第3話
気付いたら、僕はあの日から、一ノ瀬と一言も話さずに夏休みを終えていた。文化祭の劇の準備だとか、これはもしかして終わるという概念がないのか? と思うくらいの量の宿題に追われていたのも確かだが、ただなんとなく話しかけづらかった。まるで、あの日から僕と彼女の世界が決定的に分かたれてしまったような、そんな変な疎外感があって、僕は第一選考の結果すら聞けていない。
第二選考の結果が送られてくるのは九月の初め頃、奇しくも文化祭の日だった。文藝部は文化祭のときに一つの教室を借りて部誌を売ることになっている。
一年生は固まって店番をしなければならなかったため、僕は一ノ瀬とひと月半ぶりぐらいに顔を合わせることになった。そのせいで少し憂鬱な気分で当日を迎えたのだが、いざ文化祭が始まると、普段とは何もかも違うお祭り騒ぎの雰囲気にのまれて、そんなわだかまりなんて頭から吹っ飛んで馬鹿みたいにはしゃいでしまった。
午後三時を過ぎてもお祭り気分が抜けない校舎に、重々しいチャイムが鳴り響き、ややあって興奮に頬を染めたお客さんたちがぞろぞろと校門を抜けていく。
「っあー! 個人誌全部売れた!」
「おつかれー!」
先輩たちは狭い教室で伸びをし、興奮冷めやらぬといった感じで健闘をたたえ合う。
「今日は祭りだ、飲むぞ!」
「コーラですよ」
部員たちはおのおの、好き勝手言いながら教室を出て行く。僕もそれに続こうとリュックを手にかけた瞬間、背後から控えめな声がかかった。
「加瀬くん。結果、伝えとこうと思って」
その一言で、すべてを理解する。強張りそうな頬を無理矢理ゆがめ、笑顔を作った。
「分かった、部室に行こう」
教室を施錠して部室に向かう間、彼女は一言も話さなかった。まるでこの世界に二人だけが切り取られてしまったようだった。彼女が纏う重々しい空気と生徒たちの弾ける笑い声の隔絶!
僕はたまらなくなって、彼女に他愛もない話をし続ける。
劇は六組が一番よかったのに審査員は分かってないな、そういえば二年の出店行った? 四組のフランクフルトおいしかったよ、緊張してたけど、文化祭も終わってみると一瞬だったなぁ。
部室について靴を脱ぐなり、彼女は小さく僕の名前を呼んだ。僕のつまらない世間話はそんなことじゃ止まらない。
「文化祭が終わったらすぐ宿題テストなんだよやばくない? あーあと何かな、あ、一ノ瀬さん昨日の夜何食べた?」
「加瀬くんあのね、」
うるさいなあ、僕は君に話したいことがいっぱいあるんだよ。黙っててってば。
「僕はねぇ、昨日はチーズタッカルビだったよ。家でも作れるんだねあれって」
「加瀬くん!」
記憶が正しければ、僕は彼女の大きな声をこのとき初めて聞いたと思う。驚いて反射的に口を閉じる。
「帝都賞の二次選考、結果出たよ」
彼女の右手にはいつの間にか、真っ赤な封筒が握られていた。聞くまでもなく帝都賞の当落通知だ。帝都さつきが愛した色が、燃える炎のような赤色だったかなんだかで、この赤い封筒が帝都賞の伝統であり誇りなのだ。ということは彼女は一次選考を突破したということで……。
時間を稼ごうとしたのに、そんなに真摯に言われたら、応えざるを得なくなるじゃないか。あきらめて封筒を手に取る。深呼吸をして、一度破られたそれをもう一度開く。中には一枚の紙。
「───おめでとう」
三つ折りにされたその紙には、二次選考通過、の文字が躍っていた。ああそうだ。最初から分かっていたのだ。どれだけ下手だって、彼女の小説は面白い。すごく面白い。一ノ瀬蛍解読班、というハッシュタグがタイムラインを埋め尽くすところだって、本当はずっと見ていた。見ていたうえで、僕は何も言えなかった。だって、そんな屈辱的なこと誰が言えるというんだろう?
