第五話 (二〇一六年の春) 玉手箱を開けた遠い未来のあなたは。


 今日は土曜日で、学校はお休み。


 灰色に広がる空は、どことなくさびしそうに見えた。


 風は、ひんやりしている。

 風も、人と同じで表情を変えるのだなあ……


 そう思いながら、わたしは歩いていた。


 聞こえる音も様々だ。歩行者と自転車が行き来する中を車が走る。ここは橋の上で、そこから見下ろせば、大きな川が流れている。この橋をわたって下り坂を歩けば、そこはトンネルの中、長くないし暗くもない。トンネルと呼べるほどのものでもないけど、その上を走る電車の音だけは、ちゃんとひびいた。ここをければ、五階まである建物が規則正しく並んでいるのが見える。ここは、全部で二十とうまである公営住宅だ。


 ここに来れば、いつも安心に似た気持ちになる。


 ……ではなくて、「ここに帰ってきた」だった。


 それは当たり前のことのように思うけど、不思議なことのようにも思えた。でも、それが不思議なことなら、それ以上に不思議なことが起きている。


 わたしは、さっきまで病院にいた。


 診察しんさつを受けて、お医者さんに言われたことは「順調ですよ」だった。

 その何か月か前は「おめでたです」と言われた。


 そんなことを思いながら、四とうの階段を三階までがり、玄関げんかんのドアを開けると、わたしより十センチほど背がたかく、長いかみを後ろで束ねている初老の女性が立っていた。


「もうこの子ったら。電話くれたら、車で病院までむかえに行ったのに」

 と、いきなり言われた。


「ごめんね、ママ。ちょっと風に当たりたかったの」


「『お母さん』でしょ。あなた一人の体じゃないのよ、わかってるの?」


「えへへ……」


 このとしになっても「お母さん」と呼べずに「ママ」って呼んでしまう。でも、そんなわたしもお腹の中に赤ちゃんがいて、もうこの子の「ママ」になっていた。


 その重さを感じながら玄関からすぐの部屋に入ると、病院に行く前と同じ……でも、その中でも存在感の大きなものがあった。それは木製机の上に置いてある一冊の日記帳。今でも大好きな、天使みたいに可愛かわいいアニメキャラクターが表紙をかざっている。手に取れば『瑞希みずき』と漢字二文字。裏表紙に油性マジックと思われるもので書かれていた。


 それに、表紙を飾っているアニメキャラクターも『みずき』という名前で、今でも印象に残っている。この子もこのアニメが大好きで、毎週欠かさず見ていたそうだ。


 ……実は、この子には悪いと思ったけど、これも何かのえんだと思って、もう開いて読んでいた。それだけではなくて、この日記帳につづられていることを、ある人にたのまれて語ってもいた。わたしはこの子に会ったことがない。今どこにいるのかも知らない。でも、この日記帳を読む度に、頭の中には不思議となつかしい景色が広がっていた。


 瑞希という名前は男の子にも使われるけど、この子は女の子。七さいの誕生日を迎えたところから綴られている。それに、この日記帳はパパからのプレゼントだったそうだ。


 ということは、この子って、小学一年生にして自分の名前を漢字で書けたっていうことなの? 字のうまいへたは別として、何というか、どう見ても大人が書いたものではないように思える。大きくて丸っこい文字が印象に残った。


 それから、この日記帳は浦島うらしま太郎たろう竜宮城りゅうぐうじょう乙姫おとひめからもらったような黒くてつやのある玉手箱に入っていたもので、同じような日記帳が二冊三冊と……まだある。今、手に取っているのが、その一冊目で……と、思っていたら、玄関のチャイムが鳴った。


「は~い」


 わたしは玄関のドアを開けた。そこには、歳を知らなければ二十代半ばにも見える小柄こがらな女性がいた。ポニーテールの栗色くりいろかみに水色のリボンを飾っていて、色白の顔に黒縁くろぶち眼鏡めがねをかけている。今の季節より一足お先の桃色ももいろのカーディガンがよく似合っていた。


