第二十四話 わたしから見たあの子。


 わたしは、あの子がきらい。


 ちょっと可愛かわいいからって、すぐ調子に乗るの。


 だから、ちょっと意地悪して……でも、やりすぎちゃって、あの子、泣きながら帰っちゃった。今頃いまごろ、お家で「ママ、ママ」って、甘えているのだろうなあ……。


 泣きたいのは、あの子だけじゃない。

 わたしだって、思い切り泣きたいの。


 それなのに、お家には、もうお母さんがいなくて、


「お父さん、お酒飲みすぎちゃ駄目だめでしょ」

 って、怒鳴どなっていた。


 きっと、わたしが学校に行っている間、ずっとテレビつけっぱなしで飲んでいたと思われるの。でも、今日だけではなくて、いつものことだけど……


「うるさいな、あの女みたいなこと言うなよ。おれはな、これから汗水たらして畑耕しながら毎日暮らすことになるんだぞ。お前はいいよな、これから親父たちに『可愛い孫』だって、毎日ちやほやされるんだからな」


 もう慣れた。


 そう言われるのも、夏休みが終わってからいつものことだ。


 不揃ふぞろいな段ボール箱がいくつか置いてあるだけで、テレビだけが目立つ部屋。その真ん中で、これほど「安い」という言葉が似合にあうものはないような一升瓶いちしょうびんと、煙草たばこがらでてんこ盛りになった銀の灰皿が置いてあるだけの小さなテーブル。その前で、胡坐あぐらいて座っている細身の体に、よれよれの青いスラックス、薄汚うすよごれてしわがいっぱいの最初は白だったと思われるカッターシャツ、という恰好かっこう我慢がまんできないくらいみすぼらしくて、おもながの黒っぽい顔を向けて、ぎろっとした目で、わたしを見ていた。


「お母さんもきっと、お父さんの体を心配して言ってたのよ……」


 それしか、言葉が出なかった。


「はあ? 喧嘩けんかして泣きべそ掻いて帰って来るようなやつに言われたかねえよ。そんなことより、お前は腹が立たないのか? あの女はな、お前をてたんだぞ」


 そうお父さんは言った。


 とても悲しいのに切り泣けなくて、キッとにらんでいた。


「何だその目は?」

 と、お父さんは、ゆっくり立ち上がりながら、


「文句があるなら、はっきり言えよ!」

 と、怒鳴り声と一緒に手のこうが飛んできて、真っ白な火花がった。足が浮いたような感じがして、思い切り尻餅しりもちを着いた。


 ほっぺたがとても痛くて、ごりっという変な感触かんしょく。……口の中から血と一緒に、一本の折れた歯が出てきて、わたしを殺す気なの? と思うくらいに、お父さんの赤鬼みたいな顔がこわかった。ガチガチ口がふるえて、ガタガタと両脚りょうあしまで震えた。


「おい、小学二年生にもなっておもらしか?」


 ……ぼろぼろなみだが止まらなくて、じわっと、おしっこまで止まらなくて、尻餅を着いたたたみの上に、大きな水溜みずたまりが広がっていた。


「痛いよお……」

 と、やっと声になったと思ったら、バサッと、バスタオルが頭をおおった。


「お前の時化しけた面見てたら、酒がまずくなっちまったじゃねえか。俺は飲み直しに出かけるから、さっさと風呂場へ行って、しょんべん臭いおまたよく洗っとけよ。……あっ、それからな、お前がらしたたたみの上もちゃんといとけよ」


 それだけ言ったお父さんの声と足音。それに続いて、ガチャッと閉まる玄関のドアの音が聞えた。わたしが見ているのは、バスタオルの布地ぬのじだけだった。


「お母さん……」

 どうしてわたしを置いて行っちゃったの?


 一人ぼっちになった部屋で、声にならなくても、そうつぶやくことしかできなかった。



 わたしは、悪い夢を見ていた。

 ……そう思いたかった。


 鏡を見れば、前歯が一本なくなっていた。ほっぺたも赤くれていて、痛かった。


 洗面所を出て忍び足で、そっとのぞくと、お父さんが部屋の真ん中でねむっていて、テレビがついたままだった。でも、見なかったことにして、そのまま玄関げんかんのドアを開けた。


 わずかな段数の階段を下りれば、


聡子さとこちゃん、ほっぺた腫れてるけど、どうしたの?」

 って、そこにいる近所のお姉さんにかれた。


 何でもないよ。と答えようと思ったけど、何でもないってことないでしょ? と返ってきそうで、そのまま何も言えなくなった。


 そして、近所のお兄さん二人が来たところで出発だ。今日も学校まで一緒いっしょに歩く。だけど、もうすぐさようなら。この見慣れた景色とも、もうすぐさようならになる。


 それから、昨日、あの子と大喧嘩おおげんかした。


 わたしは、その子のことを「瑞希みずきさん」と呼んでいる。


 となりの席の子。


 小学校に入学してから、ずっと同じクラスだ。


 おかっぱ……とはちがって、くせのないボブかな? 少しぽっちゃりさん。でも、それが気にならないくらいくりっとした目が可愛かわいくて、とっても甘えたさんで、泣き虫で、きっと夜になると一人でトイレに行けないくらいこわがりな女の子。


