンノニナッテ、教科書ノ貸シ借リヲスルケド登下校ハ滅多ニシナイクライノ程良イ仲ニナリタカッタデス」

「それは、私とは深く関わりたくないってことですか?」

「イイエ。詢子サンノヨウナ眩シイ存在に触レテシマウト身体ガ燃エ上ガリ、僕ノ愚カサガ灰トシテ積ミ上ガル結末ガ嫌ダカラ、適切ナ距離感ヲ鑑ミタマデデス」

 ミュートリアの見識は正しく、理智を示したものでありました。私は褒められているのではなく、間接的に危ない人物であることを見抜かれています。

「ニャオデリカは私との仮定的関係性についてどう思います」

 別の視座からの意見も頂戴したく思ったのですが、ニャオデリカにとって退屈な話であったようでして、私の左腕に抱えられたまま寝息を立てており、無邪気で挑発的な寝言を言っていました。

「私ハ人間ニナリタイノ一種……私ハ人間ニナリタイ……私ハ人間ニナリタイ……ホラ、三回願エバ御星様ガ叶エテクレルノデショ? サッサト叶エナサイヨ。ン? ソンナコトモデキナイノ? 駄目ナ流星ネ。使エナイッタラアリャシナイワ」

 愛くるしい寝顔だから許される毒言であり、これが仮に自分が読者モデルと遜色ない美人だと思い込んでいる醜悪な女性の台詞であれば、男女問わず冷めた視線を集めてしまうでしょう。

「おはようございます。お待ちしていました」

 ファミレスの入口前に立っていた彼女に声をかけられ、自分が目的地まで歩き着いたことを自認しました。普通であれば視覚で現在位置を特定できるはずですが、彼女の声音が無かったと仮定しますと、そのままファミレスを素通りする間抜けな平行世界が到来していた気がします。

「店外で待たせてすみません」「御手数オカケシテオリマス」「ンン……此処、何処ナノ?」

 三者の応対が重複した瞬間、彼女は誰の声を聞いていたのか、明確な顔をしていました。

「今日もその子達、いるんですね」

「ええ。家に置いていくと、後で凄く文句を言われますので」

「ちなみに、今も何か言っています?」「ニャオデリカガ我儘デ恐縮デス」

「二人の取るに足らないスキンシップを」「ウルサイワネ。詢子ト一緒ニイナイト暇ダカラヨ」

「なるほど」

 言葉が有する意味とは対照的に彼女は酷く悩み、目を瞑ったまま自動ドアの前で硬直しました。自動ドアが三四回ほど開閉を繰り返した時、彼女の枯葉色の瞳が日光に照らされて、その球面に呆けた私の顔面をみすぼらしく映し出していました。

「やっぱり打合せ場所を始めから変えた方が良かったようですね」

 無知な子供を宥める女教師のような口調で、彼女の言葉は溜息と混淆しました。

「それは」「病院デショウカ」「精神科ノ医師ト話スコトハ無イワ」

 二人が私の通院(若しくは入院)措置を前々から危惧しているようですが、杞憂だと思われます。何故なら、私の脳や精神が本当に癲狂でしたら、隔離病棟へお世話になる未来に慄くのは誰一人としていなくなるのですから。

「伊東さん、歌は得意ですか?」

「歌?」

 首を傾げていますと、彼女に手を引かれて隣のビルのエレベーターへと連れて行かれました。詢子ヲ拉致シナイデ、とニャオデリカが喚いていますけど、彼女に何をされても今は許容できる気分でありましたので、予定外の現実にも順応しております。


 少し強引であったがやむを得ない事情があった、と金森は自分の身勝手な行為を正当化させ、アニメッチックなデザインが目立つ猫のぬいぐるみ二体を抱えた相手へウーロン茶を差し出した。

「どうして打合せ場所をカラオケボックスへ?」

「伊東さんの歌声が聞きたかったのです」

「ふむ」

 嘘ですね、と目顔で相手に言われてしまった金森は苦笑いで本心を打ち明けた。

「人の多いファミレスでは、伊藤さんが注目を浴びてしまいますから」

「そうでしょうか。地味な相貌をしていますけど」

 話が噛み合わなくても、金森は相手を侮蔑せず慎重に言葉を選ぼうとした。

「……原因は、そのぬいぐるみにあるのですが」

 しかし、結局のところ《それら》を言及するためには、間接的な示唆が不可能だと金森が判断したらしく、

「化け猫のようなキャラクターであるぬいぐるみが喋っていると、伊東さんはお思いなのですね」

 相手の両腕に捕まえられている、バスケットボールほどの大きさの《それら》に与えられている疑惑と違和感から金森は逃げられなかった。

「思っていると言いますか、ミュートリアとニャオデリカは実際のところ喋っていますよ」

「ぬいぐるみが?」と、冷たい一言が金森の口から飛び出ても、

「二人とも、ノーブルですので」

 端的な理由で納得している相手は機嫌を悪くせず、むしろ自分が表彰されているかのような心持ちで答えた。よって、金森は本題のついでであった新規オウンでメディアの立ち上げに関するコンテンツ制作のスケジュールについて説明を始め、

