第4話 細胞
「ニヒリストの様子はどうだ」
「それが僕の監視対象を指しているのでしたら、とりあえず元気とだけ答えましょう」
執務室。
犬飼は部下の発言に眉を潜めた。何処かの誰かによく似ているような気がしたのだ。飼い主は飼い犬に似る、飼い犬は飼い主に似る、とはよく言ったものだが、こんな短時間で、人をおちょくるような発言まで似るとは聞いていない。
セシルもきっと、彼に意地悪をするつもりで言ったのだろう。普通の上司ならばバッサリと切り捨てられるか、ジョークも通じないような堅物かの二択なのだがーー国際機関はそんな場所だーー好ましいことに、犬飼は普通ではなかった。かといってジョークを好む訳ではない。売り言葉に買い言葉を返したら、そこで止めないで更に喧嘩を悪化させる言動をする人間である。しかしそれは、人によっては面倒なことでも、セシルや理沙はその限りではなかった。
「お前、随分と侵されているな。洗脳はお前の得意分野だと思っていたが、どうやら間違いだったようだ」
「とんでもないですよ。洗脳だなんて」
「お前も、あんまり反抗的な態度を取ろうものなら、ぶん殴ってやるからな。いや、お前はあいつと違って、怪我がすぐに治らないんだった。そうだな、代わりに拳銃を使ってやろう」
「手加減されていませんよね、それ」
つまりは、殺す、ということか。
セシルは理沙の真似事を止め、表情を固めた。彼は信頼に値する人物だが、信用してはいけない。それは皆の共通認識だった。表でも裏でも、何をやっているのかさえ分かったもんじゃないのに、どうやってその心まで預けられようか、いや預けられない。
初日が終わり、理沙が睡眠に落ちたであろう時間帯になっていた。
夕食を食べ終わると、セシルはすぐさま部屋を追い出されたーー彼は一緒に食べなかった。犬飼が支部に戻ってくるのを図書館と食堂で時間を潰し、今一日の報告をしにきた。
「それで、何処まで進んだんだ?」
「何処まで、と言われましても。今日はプレゼントして、ずっと会話して終わりました」
「つまらん話だ。もっと他にないのか」
「本棚の本が面白そうじゃない、と言われました。彼女は倫理学系の本を所望しています」
「お前の家にある専門書を持って行ってやれ。さぞ、嫌な顔をしてくれるだろう」
セシルはどちらかと言うと、笑顔の方が好みだ。副事務局長の人生の半分は、他人への嫌がらせに費やされている。それは周知の事実だが、まさかこのような形で実際に目にするとは思わなかった。
これでまた一人、自分を信頼する部下を彼は失った訳だが、セシル一人欠けた所で、犬飼は痛くもかゆくもない。
「文系にはきつい本ですよ、あれは」
「だろうな。かいつまんで説明でもしてやれば喜びそうだが……明日は全て英語で話してみたらどうだ?」
「リスニングが苦手らしいので」
「へぇ……」
悪役のような沈み込んだ笑みを見せられた。
「まぁ、あいつがお前と俺と、関係者以外の職員と接触することはない。英語が出来なくても問題はない。ただ一つ、懸念がある」
「何でしょうか」
「……いや。お前にはまだ早い。しばらくはお預けだ。こちらで対処するからな」
「そうですか」
わざと言っているのか、それとも本当に言うのを改めたのかは分からない。犬飼は一人、何処か遠くを見つめてニヤニヤと笑っていた。
***
研究は順調に進んでいるらしい。
セシルは執務室を出ると、地下にある研究施設に足を運んだ。WHO内でも特に優秀な職員達がーーセシルもよく知っている顔触れだーーそこには大勢おり、中にはセシルの友人もいた。彼等は客人を一瞥もせずに、実験や話し合いをしている。どうやら彼の入る隙はなさそうだ。
彼の友人も、細胞サンプルの入った試験管を見つめながら渋い顔をしていた。参加せずとも、どうせ数日後には定期報告が届くだろう。
研究に参加していない部外者が、口出しをするべきではない。彼も研究者としての経験があるが故、その行為が非常に不愉快なものだと理解していた。
『SR細胞』は、世界有数の研究者達が見ても、非常に難解な存在だった。
衰えた細胞、老いた細胞などを再生するという能力は、存在しても決してありえないものではない。人の老いの原因はまだ解明されていないが、人体のバグやエラーだったり、神の作ったプログラムだったり、様々な説が挙げられている。それを克服したということは、ある種の突然変異なのだ。被験者を研究すれば、人類の不老化も夢ではなくなる。