 そんな瑞希さんが、ものすごくおこって、わたしをぱたいた。とってもこわくて、とってもいたかった。……わたしは瑞希さんに、とってもひどいことしちゃった。


 そう思いながら周りを見れば、まだ夏休みの続きを思わせるように、向日葵ひまわりたちが元気に咲いている。知っている子まだ知らない子が通り過ぎる中で、ワンピースかな? とてもそうは見えない『二十四』という数字が目立つ、まるで野球のユニホームの上だけを着ているような大きな半袖はんそでシャツ? に、黄色の帽子ぼうし、赤いランドセルを背負しょっているあの子と、ばったり会った。その横には同じ色の帽子、えりのついた半袖の白いシャツと青い半ズボンに、黒のランドセルを背負っているお兄さんも一緒いっしょだった。


「あっ、あの、瑞希さん、昨日は、ごめんなさい」


「う、うん……」


 返事はしてくれたけど、瑞希さんはうつむいたまま。


「ほら瑞希、聡子さとこちゃんあやまってくれてるじゃないか。仲直りするんだろ? それにわたしたいものだってあるんだろ?」

 と、お兄さんは背中を押すように、ぽんぽん瑞希さんのランドセルを叩いていた。


「聡子さん、昨日はごめんなさい。瑞希と仲直りしてくれますか?」


 ……敬語だった。


 いつもの幼稚園の子がしゃべる感じとは違って、俯いたままランドセルを地面に置いて、しゃがんで、何かを探すようにランドセルの中をごそごそし始めた。


 まだ怒っているの? と思えて、


「もちろんよ。だから、顔上げて……」


 泣きそうになった。このまま何を話しかけても敬語で返事するだけで、もうわたしに顔を見せてくれないと思うと、とても悲しくなった。……あれ? 瑞希さん、ランドセルの中をごそごそするのを止めて、ゆっくり立った。


 そして息がかかるくらい顔が近づいた。今にもこぼれそうなくらい両方の目にはなみだがいっぱいまっていた。探しものはそれだったみたいで、ランドセルの中から取り出した赤いものを、そっと、わたしの首に巻いてくれた。


「瑞希が初めて編んだものなの。……聡子さんにあげるね」


 すると、お兄さんが、


「そのマフラーは、お前がパパにプレゼントするために一生懸命いっしょうけんめい編んだ大切なものじゃないか。だから、パパの代わりに、パンダさんにしてあげてたものなんだろ?」


 その時のお兄さんの顔は、わたしからは見えるけど、瑞希さんはお兄さんに背中を向けていて、わたしと向かい合わせのままだ。せっかく顔を見せてくれたのに、お兄さんのその一言で、また俯いてしまった。そんな瑞希さんを見て、わたしが思ったことは、『パンダさん』って何? というよりも、えっ、そうなの? だった。


 瑞希さんのパパが、もういないということは知っていた。きっとそのマフラーは、瑞希さんが父の日に、パパにプレゼントするために編んだものだろう。それなら、何があっても持っていたいはず。……なのに、どうしてそんな大切なものを、わたしに?


 そう思っていたら、


「……いいの」

 と、瑞希さんが顔を上げた。


 とうとう両方の目にいっぱい溜まっていた涙が、ぽろぽろ零れちゃって、


「聡子さん、本当にごめんね。瑞希が思い切り叩いちゃったから、ほっぺたまだ痛いでしょ? 歯も取れちゃって……」

 と言って、瑞希さんはぐすぐす泣き出した。


「えっ? あっ、違うの。瑞希さんのせいじゃないよ。昨日お父さんに叩かれちゃったからなの。……それよりも、わたしの方こそ本当にごめんね。痛かったよね。思い切り叩いたから、瑞希さんの歯、取れちゃったんだね」


 そうなの。瑞希さんも歯が一本取れちゃっているの。


 それも、わたしと同じように前歯なの。


「あっ、これ? 前からぐらぐらしてたの。聡子さんが思い切り叩いてくれたから取れたんだよ。だからね、瑞希の場合、聡子さんに『ありがとう』だね」


 と、いうことは、


「乳歯だったの?」


「うん、ママが言ってたの。聡子さんのもきっと乳歯だよ。だからね、仲直りしてほしいの。聡子さんのパパ、本当はとってもいい人だと思うよ」


 少し腹が立った。何も知らないくせに……と、思った。


 けど、瑞希さんは、


「叩かれてもパパはパパなの。パパがいなくなったら……『ごめんなさい』も、仲直りもできないんだよ。だからね、聡子さんにはパパと仲直りしてほしいの」

 と、にっこり笑った。


 その笑顔がいじらしくて、思わず瑞希さんをぎゅっと抱きしめた。瑞希さんのほっぺたを濡らすあたたかな涙と息遣いきづかいを感じる中で、瑞希さんの体温を感じた。それがとても切なくて、とても大切なことだと思えて、


「……うん、瑞希さんの言う通りだね」

 と、いっぱいいっぱい涙が零れて、いっぱいいっぱい泣いちゃった。



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