「……土地や家などの不動産をどうやって売却するのか、売却する際に相場より高値で交渉するにはどうすればいいのか、といった売主側のニーズに応えること……不動産一括査定サイトへの誘導が目的になりまして……」

 微動だにしていない二体(相手からすれば二人になるらしい)のぬいぐるみから目を逸らし、国家議事堂の前でうろつく不審者の如く首を動かした。

 四畳半にも満たない狭い室内は薄暗く、選曲待ちをしているモニターが若いアーティストとのインタビューを口パクでしていた。相手との会話で邪魔になるのと、興味のない歌手が得意気に身内話で笑いを取ろうとする不快感を除去するために、あらかじめ金森が音声を切っていた。

 カラオケボックスに来るのは昨年末の忘年会であった金森の歌は素人以下音痴以上の微妙な評価を社員から得ており、とどのつまり場が盛り上がらない自分の歌声をどうにかしようと思い、少し前に流行ったヒトカラで練習したこともあった。

 自律的な会話をするぬいぐるみとカラオケボックスに関連するエピソード、執筆をお願いする対象のオウンドメディア……無秩序な情報が金森の中で入り乱れて、茫漠たる記憶の砂漠で遭難した最後には、相手の膝へと移動をした(実際は相手に持ち上げられただけだが)白色の猫乃至ぬいぐるみの双眸が金森の精神世界に警鐘を鳴らし、現実へと帰還できた。

「金森さん、この子から質問があるようです」

「え、えっと……」

「あ、自己紹介が遅れましたね。白いボディと黄色い眼が特徴のこっちがニャオデリカです。それで、青と白の縞模様が綺麗なこの子がミュートリアでして、二人は姉弟関係にあります」

 金森の戸惑いは《それら》の名前や区別が不明である意味合いではないはずだが、相手の心象は別の地平にて絶えず攪拌されていることに間違いない。

 精神科へ連れて行った方が良いのか、それとも見逃してやるべきか、金森が悩んだのはこれが初めてではなく、とある境遇によりデジャヴを感じていた。過去の自分は後者を選択したはずだったが、見逃すといった格好いい判断ではなく自分から逃走したと疑われるような情けなさを回顧して、金森は心の中で溜息をついた。

「詢子ガ前ニ書イタ相続税ノ記事ト多少重複シソウナ情報モアルケド、異ナルデコンテンツノ内容ガ似通ウノハ問題ナイノカシラ、とニャオデリカが疑問に感じたようです」

 機械音声のような相手の代弁に、難しい質問でなくてもどう答えればいいのか思慮深くなってしまう、という不安が金森の全身を縛り付ける蔦と化した幻想を果たして


 自分語りは不得意の部類に入りますが、私がWebライターになった経緯について一応は告白しなければならない雰囲気をそれとなく受け取りましたので、依頼を受けましたコンテンツの説明が終わっても彼女との話を続けました。

「前職は意外にも化成品の営業をやっていました」

 彼女は目をピンポン玉のように丸くして、

「想像がつきませんね」

 と本音を語ってくれました。

「自分でもそう思います。何で営業職を選んだのか、当時はおろか今の私ですら漠然としていまして、人生の選択肢を適当に考えた結果、そうなりました」

 Webディレクターもある意味で営業みたいな仕事ですよね、と言い足すと、彼女は首を縦に振りました。

「いわゆる何でも屋ってポジションですね。仕事量ばかり多くて大変ですけど、やりがいはありますよ」

 それと、伊東さんのような優秀なライターに支えられることでやっていける立場なので、

 メンバーとの連帯感や助け合いの有難みを深く感じるようになりましたね、と感情を込めた彼女の述懐に、

「ナカナカ人格者ラシイコトヲ言ウジャナイ。ボーット生キテイル頽落者トハ違ウヨウネ」

「ライターデアル詢子サンヲ管理シテ、全体ノプロジェクトヲ穏便ニ進行サセルノハ決シテ簡単デアリマセン。逞シインダト推察イタシマス」

 二人は彼女へ敬意を払うようになりましたが、口惜しいことに彼女へこの子達の声が届かないため、熱意に欠けた私の言葉で感動が薄まってしまいます。

「――と、ニャオデリカとミュートリアより申し上げました」

「ありがとうございます……」

 感動と同様に薄そうなドリンクバーのオレンジジュースを飲む彼女は、コミュニケートの糸が切れたこの子達を凝視しております。

「私も、金森さんは仕事熱心で善意のある人だと感じました。クラウドソージングを使ったインターネット上の疎遠な関係に留めず、こうして必要に応じて会ってくれたのですから」