しかし、問題は『死んだ細胞を蘇らせる』といったものだった。
「あぁ、ローウェン。お前もここに入る許可を貰ったのか」
「そうだよ。……要、久しぶりだね」
坂本 要は白い沈殿物のある試験管を装置に挿入し、蓋を閉めてセシルに向き直った。彼はセシルの友人で、同期でもある。WHOに所属する科学者の中では浮いた存在だが、相対的なセシルと、何故だか馬が合った。
研究室の平均年齢は、セシルが思っていた以上に高かった。齢六十越えのベテラン研究者が多く、要のように若い者は少ない。女性も一人見かけたが、容姿に気を使っている暇などないのか、周りの目を気にする性格ではないのか、実年齢が如実に現れ出ている。
彼は要と友人だが、以前同じ研究室にいた時から、実力と見識の差にずっとコンプレックスを感じている。
「仕事は被験者の観察か?」
「そう。でも、彼女はとても魅力的な子なんだ。退屈にはならなさそうだよ」
「なら良かった。出来ることなら、お前と一緒に研究がしたかったが……いや、お前も被験者の側で、ある意味研究をしていると言えるな」
「女心は一生分かりそうにないよ。ファーストコンタクトは失敗かもしれない」
「驚いた、珍しいな」
とは口で言うものの、要は先ほどから表情筋を動かさないまま、そのままテーブルに向き直って注射器を手に取った。
「ローウェン、今日の分の血は? 貰ってないぞ」
「拒否されたよ。プロを連れてこいって言われて追い出された。僕、一応注射器は使えるんだけどなぁ」
「注射器が苦手な嫌いか? ……面倒だな」
WHOで保護されるに当たり、一日に1Lの血液を研究室に提供することを理沙は要求される。そしてその採血の責任はセシルにある。とはいっても一度に一気に抜くわけではなく、一日三回に分けてセシルは行うつもりだった。
しかし、理沙は今日の分の採血を拒否したのだ。
「いや、ほんとに無理だから! プロ呼んできて!」という理沙の声が耳から離れない。
「……被験者のことは気に入ったのか?」
「そうだね。とっても可愛い良い子だよ。ちょっと頑固だけど、そこも可愛い」
それは本心だった。
心を掴もうと躍起になってはいたが、理沙の容姿や言動を、セシルは可愛らしいと感じていた。それは異性として、女性としての魅力を感じたのではない。小動物を眺めるような、和やかな気持ちになるのだ。
「お前の方が懐柔されてないか? それ」
「同意するよ。座って良いかな」
「ダメだ。器具でも壊されたら溜まったもんじゃない。用が済んだら、早めに帰ってくれないかな」
「あぁ……ごめんね。僕はじゃあ、一足先に帰ることにするよ。お疲れ様」
「寝てる間に採血してこい」
「アハハ……」
角の立つ言い方をされたが、要にセシルへの悪意はない。昔から、思ったことを人の気持ちを考えずに発言してしまう性格のため、彼の周りには人が少なかった。彼にとってセシルのような、常に人に囲まれているような人間は、一生関わりえないものだ。
しかし、セシルは要を利用しようと近づいた。要に嫉妬しているからこそ、自分にない要の力を自分に使うチャンスだと考えたのだ。セシルにとっても要の言葉はカンに触ることはあったが、今まで顔に出さないでいた。
そう、彼は良い友人だ。”都合の”良い友人だ。
出世する上では、組織内での円滑な人間関係を築くことが大切だ。彼のような、貴重で、優秀な情報源も必要だろうと、セシルは考えた。
要も、そのような人間は多く見てきた。優秀すぎるが故に、昔から自分の周りには利を好む者が多く集ってきたものだ。彼等は要を、研究者として利用しようとしてきた。資金や施設を提供したり、研究結果をかすめ取ろうとしたり。皆要を使おうとはするが、必要以上に関わりたくないと避けていたのだ。
しかしセシルは違った。
同じ研究者として、彼は要の研究に口出しはしないし、あえて手伝おうともしてこない。互いに愚痴を言い合い、時には笑いあう。人はそれを”友”と呼ぶらしい。
セシルは皆と同じ目をしている。自分を利用せんとする目だ。しかし要は彼が嫌いにはなれなかった。同じ目線に立ち、手を取ってくれる彼が、要は悪人には見えなかった。
「そうだローウェン」
「何だい?」
セシルはさっさと家に帰りたいと思っていた。
「身辺に気をつけろ。上は規制をしているつもりらしいが、情報は漏れている。人は金を貰って秘密を守っていても、それ以上の金を出されたら、うっかり口を滑らせてしまうものらしい」