本当は、本当は僕だって応募したかった。彼女のように人目を憚らず、自分は小説を書いているんだと言い切りたかった。
そうだ。炎上しながらも彼女の描く世界にみんなが虜になっていった日の夜、僕は自分がネットにあげていた作品と彼女の応募作の閲覧数の差がどんどん開いていくのを、毛布にくるまって泣きながら見ていた。
血が出そうなほど奥歯を噛みしめる。そうでもしないと叫び出してしまいそうだった。沸騰する感情が暴走して、視界が赤く染まっていく。
『で何? なんのために二人きりになろうと思ったわけ? 上から目線で講釈たれた割に、最終的には臆病風吹かせて応募すらしなかった僕への当てつけ?』
そんな言葉をシニカルにぶつけてやろうと思ったのに、のどがひりついて全く動かなかった。そこでようやく、思いの外自分がショックを受けている事に気がつく。心の中で苦笑する。彼女は僕の感情の奔流を知ってか知らずか、ただ僕の目をまっすぐ見つめていた。
「あのね、前に私に聞いたでしょ、なんで小説書いてるのかって。それね、ずっと考えてたんだ。だから言おうと思って」
小さく息を吸い込んで彼女が口を開く。魂まで燃やし尽くすような真っ赤な夕焼けに包まれて、理解しがたいことに彼女は穏やかに笑っていた。
「あのね、私ずっとね、君に見せるために小説書いてたんだ」
その瞬間、何かがぶわっと弾けた気がした。
「……あ」
Q.僕が彼女に近づいた目的は? A.振るためです。
ここで断ったら作戦成功だ。何のためにここまでやってきたと思ってるんだ。その目標があったからこんな根暗なやつの文章を読み続けていたんだ。手ひどく振ったそのショックでもっと素晴らしい作品を───
「なんで?」
僕の返事は、自分が言おうとしていた酷い台詞と全く違うものだった。とても噛み合った返答とは思えなかったのに、彼女はなんでもないような顔で微笑む。
「加瀬くんがいつも、私の小説面白いって言ってくれたから。……最初は、ちょっとした好奇心でこの部活に入った。でも、加瀬くんがいつも私の小説を面白いって褒めてくれて、すっごくいいものにしてくれた。私もそれに応えなきゃって思って必死に頑張った。自分のすべてを燃やし尽くして何かを表現することの怖さと気持ちよさを知った。誰に評価されなくても、小説を書くことが楽しかった」
まあ、成績は下がっちゃったけど。彼女は恥ずかしそうにはにかむ。気が遠くなりそうだった。彼女は小説を書くために勉強時間まで削ったのだ。そういえば補習の課題をよく抱え込んでいたっけ。
蛍。彼女にぴったりの名前だと思った。全てを捧げてまで必死に輝く、気高くはかない生き物。
小説に才能は関係ない、他でもない僕の言葉だ。その通りだ。でも僕は本当の意味で、その言葉を理解していなかった。心のどこかで自分の能力を過信して、全てをなげうってまで書こうなんて思っていなかった。ああ、彼女は今、努力だけであの封筒を握っている! 限りなく僕の言葉を信じて! たまらなくなった。
負けた、と思う。何もかもに。認めよう。彼女の無茶苦茶な原稿に爆笑しながらアカを入れた日々は、空がくらくなるまで文学論について意見を交わした日々は、とても、とても楽しかった。そういえば、彼女が帝都賞に出したのは恋の話だったな、とぼんやり思う。読んでやるもんか、そう嘯いたくせに、好奇心に負けて結局読んでしまった。彼女があの朝、読んでないんだね、といったのも頷ける。あんな話を読んでしまったら、消せなんて言えるわけない。
『主人公の出席番号が二十九、つまり素数なのは、彼が宇宙人で誰にも気が許せなかったことの暗示ではないか』『ヒロインのライバルの名字は「犬牟田」で七つの大罪で犬に関連づけされている罪は嫉妬のため、彼女が主人公を刺したのは嫉妬故だったのではないか』『主人公の母親がいとも簡単にピアノをやめたのは、夫への愛だけでなく、商売道具の手を痛めたからではないだろうか』
頭がいい色んな人たちは彼女の文章に対して様々な考察を巡らせていたが、僕が読む限りあれは、ありきたりでどこまでも真摯な一つの恋の物語だった。ため息をつく。どこか気分は奇妙に晴れやかだった。ここで彼女を振ることで素晴らしい物語が生まれるとしても、彼女に思い詰めたような激情の物語は似合わないかもしれない。
───あの日、不安そうな目で僕に原稿を見せた彼女が、救いを求めていると思いこんで勝手に縋った。そういう理想を押しつけていた、ずっとずっと。
でも今、かつて翳がある、と思っていた彼女の瞳は鮮やかな光で満ちていた。いつも強張って怯えていると思い込んでいた唇は幸せそうに弧を描いていた。
負けた、もう一度繰り返す。僕たちはどうやったって書かなければ生きていけない人種で、言葉にありったけの想いを込めて、文を紡いでいく。その行為は、祈りにさえ似ている。
そんなすべてを、僕のために? いっそ笑ってしまうぐらい、超弩級の告白だ。彼女は笑っている。ならば、僕はそれに応えないといけないだろう。それが、言葉を信じ、そこに光を見るものの宿命だ。
僕はあきらめたように苦笑し、口を開く。ああ、彼女の前で心から笑えたのっていつぶりだっけ。
「僕は、君が───」
「……さすがに今回はいけると思ったのにな」
『私』はため息をついて、一枚の紙から顔を上げる。その紙には、まあ大雑把にまとめると、リアリティがない、理想を投影しすぎ、夢見がちすぎ、といった至極まっとうな酷評が、B5用紙いっぱいに丁寧に書き綴られていた。これだから文学賞は嫌いだ。
世の中には書かないと生きていけない人間がたくさんいて、私はどうあがいたってそちら側には行けない。現実は小説のように甘くないから、文章が下手でなおかつ面白くもない中途半端な小説なんて評価される訳がない。それだけの話だ。
みんなに受ける文章と誰かの心に残る文章は違うんだから、なんてきれい事が世には出回っているけれど、結局みんなが好いてくれるものは、誰かの心にもしっかり刻まれるのだ。だって前提として母数が違う!
私は、少しだけ涙に濡れて色を濃くした、特徴的な真っ赤なデザインの封筒をびりびりに引き裂いて、教室のゴミ箱に突っ込む。
窓から見下ろした夕焼けはやけにくすんでいて、私の空想に棲む理想のヒロイン『蛍ちゃん』はこんな光景、一生見ないのだろうなと思った。だって、彼女の火が翳ることは永遠にない。私は未練がましくもう一滴だけ涙を落とし、今度こそ一人きりの教室を後にする。
言の葉は燃える蛍のように @saburi0509
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