 今日、この人と約束していた。


「おいそがしいのに、わざわざ足を運んでいただきましてすみません」


「いいえ、こちらこそ。大変な時期に、ご無理を言ってもうわけありません」


 この人は一礼すると、なごやかな表情を見せて、


「先生、子は宝ですよ。元気な赤ちゃん、生んで下さいね」


「リンダさん、お心遣こころづかい本当に有難ありがと御座ございます」


 わたしは、この人のことを「リンダさん」と呼んでいる。リンダさんは、わたしのことを「先生」と呼んでいて、今ではもう知り合いから友人の関係にまでなっていた。


 わたしも一礼して、顔をあげると、


「今日は海里かいりさんも一緒いっしょなのですね」

 と、笑いをこらえながら付け加えた。


 リンダさんの後ろにかくれている女の子が、ひょっこり顔を出した。少しだけほおを赤くして照れているような表情に見えたけど、うれしそうな表情が上回って見えた。


「えっ、ええ。この子がどうしてもついて行くって言うものですから……」

 と、表情を見ずにその言葉だけ聞くと、少し困っているような感じに思うけど、リンダさんの表情には、ほんのり笑みがかんでいた。


大歓迎だいかんげいですよ。いい社会勉強になると思いますよ」


 そう。リンダさんも、昔は「先生」とばれていた人。道はちがうけど、わたしもきっと近いうちに、リンダさんのことを「先生」と呼ぶだろう。


 と、その前に、


「ねっ、海里さん」


「うん!」


 わたしは、この女の子のことを「海里さん」と呼んでいる。


 髪型かみがたはシンプルなミディアム。青いジーンズのジャケット。それに合わせたと思われる同じ色のスカート。今は十四歳さい。でも月替つきがわりすれば、すぐに誕生日を迎える。


 そしてリンダさんと海里さんが横に並ぶと、身長は、う~ん、五センチくらい、まだ海里さんが低いかな? それに、こう見えてもリンダさんは海里さんのママ。何と四十六歳だ。小柄といっても、身長はわたしと同じくらい……ということは、三人とも小柄だ。


 それからは、いつものように海里さんとのユーモアあふれるトークが展開していくと思われた。……でも、海里さんの表情が曇っていき、そのままだまってしまった。


 予想外の展開で、


「どうしたの?」

 と、いてみた。


「……高等部に進学が決まって、これからもみんなと一緒にいられるのに、先生は春休みから産休でしょ。そのあと結婚けっこんでしょ。……もう学校に来ないの?」


 今にも泣きそうな声で……と、思っていたら、あらら、本当に泣いちゃった。


 この子の言う通りで、わたしは結婚を待たずに妊娠にんしんしちゃった。つまり『できちゃった婚』だ。でも、後悔こうかいなんかしていない。お腹にいる赤ちゃんは、わたしとあの人の大切な子供だ。ママだって、ちゃんと理解してくれた。


 だからこそ、目の前にいるこの子の両肩りょうかたに手を置いて、


「海里さん、わたしは学校に帰って来るよ。あなたたちが卒業の日を迎えて、この学校から巣立っていっても、わたしはずっと、あなたたちの先生だからね」


 まず思ったこと。ちょうかっこいい決め台詞せりふ


 ……でも、ママが言っていた。


「先生は生徒たちの未来を預かる責任職だ」と。そして今、目の前にいるこの子は初めて受け持ったクラスの大切な生徒。……わたしは、まだまだ半人前だ。


 海里さんが目を丸くして、


「本当?」


「もちろん」


 にっこりと、わたしは笑顔に努めた。


「先生、ありがとう!」


 海里さんの表情が、パッと明るくなって、


「良かったね、海里」


 リンダさんの表情にも、笑みがかんで、


「うん!」


 玄関から見える空の色とは対照的に、海里さんのとおる声が、この建物の五階から一階までを風のようにけた。


 今は、まだその真ん中にいる。


 風もまた、過去から未来へ流れているのだと思った。



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