「そうか……忠告ありがとう。要も、恨まれて刺されないように気をつけてね」
「お前にだけは言われたくない。いつか女に刺された傷は、まだ疼くか?」
「ありもしないことを言うのは止めてくれよ」
そう言いながらも、セシルはわざとらしく左脇腹を撫でた。
***
WHOニューヨーク支部 特殊研究施設 No.S1
佐々木 理沙は満身創痍だった。
一日というものは、光陰矢の如く、あっという間に過ぎるものだと思っていたが、今日という日はあまりにも密度が濃すぎたせいか、一年くらい経ってしまったように感じる。しかし、今朝起きてから現在に至るまで、たったの十二時間と少ししか経っていない。人間の感覚とはつくづく不思議なものだ。
理沙は大きなベッドに横たわりながら、小さくため息をついた。
孤児院生活十六年。
このような豪華なベッドで寝る経験は、今までに一度だってない。修学旅行のホテルは小学校も中学校も座敷で、普通のベッドで寝たことがあるとすれば、保健室だろう。理沙の経験上、このような出来事は決まって夢なのだ。しかし痛覚はある上、果てしなく絶望を感じる。残念なことに、これはリアルらしい。
興奮のせいか妙に眠れない。先ほど、セシルに無理矢理注射針を刺されそうになったことが原因だろう。彼は研究者で、注射をするのには慣れているとは言っていたが、あくまでも対象は実験動物だと理沙は考えた。
そもそも、彼女は痛みが嫌なわけではない。注射器のあの形状と、人の身体に無機物を差し込むという倫理観の破綻した発想に、彼女は心から慄いているだけなのだ。
世の中は理不尽だと彼女は思う。
強い人間が他者を従わせる力を持つのは決して悪いことではない。そうやって社会は成り立っているのだから。しかし、他者の嫌がることを無理矢理しようなんてことは、ただの下衆の所業だ。つまり、全ての医療関係者は等しく下衆である。
極論を頭の中に浮かべながら理沙は身体を震わせた。あろうことに、あの男までも下衆の類だったのだ。彼女の白い柔肌に、笑顔で針を刺そうとした罪は重い。少なくとも、一生忘れないくらいに。
セシル・ローウェンは、彼女の目から見ても非常に胡散臭い人間だった。
初めは親切に、根気強く接してくれていたが、段々と焦りが見えてきた。中々心を開かない理沙にイラついていたのだろう。投げやりにプレゼントまで渡された。これでは逆に引いてしまう。女の扱いになれていないだけかとも思ったが、彼の仕草や話し方、話題の振り方から鑑みるに、相当手だれている。
やはり、子供であり、初めから警戒を強めていた理沙はレアケースなのかもしれない。
ネックレスなど貰っても困る。先ほど改めて見たが、あれは決してプラスチックの人工宝石ではない。本物のダイアモンドだ。何カラットあるのかは詳しくないので分からなかったが、良い値段がすることくらい、貧乏な彼女でも容易に想像がついた。そもそも、いつ、何処でこんなものをつける機会があるというのだろう。まさに宝の持ち腐れだ。これなら質屋にでも売り飛ばして、孤児院に寄付してくれた方がずっと嬉しい。
ーー明日返そう。
初対面のプレゼントにしては愛が重すぎる。受け取った瞬間はどうせ大したことないだろうと踏んでいたが、まさかここまで高価なものになるとは。平静こそは振舞えど、理沙は内心恐怖に震えていた。話を聞く限り、セシルの自費のようだ。勿体無いから、彼の母親にでもプレゼントしてもらおう。
理沙は一つ不安があった。
犬飼やセシルの話を信じる限り、実験や検査は倫理的な配慮が取られるようだが、ずっとそれが続くとは限らない。必ず、理沙を政治的に利用しようとしたり、手段を問わない研究を推し進めようとする者がいるはずだ。彼女の存在は世間に公表されていない上、戸籍上では死んだことになっているのだから、誰が何をしようと世間は気付かない。
それが、理沙は恐ろしくて仕方がなかった。犬飼と愉快な仲間達が自分を守ってくれるつもりだとしても、その更に上が命令を下せば、きっと彼等は逆らえない。糾弾しても、国家権力の前に捻り潰されるだけだろう。
この件に関して、理沙は何をすることも出来ない。自分は研究対象で、この施設内でもトップクラスの重要人物だが、必要視されているのは心ではなく、身体だ。どんな傷も病気もたちまち治る身体。どんなに非道な行為を行ったとしても、彼女の身体に証拠は残るまい。それに、繰り返し繰り返し使える。
これが宿命か?
