第5話 採血

「おはよう、理沙。良い朝だね」


「おはようセシル。今日は良い朝なんだね、知らなかった。実はこの場所には、窓もインターネットもテレビもないの。セシルったら知ってた?」


 すっかり下ろしたての服に着替えた理沙は、朝に相応しい爽やかな笑顔を浮かべたセシルを出迎え、開口一番で、遠回しに電子機器を要求した。

 もしこのような状態が続けば、外が土砂降りでも、天変地異が起こっていても、第三次世界大戦が勃発しても、彼女は麻痺した感覚で”良い”朝を迎えることになる。

 セシルは何となく彼女の言いたいことを察したのか、


「申し訳ないんだけど、それは聞き入れられないな。情報漏洩防止のために、外部との接触は完全に断つことになってるんだ」


「テレビくらいなら良いじゃん。インターネット機能がついてない奴。とにかく暇なの」


「全部英語だよ? まぁ日本のチャンネルを繋げても良いけど」


「アメリカのテレビ番組は興味あるから……別に私、本の虫じゃないんだよ。本だけで一日潰せると思ったら大間違いだから」


 病院監禁生活も、理沙にとってはかなり苦痛だった。本は暇を緩和するものであって、退屈なものは退屈だ。

 それに、病院は一ヶ月で済んだが、今後この場所には一生ーーもしかしたら、人類が殺し合って最後の一人になるまでーーいるのかもしれないのだから、今の内に娯楽品を要求しておくことに、理沙は方針を固めた。


 セシルは苦笑を浮かべた。

 犬飼に面と向かって頼むのは気が引ける。自分が要なら迷うことはなかったのに、と少し友人の立場が羨ましくなった。彼女が自分勝手な我儘を言うような娘でないことは分かっているからこそ、不自由と我慢を強いる代わりに、願いを可能な限り聞き入れるつもりだった。しかし、初っ端からこれは厳しい。


 今まで付き合ってきた女性達の『お強請り』の、何十倍も困った。

 彼女達は幾らかかったとしても、全てお金で解決した。適当な有名ブランドの鞄や財布を渡しておけば、勝手に喜ぶ連中だ。しかし目の前の少女はそう容易くない。


「あ、そうだセシル。これ」


 そう言って理沙が突きつけてきたのは、昨日彼が渡したネックレスの箱だった。


「あれ、もしかして不備でもあった?」


「違う。私……やっぱり受け取れない。困るよ。こんな高級なもの渡されても。ごめんなさい」


「別につけてくれなくても良い。貰ってくれるだけで良いんだ。これは、僕が君と仲良くしたいっていう証みたいなものだから」


「重いよ。付き合ったばかりの恋人に、エンゲージリングをプレゼントされたみたいなものだから」


「そうかい……」


 これには、何と答えるのが正解なのか。

 今までの女性達は、「君によく似合うから」「君のために」などという甘い言葉を添えてプレゼントすれば、なんでも喜んだ。それが高級な物ならば尚更。けれど理沙は、変に高いプレゼントを渡してもプレッシャーを感じるだけだった。

