第二話 (一九九七年初夏) 学校の帰り道を歩いていたら、


紫陽花あじさいさん、今日も元気だね」


 今日もここで立ち止まって、声をかけたの。


 そしたらね、


瑞希みずきちゃん、こんにちは」

 って、元気にご挨拶あいさつしてくれたの。


 とってもうれしくなって、


千尋ちひろ先生、こんにちは」

 って、わたしもご挨拶したの。


 一言でいうとね、『子供番組に出てきそうなお姉ちゃん』かな? 今日も紫陽花さんと同じ色のエプロンをして、如雨露じょうろを持ってお水をあげているの。どうして「千尋お姉ちゃん」ではなくて「千尋先生」って呼んでいるのかというと、ここは、わたしが赤いランドセルを背負うまで通っていた幼稚園ようちえんで、そこの先生だからなの。


 わたしは今年、七さいになった女の子。


『瑞希』というのは、パパがつけてくれた大切な名前。


 するとね、千尋先生が、


「今日はパパと一緒いっしょじゃなかったの?」

 って、いたから、


「パパなんて知らない!」

 って、答えちゃったの。


 学校から帰る時、いつもはパパと一緒なの。


 ……でも、今日は一人ぼっち。


「あらあら、パパと喧嘩けんかしちゃったの?」


「パパ、うそつきだもん」

 と言ったら、千尋先生は前屈まえかがみになって顔を近づけた。


 それで、にっこりして、


「話してごらん」


「う、うん。今日ね、参観日だったの。瑞希ね、いっぱい手を上げたんだよ。でもね、パパ来なかったの。帰りにね、ぬいぐるみさん見に行く約束もしてたの」


「……そうだったの。今日だったのね。パパね、瑞希ちゃんの参観日とっても楽しみにしてたのよ。でもね、お仕事が大変で行けなかったんじゃないのかな?」


「知らないもん!」


 日記には自分のことを「わたし」って書くけど、しゃべる時は「瑞希」って、名前で言っちゃうの。この日記帳は、わたしの七つのお祝いにと、パパがプレゼントしてくれたもので、とっても欲しかったものだったの。それでね、「三日坊主みっかぼうず駄目だめだぞ」ってパパが言うから、丸坊主まるぼうずになりたくなくて、毎日欠かさずつづっているの。


 そんなことを思っていたら、千尋先生がわたしの手をにぎって、


「一緒に遊ぼうか」


「うん!」


 ふくれ面をやめて、にこやかに、桃色ももいろの門をくぐって園内に入った。


「瑞希ちゃん、三時のおやつよ」


「は~い」


 おままごとをしたの。千尋先生がママ役で、向かい合わせに座った。白いテーブルの上には、二つのお皿。それぞれにいちごのショートケーキが乗っていて、


「おいしい?」


「うん、おいしいよ」


 こんなふうに、お家で三時のおやつを食べたことがなかったの。


 でも、千尋先生は「ママ」というよりも、やっぱり「お姉ちゃん」だ。


 小学二年生になっても、幼稚園は楽しかった。


 気がつけば、お空の色が夕方になっちゃって、


「瑞希ちゃん、そろそろ帰ろうか」


「うん」


 わたしのお家はね、ここから見えるマンション。そこの三階。千尋先生は手をつないで一緒に歩いてくれた。エレベーターに乗って玄関げんかんの前まで送ってくれたの。


「また遊ぼうね」


「うん!」


 わたしはすっかりご機嫌きげんで、玄関のドアを開けた。


 するとね、あまいマスクにスマートな容姿。う~んと、……あっ、そうそう、『あの大人気のアイドルグループにいそうな男の子』がいたの。わたしのお兄ちゃんだ。


「瑞希、パパは一緒じゃなかったのか?」

 と、さらりと言うから、


「パパなんて知らない!」


 もう、せっかくご機嫌だったのに。


 わたしは玄関からすぐの部屋に入って、ぴしゃりとふすまを閉めた。


 お兄ちゃんは、わたしの二つ上で小学四年生。同じ学校に通っている。もうすぐ英会話教室……ではなくて、う~んとね、そうそう、演劇の教室に通うそうだ。


 わたしたちの学校には『すこやか学級』という子供教室があるの。お兄ちゃんは

かぎ』になったけど、わたしみたいにまだ低学年でパパとママが共働きの子は、そこで三時のおやつを食べてから、ご本を読んで、ブロックで遊ぶの。あとね、お絵描えかきする子もいて、運動場で元気に遊ぶ子だっているの。夕方になったらパパがむかえに……と、思っていたら、襖が開いて、『スポ根という言葉が似合いそうなおじちゃん』が、この部屋に入ってきた。わたしのパパだ。