いいや、こんなのは望んでいない。
もう二度とこの場所から出られず、大好きな人達にも会えない。
いつ誰に何をされるか分からない。
誰が味方で、誰が敵かも分からない。
ーー私はなんて不幸な人間なんだろう。
感覚のない痛みに襲われながら、理沙はシーツを掴んで目を閉じた。
願わくば、夢の中くらい望みを叶えさせてくれ。
***
坂本 要は鬱憤を募らせていた。
同じ研究室にいる者達はやはり、上層部に選り好みされた優秀な研究者ばかりなのだが、それにしても使えない。どれもこれも、上の命令を待つばかりで碌にやりたい研究も出来ていない。要がWHOに就職してからずっとそうだった。
自主性がないわけではないのだ。彼等は自分の研究をしたがっている。しかし、世界機関に属する人間である限り、国の命令に逆ってはならない。
しかし坂本 要は違った。
ハーバード大学を首席で卒業すると同時に、以前から世話になっていた犬飼のお膝下に入った。それが
要はそれを幼い頃から間近で見てきた。
犬飼直属の部下である彼には、誰も口出しが出来ない。かといって彼は傲慢に振舞うわけでも、他の研究者達を顎で使うわけでもない。ただ、命令されねば何も出来ない同僚達に苛立ちを抑えられていないだけだ。
「ああ、ミスター・サカモト。悪いが場所を移動してもらえないか」
「俺は構わんが、何をするんだ」
要が『SR細胞』の様子を顕微鏡で覗いていると、研究室の主任兼責任者のタリスが声をかけてきた。
タリスは要を、まるで腫れ物に触れるのように扱う。要は何を言われようがされようが気にしないが、タリスは、要に何かしたら、自動的に犬飼が出てくると思っているらしい。やはり職員にとって、副事務局長は畏怖の対象のようだ。しかしいざ親しくなれば、ただ腹黒いだけのクズだということが分かるだろう。
「『SR細胞』を投与して死んだマウスの体液を調べるんだ」
「……それ、もうやったろ。結局何も出なかったじゃないか」
「上はそれじゃ満足してくれんらしい。まぁ、細菌兵器になる可能性があるから、調べたがる理由は分かるんだがなぁ……」
『SR細胞』は、適合者にしかその効力を発揮しない。
それを血液に流し込んだらすぐに、実験用マウスは死んだ。その原因を探すために、数週間前まで研究室総出で研究に励んでいたが、とうとう皆で揃って匙を投げた。
その矢先にまた命令が出たらしい。
「『SR細胞』はマウスの細胞膜を破壊し、投与の一分後には活動を停止。そのまま『SR細胞』自体も機能を停止させてマウスは完全に死に至った。しかし『SR細胞』が他の細胞を殺しているのではなく、全ての細胞が急速に老いていく。原因は不明。これ以外にどう追求しろっていうんだ。被験者を調べた方がずっと有意義だと思うがね」
「被験者への接触は、我々はまだ禁止されているんだよ。君も知っているだろう?」
「……」
「人道的と言ったら聞こえは良いが、こんなんじゃ研究は進みやしない。まぁ我々は老いるが、被験者は死なない。これが唯一の救いだな。いつか人類も彼女のようになるのだろう」
「だと良いがな」
元々、要は研究チームには入れられていなかった。
彼が犬飼の執務室で偶然見つけたマル秘ファイルが、不老不死への興味を掻き立てたのだ。無理矢理研究室にねじ込んでもらった割に非協力的な態度の要は、研究者達からは煙たがられていた。
彼は不老不死になりたかった。
もし不老不死になれば、いつまでも好きなことを続けられる。そしていつか、この世の全てを知ることが出来るかもしれない。自分に残されたリミットは、後残り六十年強、といった所か。長いようで短い年月だ。きっとあっという間に過ぎてしまうだろう。
だからこそ、時間は無駄に出来ない。それなのに他の研究者達といったら、上の命令にばかり従って本当にやりたいことをしようとしない哀れな連中だ。
「君も手伝ってくれ……とは言わないことにするよ。とりあえず、犬飼さんに宜しく伝えといてくれないかい?」
「何について?」
「あぁ、『研究員をもっと増やせ』って言っといてくれよ。これだけじゃ手が回らない。機密を守ろうとするのは良いことだが、それが現在進行形で我々の首を絞めているんだ。聡明なあの人なら分かってくれるはずだ」
「……分かった。とりあえず伝えておくが、無用な期待はしない方が良い」