 好みの問題なのか、生まれ育ちの問題なのか。理由は分からないが、周りの女性と同じ扱いをしても喜ばないということをセシルは理解した。


「OK。じゃあ、僕達がもっと互いに信頼し合えるようになったら、もう一度これを渡して良いかな」


「……それなら」


「良かった! 理沙の為に選んだんだ。いつかは受け取ってもらわないと困るよ」


 この状態で受け取らなければ、逆に気分を損なわせてしまうとセシルは判断した。迎合は、下手な仕事よりずっと難しいものだ。


「じゃあ理沙。これいこっか」


 そう言ってセシルが懐から取り出したのは、注射器の入った袋。

 危険な雰囲気を察知した理沙は、彼がそれを取り出し終える前に後ずさりをして、壁に背をつけた。その両手は胸の前に出されており、拒絶の感情が如実に見える。


「理沙……」


「それだけは無理だって、昨日も言ったじゃん!」


「でもね、これは決まっていることなんだ。一日に三回。朝、昼、夜。じゃなきゃ皆が困るんだよ」


 子供に言い聞かせるように、ゆっくりと丁寧にセシルは言ったつもりだったが、どうやら理沙の恐怖心は、精神を子供以下にしてしまったらしい。

 彼の言葉を聞いても、彼女は勢いよく首を横に振った。


「私のこと研究する前に……痛くない注射器開発して! お願いだから!」


「それも頼んでおくよ。うーん……日本にいた間も血は送られてきてたけど、もしかして、あっちでも毎回こんな攻防をしていたの?」


「そんな訳ないじゃん。あの人の注射テクニックは、私史上最も高かったから、甘んじて受け入れていたの」


「僕も注射器の扱いは慣れてるよ?」


「マウスと一緒にしないで」


「うぅん……弱ったな」


 彼女が猫ならば、毛を逆立てていることだろう。

 そんな理沙を見て、セシルは小さくため息をついた。力で従わせるのは好きじゃない。人の心を閉ざす最速の方法は”暴力”だ。それに、目の前の相手はお人好しでも、頭の軽い人間でもない。一度嫌われてしまえば、もう二度と近づくことを許してくれないだろう。

 セシルは腕を組んで考え始めた。

 理沙から血を採取する方法。一番手っ取り早いのが寝ている間にしてしまうことだが、痛みで起きたり、動かれたりすると大変だろう。やはり、覚醒した状態で我慢してもらうしかない。


「好きなものあるかい? 何でも用意してあげるよ」


「注射のない自由な生活」


「ちょっと、無理かな……」


「じゃあこっちも無理」


 理沙も、自分が我儘を言っていることは自覚していた。もうそういったことを主張する年頃でもない。しかし、注射は別問題だ。折角世界最高峰の医療技術が揃っているのだから、痛みを感じさせない注射器があっても良いじゃないか。ないのはおかしい。

 しかし、今日は理沙が折れることにした。


「んー……分かった。私もセシルや他の人に迷惑かけたい訳じゃないから、一日に一回だけなら良い」


「ありがとう。一日1リットルって言われてるんだけど」


「正気? 一度に1リットルも抜いたら……抜いたら……でも、1リットルならまだ大丈夫なのかな」


「うん。抜いて生命の危機の可能性があるのは3分の1だしね。理沙、安静にはしてもらうけど、貧血になると思う。身体に悪いから、一度に抜くのはあんまりお勧めはしないよ。元々三回に分けて採血する予定だったんだから」


「……一回でやる」


 一日に三度拷問を受けるか、一度少し長めの拷問を受けるか。精神衛生上の問題で、理沙は後者を選択した。

 腹を括った日本人はもう戸惑わない。理沙はセシルから一瞬も目を離さなかったが、大人しくソファに座ってギュッと目を瞑った。その怯え方はさながら幼児のようであったが、誰にでも、苦手なものくらいある。例えばセシルはピエロのメイクが苦手だし、要はゴキブリが苦手だ。どちらも彼女のように極端に恐れている訳ではないが。


「理沙、ベッドに横になりな。この注射器じゃ1リットルは採血出来ないから、ちゃんとした機械を持ってくるよ」


「決意が揺らぐから急いで!」



 ***



 一時間後、漸く採血が終わった。一度に大量の血を抜いた理沙は虚空を見つめ始めたが、しばらくすれば治るだろう。

 セシルは駆け足で機械を持ってきたが、その頃には理沙の注射に対する勇気は既に枯れ果てており、部屋の隅っこで蹲っていた。それから説得に十分、全身採血に五十分。その間、理沙はずっと涙目で訳の分からないことを叫んでいた。どうやら慣れるものではないらしい。

 パックの中に溜まった生温い液体は、全く鮮やかな色をしていなかった。血液が赤いのは赤血球が赤色を帯びているからだが、『SR細胞』を含んだそれは、更に濃い赤茶色をしていた。作り物のような赤茶だ。全く生々しさを感じられない。