「いや、私はそんな」と言葉を濁す彼女が北に向かっているならば私は南へと歩き、彼女が東へ飛び立つと私は西へ匍匐前進する関係性であることを理解しました。抽象的なインプレッションで私が何を言っているのか首を傾げる人は、どうか聞き流していただきたく思います。

「一方、私は社会不適合者の大半が感じる《それ》が手枷足枷になり、営業職に向いていないと気付いたのは五年目のことでして、上司との喧嘩と業務の引き継ぎをバランスよくこなしてから辞めました」

「それは……お疲れ様でした」「ソレカラ詢子サンハライターニナッタノデスネ」

 彼女は気まずそうに目線を落とし、ミュートリアは逆に上目遣いで私を見てくれています。

「私が望んでいること、嫌なこと、考えていること、感じていること、思っていること、知り得たこと……四方八方に飛び交う知情意のベクトルに肉体を引き裂かれ、正常に話をすることができなくなり、結論を申し上げますと私はあまりこうして他人と会話してはいけなく、会話したとしてもちぐはぐになってしまいますと確信しています」

 現に存在しているこの私も、屹度とんちんかんなプロットもとい構成で話材をピックアップしているのだと自覚しています。換言すると支離滅裂な対話でありまして、泣き叫ぶ子供をあやす方法に倦む母親のような様相で彼女は傍観されていました。

「被害妄想ノ一部ニ真実ガ混ザッテイル蓋然性モアリマスガ、根拠ノ欠落シタ仮説ヲ主張スルデモナイノデハ」

「金森ガ困ッテイルワ。詢子ラシイ失態ネ」

 二人に窘められ、幾許か正気に戻りました。グラスに残っていた氷を噛み砕き、両頬を叩いて百メートル走に臨むアスリートを模倣した気合と眼つきで私の欠点を蔽い隠します。

「まあ、何やかんやありまして、数週間の無職期間を挟んでWebライティングの仕事を始めました。それで、クラウドソージングである程度の実績を得たところ、金森さんから仕事のお誘いがあったという感じです」

 その何やかんやの詳細を説明する義務を放棄したのは面倒だからではなく、道理に適った志望動機が見つからなかったからです。このカラオケボックスが転職面接会場であれば、即刻不採用の烙印を押されてしまう体たらくでありますが、自分のことを最も知っているはずの自分がクエスチョンマークの荒波に揉まれている現状、

「まあ、試しにライティングの仕事をやってみたら、そこそこ自分のキャパシティに適合しているという実感があったから、低収入でも仕事を続けられているのでしょうか」

 語尾が疑問形なのかどうか釈然としない言い方でやり過ごしました。ミュートリアとニャオデリカは揃ってクスクス笑っていますが、

「伊東さんが文章を書く仕事を選んだ理由、少し解った気がします。やっぱりお話を聞けて良かったです。うん、良かったです」

 彼女は手応えを感じたようでして、部屋の中央に布置されてある丸テーブルにタブレットを置き、そのタブレットの上に敷いたメモ紙とポールペンでカリカリと書き留めています。タブレットの機能を持て余しているメモの取り方ですけど、彼女は至って真面目そうにしています。


 相手は本気でぬいぐるみと喋っている。赤子や老人が思っていること、考えていることを自由気儘に話すのと同じようにぬいぐるみが喋り、《どうして》ぬいぐるみの声が聞こえるのかという《どうして》を無前提で消し去っている成人女性に私はどう関わっていけばいいのだろう、という金森の心の声は吐息と同化し、夕闇の帳に覆われた空へと昇華していく。

 職業柄、内向的な他者と折衝する機会は少なくなかった。ディレクターやデザイナーは能動的な姿勢が求められるが、在宅ライターは積極性に欠ける人材が多く、粗雑に指摘するとコミュニケーション不足で依頼した記事が納品されないまま音信不通になるケースも珍しくない。