『SR細胞』関連の全ての最終責任者は犬飼だ。
タリスは要に伝えさせれば、ある程度の”お願い”はきいてもらえると踏んでいた。犬飼は要を溺愛している。それはもう、『鬼畜』と悪名高い彼だと、信じられない程に。
要もそれは分かっていた。しかし断る理由もないし、人が多い方が作業が捗るのは確かだ。情報が漏れる、漏れない、は研究者である彼等には関係がない。被験者がいて、細胞が採取出来れば、どんな状態でも問題はないのだ。
研究者達が先程まで要の座っていたテーブルを占領し始めたため、彼は仕方なく部屋の隅にファイルや試験管を滑らせた。
ーーそうだ、そういえば、本を返していなかったな。
すっかり前に読み終えた分厚い専門書が、そのテーブルに置いてあった。アルファベットが延々と羅列されているそれは、要のお気に入りの一冊である。しかし、二回も三回も読んでいる内に、文言を全て暗記してしまった。これでは実物を持っていても意味はない。
時計を見ると、もう午後八時だ。本を返すがてら、テラスで夕食でも摂るか。
要は本を手に取ると、研究者達の背中を流し見つめながら、研究室を出た。
要は、お世辞にも容貌が良いとは言えない。
容姿に無頓着で、手入れする時間も気もない要の前髪はすっかり伸びきっており、黒縁眼鏡の上にかかっていた。背筋も悪く、髪も寝癖がついてあちこちで跳ねっぱなしだ。そして目付きが悪く態度も悪いときたもので、当然、異性から言い寄られる経験なんて人生に一度もない。
やはり自分とあの友人は相対的だ、と感じるも、何の感情も湧かなかった。恋愛感情は脳のエラーだと彼は思っているし、異性と食事をしたり、連絡を取ったりすることは何ら生産性のない行為だ。本能を優先するならば、理性を無視して子供を作れば良いだけの話。要には理解の及ばない領域だった。
女性職員の彼への好感度を数値化するならば、100がマックスで21といった所か。挨拶さえしてもらえない、集団で陰口を行ったりわざとらしく避けたりする、ということがWHOに入ってから今までずっと続いている。男性職員は露骨でないからまだ良い。しかし、女性の醜い部分を身をもって経験している要は、人間不信が深まるばかりだ。
ーー何が楽しいんだか。
要は一階まで上がり、受付の女性達に目を向けた。フロアは帰宅ラッシュの時間帯を過ぎてしまったから、職員は多くない。受付の彼女達は要の視線に気がつくと、顔をしかめて勢いよく目を逸らした。受付は愛想と笑顔を振りまいて、職員を和ますのも仕事の一環だと彼は思っていたが、あの様子を見る限りそうでもないようだ。
いやしかし、別の職員が通ったら挨拶していた。やはり人を見ているのか。公人ならばあのような行為はしないだろう。感情を抑えて職務を遂行する姿がこの場所では求められるのに。困ったものだ。
要も人のことはとやかく言えない勤務態度だが、口と顔に出さなかっただけ、彼女達と違って良いのかもしれない。
WHOニューヨーク支部には、一般市民も立ち入ることの出来る巨大図書館が設置されている。それは支部の三分の一を占めており、朝の六時から夜の九時まで開いている。学生や暇な老人に人気の施設で、蔵書数は驚異の十二万冊以上だ。様々なジャンルのもの、言語のものが取り揃えられており、要だけでなく他の職員や研究者も愛用している。
要はガラス張りのドアを通って図書館に入ると、すぐ近くにあった受付のカウンターに本を置いた。図書館は水を打ったように静まり返っており、紙を捲る乾いた音しか聞こえない。
当の受付のおばさんは、分厚く一メートルはあるんじゃないかと思う程に大きい本を読むのに集中しているようで、要の姿に一向に気がつかない。これは図書館名物の一つだ。要は慣れた手つきで呼び出しベルをリン、と鳴らすと、本の表紙を小さく叩いた。
「あー、はいはい。返却ね」
「ああ。……ローウェンは今日来てないのか?」
「アタシに聞くなんてね。知らないわよ」
「だろうな」
おばさんは手早く手続きを済ませると、カウンターの脇に山積みにして置いてある本にそれを投げ込んだ。司書だというのに、本を丁寧に扱うことを知らないらしい。
今日のディナーはカレーにしよう。そう思いながら、要は図書館を出た。
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