 セシルは理沙を置いて、採血した血液を研究室まで運んだ。不老不死なんだから、放っておいても死にはしないだろう。



「あぁお疲れ、ミスター・ローウェン。やっとか」


「すみません。彼女がどうしても嫌がるもので。漸く今日の分が採血出来ました」


 カードキーを使って研究室に入り、主任のタリスにパックを渡す。彼はずっしりと重いそれを受け取ると苦笑いを浮かべた。


「注射は私も嫌いだったよ。まずフォルムがいけないね。あれは恐怖を掻き立てる形状をしている」


「彼女も似たようなことを言っていました」


「ふむ。気が合うかもしれないな」


 セシルは研究室に目をやる。要の姿が見えない。図書館か、裏庭かのどちらかにはいるだろう。彼の飽きたら研究室を出る癖は、昔から変わらない。

 研究室は白く無機質な空間だ。加えて研究者達も白衣を着ているせいで、妙に眩しく感じてしまう。あまり楽しそうには見えないな。


「彼女が、痛くない注射針を開発しろと」


「なるほどな。それなら採血の量も増やせるかもしれない。私が個人的に作っておこう」


「あ……ありがとうございます。彼女が喜びます」


 セシルが柔和な笑みを浮かべると、タリスは眉を顰めた。


「ふむ……君、被験者との間に、余計な私情は挟まない方が良い。我々は科学者なんだ。感情や倫理を捨てる方が、ずっと効率が良いと思わないか」


 タリスは通りすがりの研究者に血液の入ったパックを渡すと、壁にもたれこみ腕を組み始めた。感情の読み取れない表情をしている。


「けれど、感情や倫理は大切ですよ。もしこのようなストッパーがなければ、僕達科学者は、見えない欲を満たすため、沢山の非道なものを作り出すでしょう。それは公益にはならない」


「分かっているよ。……だから我々は、誰かに手綱を握ってもらわねばならない。しかし、それとこれとは話が別だろう。被験者は不老不死だが、君は有限の生命だ。別れは互いにとって辛いだろう」


「感情のために、感情を抑えろと?」


「あぁ。やってる時は楽じゃない。けれど、その時がくれば分かる。……そんな顔をするな。さぁ、もう戻るんだ。君は今まで働きずめだったからな、この仕事を機に、ゆっくりと休むと良い」



 ***



 犬飼は、理沙をニヒリストと称した。彼がそう本気で思っているのか、それとも冗談なのかは分からないが、それにセシルは賛同しかねた。


 セシルは理沙についての資料を手に取っていた。

『SR細胞』云々を除いた佐々木 理沙史、といった所か。好き嫌いから、学校での活動、交友関係などーー気味が悪いくらい、事細かに書かれている。苦手なものの欄には『注射』と共に『レバー』とあった。犬飼が嫌がらせで持ってきそうだ。

 経歴だけを見る限り、理沙は非常に善良な人間だ。表彰も何度かされているようだし、何より、『SR細胞』が露見した理由に彼は驚いた。



《20XX年10月21日 道路に飛び出た子供を助けるもトラックにはねられ、内臓を大きく損傷、出血多量、事故の六時間後に死亡。》



 ーー子供を、助けて死んだって?

 呆れてため息をついてしまった。他者のために自身を犠牲に出来る人間の、何処がニヒリストだというのか。それにもしかしたら、子供を助けなければもっと長い間自由でいられたかもしれないのに。

 この事件は政府によって揉み消されたようで、ニュースにはなっていないようだ。それに、公には理沙は死んだことになっている、と。


 しかし、子供を助けたと言っても、彼女は完全なるイノセントではない。

 セシルの経験上、人にため無条件に命を投げ出せる人間は存在する。そして彼等は、その純粋さと優しさ故に、初対面の人間でも大方は信用するのだ。非常に素晴らしい行為かもしれないが、そんな人間を、セシルは酷く愚かに感じた。

 理沙はなんというか、少々偽善的に思えた。

 それに論理的な証拠や確証はない。ただの人間としての勘だ。



 丸秘ファイルを元ある場所に戻すと、セシルはスーツを整えて廊下に出た。

 最下層にある『SR細胞』専門のこの資料室も、やはり一部の関係者以外は立ち入ることが出来ない。侵入されたら大事になりそうだ。世界が必死になって隠そうとしている真実なのだから、もし白日のもとに晒されれば、大変な騒ぎになるに違いない。


 公表することのメリットは大きいが、デメリットは更に大きい。

 メリットとしては、人類が不老不死研究に興味を持ち、多方面からの投資金が増額する、WHO以外の研究施設とも連携して研究が行える、ということ。

 デメリットは多い。テロリストが狙ってくる、というのは大きいが、それは例え公表されなくとも、情報が漏れれば誘拐しようと企む人間ははいる。

 特に問題なのは、彼女の人権を訴える者達が出てくるだろうことだ。

 勿論、現在の研究室は倫理の破綻した非道な実験・研究を行う予定は一切ないが、彼女の自由について難儀を唱えられる可能性が高い。自由権の侵害だと言われれば、WHO側としては何とも言えなくなるのだ。

『S1』には内側と外側から厳重に鍵がかけられているし、理沙が部屋の外に出ることは禁じられている。頭の良い彼女のことだから、機嫌が悪くなったら身体の自由がどうたらと言い始めるかもしれない。

 彼女自身が拘束を受け入れているため、自ずから自由になろうとはしないだろう。しかし、それを知らない外が騒ぐのは非常に面倒なことだ。研究内容を随一報告しろ、といった面倒な要求を受けるかもしれない。それに、警護を強化する必要もあるし、理沙は世間の好奇の視線を浴びることになるだろう。これは本人にとっても良いことではない。