 であるにしても、相手はこれまでの例から逸脱する二人目の存在であり、彼女の言葉を借りると社会不適合者に該当する人間だと見做せなくもないが、金森が認識する彼女は社会不適合のステータスだけでは説明がつかない特別な相手であった。なお、金森が背負う受苦を語る上でも一人目のイントロダクションは無視できないと思われるが、その一人目から必死に目を背けて生き続けている金森の努力を無駄にしたくないので、敢えてそれ以上のことは述べないとする。

 懐疑と不審のヴェールに包まれた相手は改め、伊東詢子という明確な記号にて金森に受け入れられ、透明な布の中にいた伊東詢子がコールタールの匣に閉じ込められている幻想文学的な描写は些か誇張されていて、余計な先入観を振り払おうと決めた金森はスマートフォンを取り出し、歩道橋の手摺に凭れかかった格好で通話を開始した。

「お疲れ様。今日の予定は打合せと……取材もあったんだっけ。この時間だったら直帰してもいいわよ。私の業務を手伝ってくれるのであればお越しください」

 一コールで電話に出た上司の八代は忙しくもあるが、部下に冗談を言える余裕はあった。

「H社の取材は問題なく、今週末までに初稿を提案できそうです」

「金森さんのことだから、心配はしていないわ。で、帰社はスルーなの」

「そういう訳ではなく、いや、八代さんが抱えている案件の重さを知っている以上は親切心を削ぎ落とす私のずる賢さが働いたかもしれなく、言い訳がましいと聞こえるかもしれませんが今の私にはもっと大きな問題がのしかかっているようでして」

「本当に言い訳がましい感じね」

 要点をつかめない金森の弁明に笑いをこらえる上司はしばらく黙ったが、スピーカーから間歇的に聞こえるトラックの走行音をバックミュージックにして自分から話を切り出した。

「伊東詢子さんとの件で、何かあるのでしょう」

「察しが良いですね。流石は八代さん」

「褒めても人事評価を上げないわよ。鈍感な末原さんだって気付きそうなことだもの」

(非常に蛇足な余談に触れる必要は一切無いが)末原さんは営業部のチーフであり、仕事はできるが三十代前半の男性という観点で考えるとズレた人であることで、上司や金森が所属するコンテンツ事業部にも評判が広がっていた。

「早くもバツが二つついている人と比べたら、誰だって配慮深くなりますよ」

「その台詞、本人の前で言ってみたら」

「僕のおかげでみんなの性格を相対的に向上させているなんて素晴らしいことだ、って嬉しがりそうですが」

 皮肉や悪言などの概念を持っていない男にどう批難しようが無駄だ、と金森は諦めているようで、脱線した会話を正した。

「末原さんのことはさておき、私は今日、今までに会ったことのない女性と会いました。それが伊東さんです」

「伊東さんとは数日前に一回会ったじゃない」

「おっしゃる通りですが、昨日までの私はまだ、伊東さんのことを表面的に見ていただけでした。新種の生物を観察しているかのような距離感で接し、上辺だけのビジネストークと無個性なスマイルで取り繕っていた過去の私は彼女との間に隔たりを設けていました」

「ふむ」

 理解したようなしていないような相槌を打つ上司は、電話越しで接している女性が誰であったのか一時的に忘れたような……もしかして電話をしてきたのは金森ではなく、金森の面を被ったふわふわした埃のような哺乳類ではないかと疑い、間を置かずしてその疑いは意味を為さない夢の一片であると頓悟した。

「状況はよく解らないけど、金森さんが感じた変化は言葉になって表れているのかな。違う時代に生きる政治家の演説を真似ているように聞こえますかね」

「では、私が独裁者になった暁には、三十歳を迎えた独身女性に対し理想的な男性を政府から提供する支援制度を実施いたしましょう。その理想的な男性に選定された群衆がデモを行い、政治の中枢であるN町が壊滅したとしても責任をもって八代さん達を幸せにしてみせます」

「さっさと会社に帰って来い」

「それは命令ですか」

 八代さんの業務を半強制的に押し付けられるクライシスを回避したく思うのですが、と反論したい金森であるが、上司の名誉を傷つけた自分の悪ふざけを認め、斜陽に塗られた歩道橋から降りた。本来であれば伊東詢子の件で客観的な意見を上司からもらうはずであったが、何も解決しないまま金森は会社のため、上司のために労働を続ける。

 

 ――私の力で彼女の全てを受け止めなければならない、ってことなのかな。でも、どんなにドラマティックな展開を多用しても、私が巻き込まれたこの物語は悲劇から決して逸脱しないって思えるのね。


 勝手な運命を自分に与えた金森の考え方はネガティブな前向きである矛盾を抱えており、自分らしさに欠ける違和感によって後ろを振り向かされて、背後より追ってくる獣に食い殺される奸計の影が見えていた。

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