「瑞希、勝手に帰っちゃ駄目じゃないか。先生もパパも心配したんだぞ」


「知らないもん!」


 ぷいっとひざを抱えたまま、わたしはパパに背中を向けた。


「何を、そんなにおこってるんだ?」


 パパの言う通り、わたしは怒っている。

 こわくなんかない。すくっと、パパと向かい合わせに立った。


「パパの嘘つき! 瑞希ね、パパが来るの、とっても楽しみだったんだよ。それにぬいぐるみさん見に行くのも、あんだけ約束してたのに……」


 パパはいつもの優しい顔で、わたしのかたに手を置いた。


「ごめんな。急な仕事があって行けなかったんだ。その代わり今度の日曜日な、パパと一緒に遊園地へ行こう。また瑞希の大好きなヒーローショーがあるぞ」


 ……悲しくなった。


 ぱんっ! と、わたしはパパの手をはらけた。


「やだやだ! そんなのやだ!」


「瑞希!」


 えっ? 景色が飛んだ。


 パパ、瑞希をたたいた……


「わがままもいい加減にしろ! おれはまだ仕事で忙しいんだ」


 ほっぺたを手の平でさえた。パパの顔が、みるみるぼやけてきた。


「パパなんて大嫌だいきらい!」


 わたしが泣き出すと、


「勝手にしろ」

 と言って、パパは部屋から出て行った。


 そんな中で、


「ただいま!」

 と、ドアを開ける音と一緒に、ハイテンションなおばちゃんの声が聞こえた。


 ここは玄関からすぐの部屋で、襖も開いたままだったけど、声をかけなかった。わたしは顔を見せないように、背中を向けていたの。膝を抱えて泣いていた。


 それでも、お仕事をしている時は、『研究所の博士さん』みたいな白衣を着ているのが想像できた。それにね、とっても美人。わたしのママなの。


「ちょっとあなた、瑞希が泣いてるけど、何があったの?」


「俺のクラスの生徒が無断欠席した上に警察に補導されて、今からその生徒の家に行かなきゃいけないって時に、瑞希があまりにも聞き分けないから叩いた」


「何も叩くことないじゃない」


「大体な、お前があまやかすから瑞希がわがままになるんじゃないか」


「それはあなたでしょ。あなたが瑞希ばっかり可愛かわいがるから、みつるがどう思ってるか知ってるの? この間も、瑞希が駄々だだこねたからって、玩具おもちゃ買ってあげたそうじゃない。瑞希はね、ちゃんと言って聞かせてあげれば、わかってくれる子なのよ」


 満というのは、お兄ちゃんの名前なの。


「すると何か? 俺のせいだって言いたいのか」


「……ったく、教職にいてる身でありながら情けない。ちょっといやなことがあったからって、周りに当たるのもいい加減にしなさい!」


 ママ、怒っちゃった。怒鳴どなり声と一緒に、激しい音がり返された。


 ……怖い。とても部屋から出られない。膝を抱えたままふるえていた。


 しばらくすると、静かになって、


「お、お前なあ、もう少し手加減したらどうなんだ?」


「文句あるのかしら?」


「と、とにかく、行って来る」


 パパらしくない弱々しい声と一緒に、玄関のドアが閉まる音が聞こえた。


 ママはね、う~んと、中学校と高校が合体した学校の数学の先生。お家からちょっと遠くて電車で通っているの。それでね、今年、生徒指導部の主任さんになったの。すごいでしょ? でもね、お仕事が今までよりも、ずっと大変になっちゃったの。


 それとね、ママは怒ると、とっても怖い人で……って、やだ、足音が近づいてきた。なみだを拭くのも忘れて、おそおそる顔を上げたら、目の前にママの顔があった。


「瑞希、どうしてパパに『大嫌い』って言ったの?」


 わたしがそういった時、ママはまだ玄関にも入っていなかった。それなのに何で知っているの? ……というよりも、怒ってないの? だった。


「パパ、嘘つきだもん……」


「それだけじゃないでしょ? パパには内緒ないしょにしてあげるから、話してごらん」


 そうなの。それだけではなくて、千尋先生を思わせるような優しい声だった。


「瑞希ね、マフラー編んだの。パパにプレゼントしようと思ったの……」


 今は紫陽花さんがとっても元気で、マフラーの季節ではないの。でもね、初めて編み物に挑戦して、やっと編めたのが、ランドセルと同じ色のそのマフラーだったの。


「そうだったの」


「この間ね、瑞希が玩具屋さんでパパ困らせちゃったから、今日、ぬいぐるみさん見に行った時にプレゼントしようと思ってたの。パパの喜ぶ顔が見たかったの……」


 くすっと、ママが笑って、


「瑞希は、やっぱり優しい子ね」


 ぐすっと、わたしはまた泣けてきちゃって、


「でもね、パパにきらわれちゃったの……」


大丈夫だいじょうぶ。パパは何があっても瑞希が大好きよ。今日はね、お仕事でいやなことがあったから、ご機嫌きげんななめなだけなの」


 パパは国語の先生。わたしとお兄ちゃんが通っている小学校から、ちょっと歩いた所にある中学校が、お仕事の場所なの。


 パパは今日、一時間目の授業が終わってから、お休みを取っていたそうなの。わたしの授業参観へ行く予定にしていた。でもね、パパが担任をしているクラスの男子生徒が無断欠席して、ゲームセンターで他の学校の男子生徒たちとトラブルになって補導された。そのために、パパは警察へ謝りに行っていた。……ってことだったの。


「瑞希には、難しかったかな?」

 と、ママが訊いた。


 わたしは左右、顔をった。


「……ママ、瑞希ね、パパと仲直りしたいよお」


 くすっと、ママがまた笑って、


「じゃあ明日、マフラーをプレゼントしようか。パパきっと喜ぶよ」


「うん!」


 ママの笑顔を見ていると元気になれるような気がして、立とうとしたの。あれ? 尻餅しりもちついちゃった。それに何だか熱い。でも、とても寒いの。


「瑞希、どうしたの?」


「寒いよお……」


 ぞくぞくするの。ママはわたしのおでこに手を当てて、


「ひどい熱じゃない」


 そして大きな声で、

「満、瑞希をお医者さんに連れて行くから留守番してるのよ」


 台所のおくの方から、


「うん、わかった」

 と、お兄ちゃんの声が聞こえた。


「瑞希、ちょっと我慢がまんしてね」


 ママはわたしをっこして、そのまま玄関を出た。



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