 結局、こういった非人間的な人間は、隠しておいた方が社会と本人のためなのだ。

 政府は、宇宙人やら超能力者やらの存在も隠蔽しているのかもしれない。セシルは詳しくないが、犬飼に聞けば分かるだろう。



 廊下を歩いて『S1』に戻ろうとすると、曲がり角から女性職員が姿を現した。

 黒縁の眼鏡をかけた、赤髪の品のある女性。背が高く見えるのは、彼女が赤いピンヒールをいつも履いているからだ。彼女は白い白衣を靡かせると共に、セシルを見つけると、表情こそは変えないが手に持つボードをギュッと握った。


「あら。ローウェン。何故貴方がここにいるの」


「それは……こっちの台詞だよ。久しぶりだね、アリア」


「気安く、ファーストネームで呼ばないでくれるかしら」


 アリア・レッドフィールドは、薄ら笑いを浮かべるセシルを見て足を止めた。

 彼女は上司に命じられ、先程この研究施設に入る許可をもらったのだ。研究者ではあるが、どちらかと言うと機関内のエリートであり、出世コースを順調に進んでいる女性である。やはりこういった公的機関は男性の出世率が高いのだが、アリアはそれに引けを取らない程の才覚と、威厳を合わせ持っていた。


 セシルは彼女とあまり良い思い出がなかった。

 同じ研究者で、以前口説き落とし、恋人になったことがあるのだが、彼の二股が露見して振られたのだ。職場が同じだから気まずいし、自分が悪いことをしたと彼も分かっているが、まだ邪険にされるのか、と心の中でため息をついた。


「調子はどう? アリアーーミス・レッドフィールドも、研究者として犬飼さんに配属されたの?」

「半分正解、半分不正解、と言った所ね。犬飼さんに命じられたけど、私がここに来たのは研究するためじゃない。監督するためよ」


「おや、それは随分と……」


「私は貴方と違って、”優秀な”研究者だもの。子守よりもずっと有意義な仕事のはずよ」


「……アリア。昔のことは本当に反省している。君を傷つけたことを今でも後悔しているよ」


「貴方はそうやって、いつも口先だけだったわね」


 そうは言っても、元カノから冷たく当たられるのはあまり気持ちの良いものじゃない。

 元はと言えば自分の行いが原因だ。これ以上、セシルは何も言えなかった。


「犬飼さんも、貴方のその女誑しっぷりを使おうと思われたのかしら。今も付き合っている哀れな子はいるの?」


「今は恋人はいないよ。先月受付の子と別れて……」


「何だってそんなに続かないのかしらね。また浮気したの?」


「違うよ」


 セシルは容姿さえそれなりならば、誰でも受け入れる。来る者を基本的に拒まないだけなのだ。それを世間は”浮気”と言うのだが、彼は受動的が故に、あまり自分の中に責任や罪悪感を感じていなかった。アリアともう一人の女性は、偶然付き合う期間が被ってしまった。それが露見しただけだ。

 彼にとって女は、自分の顕示欲や性欲を満たすためだけの存在で、今も昔も割り切って付き合っているつもりだ。それを相手にも初めに説明こそはしているのだがーーやはり、好きな人間の一番になりたい、というのが女性の性根にあるのかもしれない。


 彼が女性と別れる原因の最もたるものは”飽き”だ。

 何ヶ月も付き合っていると、新鮮味や刺激が激減する。野心的な人間にとって、凡々としたものは耐えられない。しかしそれを口にしてしまえば、アリアに殴られるだろうとセシルは思っていた。彼女は口より先に手が出るタイプだ。出会い頭に蹴飛ばされなかっただけ今日は運が良い。


「被験者に手を出さないでよ」


「まさか。子供は範疇外だよ」


「あら貴方。年はそんなに気にしないって言ってたじゃない」


「それは上の年の話。僕は健全な成人男性だからね。少女の肉体には興味がないんだ」


「そう。私達は興味津々だけど。それじゃあ、精々出世のために御精進なさい」


 言うと、アリアはすれ違いざまにセシルの腕をボードで思い切り叩くと、そのままヒールの音を響かせながら奥へ去っていった。

 ーー痛い。

 腕に響く鋭い痛みを右手で押さえながら、セシルもまた、自分の行くべき場所へと足を進めた。

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私の細胞は、どうやら人類の夢らしい カドナリリィ @kadonalily115

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