第二十二話 ……考えてもいなかった。


 ……ぐすっと。


 まだなみだあふれるけど、少し落ち着いた。


 よごれてほつれたセーターをいて、わたしはこの見慣れた道を歩いている。


瑞希みずきちゃん」


 声をかけられくと、そこには、さっきまでのこわい顔をした智美ともみ先生とは真逆の優しい顔で笑顔の千尋ちひろ先生がいた。でも、すぐ表情が変わって、


「どうしたの? いじめられたの?」

 とって、わたしの両肩りょうかたを激しく、何度も何度もすったの。


「痛い! 首取れちゃうよお!」


「あっ、ごめんね」


 ほっとした。千尋先生の手が止まった。


 わたしの黄色に赤のチェックが入ったシャツはボタンが二つ飛んでいて、すそもスカートの上に出ちゃって、きっとかみられたから乱れていて、ほっぺたも痛いから、赤くれていると思うの。それに……少し落ち着いたのに、またグスグス泣けてきて、わたしは両方のかたに乗っている千尋先生の手をはらけて、そのまま走った。


「あっ、瑞希ちゃん」

 と、千尋先生は呼び止めるけど、もうかえらない。


 季節は終わったの。紫陽花あじさいさんに会えるのはまた来年。「さようなら」は心の中でしたけど、それはね、「また会おうね」という意味なの。んだら、心の中ににじかったら、また笑顔で千尋先生に会える。そう思いながら、マンションのエレベーターにんだ。三階まで上がって少し歩けば、もうお家の玄関前げんかんまえ


 そしてシャツの中から取り出したもの。それはね、


「瑞希、これはお守りと同じ。大切なものだからなくさないでね」


 そう言って、ママがわたしにくれたものなの。色はピンク。少し大き目のハートの形をしたペンダント。新しい魔法まほうのアイテムかな? と思って開けてみると……あら? かぎが出てきちゃった。きっと『魔法の鍵』だね。


 ……だったら、


「開けこら!」ではなくて、ここは呪文じゅもんらしく、


「Open the Tobira ! ……開けドアってことかな? とにかく優しく言ってあげないと駄目だめなんだよ。そうしないとね、ドアさんびっくりしちゃうんだよ」


 と、だれに言っているのかわからなくても、その鍵を玄関げんかんのドアにさして左に回したら、


 ……開いちゃった。


「あはっ、瑞希も『鍵っ子』になっちゃった……」


 思わずつぶやいた。その呟きは、きっと誰の耳にも届かないだろう。


 そしてお家も中にも、誰もいなかった。


 玄関すぐの子供部屋よりも、そのおくの台所よりも、まだ奥の部屋にわたしはいる。


 ……そこは、パパの部屋だった。


 たなに並んでいる難しそうな本。わたしが読むには小学校……ううん、中学校どころか高校を卒業するまでに読めるかな? というくらいいっぱいある。サッカー選手のポスターも、書類が散らかっている机の上も、パパがいたころと何も変わっていなかった。


 それらすべてが思い出になるようにと、窓からむ光がセピアに染めた。その中にはね、わたしが子供部屋から持ってきた大きなぬいぐるみさんがいるの。パパが最後にプレゼントしてくれたもので、『パンダさん』って名前なの。


 ……こらえきれなくて、また泣いちゃった。


 ほら、この大きな窓を開けてベランダに出れば見えるでしょ。この近くの公園で、パパとサッカーボールで遊んだ日のことを思い出すの。


 ボールがれなくて、転んじゃって、それでね、


「泣くな! 一度やり始めたことはあきらめずにできるまでやるんだ」

 って、パパが言ったの。


「……できそうにないよお」


 なみだを手でぬぐいながら、そう呟いた。


 今はね、窓もふすまめ切ったこの部屋の中で、汚れて何ヶ所か切れて解れたセーターを編み直している。……でも、編み直すどころか、解れがひどくなって、いても拭いても、ぽろぽろこぼれる涙がセーターをらしてばかりだった。


 するとね、玄関のドアが開く音が聞こえたの。


 それに、だんだん足音まで近づいて、


「瑞希いるんだろ? 勝手に帰っちゃ駄目だめじゃないか。千尋先生が声をかけてくれたから良かったものの、知らない人に声かけられたりとか、何かあったらどうするんだ? お兄ちゃんだけじゃなくて、智美先生も心配してたんだぞ」


 何も言えないまま、お兄ちゃんにおこられた。


 それで、この部屋のふすまも開けられないまま、


「ぐすぐす………」から、余計に泣けてきちゃって、


「泣いてちゃわからないだろ?」


 そんなこと言っても、どうしていいかわからないよお……と、思っていたら、


みつる君、瑞希さんのこと怒らないであげて……」

 と、女の人の優しい声も聞こえ……って、あれ? 智美先生も一緒いっしょなの?


 びっくりした。と、いうよりも、


 どんな顔して会ったらいいの? って思った。


 わたしは、智美先生に「大っきらい!」なんて言っちゃった。……何てことを言っちゃったのだろう。と思った。そのことで頭の中いっぱいになって、この襖の向こうで、お兄ちゃんと智美先生が話していることもわからなくなって、頭の整理もそうだけど、心の準備もできないまま、この襖が静かに開いたの。


 襖に背中を向けて、ひざかかえてうつむいたまま、


「……何しに来たの?」

 って、言ってしまって、智美先生の顔も見なかったの。


「瑞希さん、ごめんね。先生、怒ったりして……」


 えっ? 智美先生の予想外の言葉にびっくり。うつむいたままの顔を上げそうになった。でも、涙でぼやけるわたしの視線は、たたみの上にあるセーターに移っていた。


「瑞希ね、すぐ泣いちゃうの。わがままであまえたさんなの……って、聡子さとこさんに言われちゃったの。でもね、お兄ちゃん、パパみたいに優しくしてくれたから、瑞希は元気になれたんだよ。だからね、お兄ちゃんの誕生日にプレゼントしようと思って、このセーター一生懸命いっしょうけんめい編んだんだよ……」


「うんうん……」


「でもね、一生懸命直しているのに……直らないの。夏休みの終わりの日に、お兄ちゃんに見せてあげて……あんなによろこんでて、瑞希がプレゼントするの、あんなに楽しみにしてたんだよ……」


大丈夫だいじょうぶ


「えっ?」


 びっくりして、涙で濡れた顔を上げて、智美先生を見た。


「先生が直してあげるね」


 智美先生は普段ふだんと同じ。もう怖い顔ではないの。……ううん、それ以上に素敵すてきな笑顔なの。わたしは泣き止んで「えへへ……」と、笑うことができた。


「さてと……」


 智美先生は、畳の上に置いてあるセーターを膝の上に乗せた。


「瑞希さん、編み物の道具、借りるね」

 と言って、編み始める。


 するとね、みるみるうちにセーターが、


「もう直っちゃった」

 と、自然に言えるくらい、あっという間だったの。


「でしょ? 先生ね、編み物得意なのよ。昔はこうやってね、よくお兄ちゃんのセーター編んだり直したりしてたの……」


 そう言い終えると、膝の上のセーターも、わたしの顔も見ないで、智美先生はぼんやりと窓の方を見ているようだった……。さっきまでの笑顔とは違って、智美先生らしくない初めて見る表情だった。きっとこの景色を染めるセピアという色が、そう見せているだけで……と、そう思おうとしていたら、


「ねえ瑞希さん、聡子さん好き?」

 って、急に智美先生が訊いたので、びっくりしたけど、


「嫌い。瑞希に意地悪ばっかりするんだもん」

 と、わたしはふくれ面で答えた。


「じゃあ、何で聡子さんは、瑞希さんに意地悪するのかな?」


「えっ?」


 ……考えてもいなかった。


「聡子さんもね、さびしかったの」


「どうして……?」


「聡子さんのお父さんとお母さんが、離婚りこんしたの」


「……りこん? って?」


 それって、寂しいことなのかな? と、思っていたら、


「あっ、ごめんね、瑞希さんには難しかったかな? パパとママがさようならすることなの。それで聡子さん、もうすぐパパとおしするの……」


 そう智美先生が言ったの。


「聡子さん、もうママに会えないの?」


「変な言い方になるけど、もう聡子さんのママじゃないの。それに、聡子さんの引っ越す所がここからとっても遠くて、もう会えないと思う……」


 智美先生は沈黙ちんもくした。少し……また、わたしの顔を見て、


「もし瑞希さんが、お兄ちゃんとさようならすることになったら、どうする?」


「やだ!」


「きっと、聡子さんも同じだったと思うの」


 また泣きそうなくらい……悲しくなった。


 後悔こうかいという言葉の意味は、まだ知らないけど、このままでいたくなかった。


「……ごめんなさい。瑞希ね、ひどいことしちゃった」


「じゃあ、聡子さんと仲直りしてくれるのね」


「うん」


 わたしはこしを上げた。パンダさんがしている赤いマフラーをするっと取ったの。それをね、智美先生に見せた。


「このマフラーは?」


「瑞希が初めて編んだの。……パパにね、プレゼントするはずだったんだけど、できなかったの。このマフラーね、聡子さんにわたしてあげてほしいの」


「でもそれは、瑞希さんがパパのために一生懸命編んだ大切なものじゃないの?」


 智美先生は、びっくりしたのもあったけど、どちらかといえば困った顔だった。


「いいの。聡子さん、瑞希よりもっと寂しいんだよ。瑞希が聡子さんにしてあげられるのは、これしかないもの……」


 そっと優しく、智美先生はマフラーを持っているわたしの手をにぎった。


「じゃあ、このマフラーは受け取れない」


「どうして?」


「それはね、瑞希さんが明日、聡子さんに渡してあげるものだから」


 またね、ぽろぽろ涙が零れた。


「大っ嫌いなんて言って、ごめんね」


 智美先生は、にっこり笑っていて、


「いいのよ」

 と、いつもと変わらない優しい声だった。


「瑞希ね、明日、聡子さんと仲直りするね」

 と、わたしは両手で涙を拭きながら、そう言った。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る