第2話
数ヶ月後。季節は移り変わり、うだるような夏になった。蝉が喧しく鳴き叫び、教科書に汗が垂れる。夕方にはどこからともなくだんじりの囃子がざわめく、雑多な夏。全てにおいて過剰で苛烈な季節だ。相変わらず一ノ瀬の書く小説は上手くない。でも、やっぱり場数を踏むのは大事なことだ。僕の指導の甲斐もあってか、毎日提出されるショートショートは、少しずつ書き慣れた雰囲気になっていった。
応募期限が数週間後に迫っていたある日、僕は偶然一ノ瀬と部室で二人きりになった。 文藝部はなんだかんだ部員が二桁数いるので、なかなか部内に二人だけ、というシチュエーションは珍しかった。彼女は黙って机に向かい、補習の宿題をしていた。馬鹿め。
僕はなんとなく手持ち無沙汰で、床に転がっていたルービックキューブでひたすら遊んでいた。小さい窓からは、蝉の鳴き声とテニス部のかけ声が微かに聞こえてくる。午後四時半の日差しには日中の挑みかかるような強さはなく、どこかだらりとけだるい残照になっていたが、壊れかけの扇風機はカタカタと音を立てて、必死に生温い空気を掻き回していた。
その日、僕は少しだけ落ち込んでいた。
完ッ全に自分語りなのだけど、僕が小説を書く理由は、みんなが評価してくれるからだ。幼い頃からずっと本が好きで、十年間以上頭の中に溜め込んだ沢山の情景や人物、心情や世界を吐き出すことで評価されるというのは、最高にコストパフォーマンスの良い自己肯定だった。面白かった、と言われるのは、僕の中で、正解だね、と頭を撫でられるのと同義だった。僕はずっと、正解したくて文章を書いている。
だから、この前だってそうしたのだ。
数日前、僕は件のネット小説でとあるヒロインを退場させた。ここ最近の展開が冗長だと感じていたからだ。裕福な街に停留していた主人公たちは、突然、ダンジョンの奥深くにしか居ないであろう大きなミノタウロスに襲われる。急襲によって傷を負った主人公を守るために、果敢な彼女は自分一人では到底かなわないだろうそいつに立ち向かう。彼女は去り際にすら笑顔で主人公に手を振り、祖母からもらったという自分の宝物の大剣を煌かせ、怪物へと駆けていく。
僕の中では納得のいく展開だった。腹を裂かれ、腕をもがれようとも彼女は、主人公を、そして彼が愛した町を守るために、怪物をたった一人で倒したのだ。倒れ臥すミノタウロスの死体のそばに横たわった彼女──魔王をすら打ち倒した偉大なる英雄の右腕──は、誰にも見届けられることなく静かに息を引き取る。彼にはついぞ見せることのなかった涙を一筋だけ浮かべて。
異形の怪物を出すことで新たな敵の気配を予感させた。大胆なアクションシーンと、細かな心情描写の対比もうまく書けた。数ヶ月内の更新の中では一番の自信作だった。
しかし、投稿から数時間もたたないうちに僕に寄せられたのは、いくつかのアンチコメントだった。死んだヒロインが、僕のシリーズの中で一番人気が高いキャラクターだったからだ。
『空気読めないの?』『やっぱ主人公はゴミ』『ユウナは俺の嫁だってのに』
恐ろしいことに、それらのコメントを送りつけたのは、いつも僕の小説に好意的なメッセージをくれる人たちだった。作者という一人の人間を愉快なコンテンツ製造機としか見ていない無邪気な観衆の、あまりに残酷な手のひら返し! ショックを受けるなと言う方が無理な話だ。僕は迷った挙句、その話を削除した。ここ何月かで一番の力作は、まるで退屈な日常パートにすり替わった。ミノタウロスも、ヒロインの涙も出てこない、平和で退屈な話。
驚いたことに、その新しい話にはいつも通り、僕の国の優しい住人のコメントが付いていた。さっきの話はまるでなかったことにされ、僕の失態も消し去られた。
プライドがぶち折られて涙が止まらなかった。でも、それ以外に方法がなかった。だって僕は、『正解』するために書いている。自分の感覚が世間でも受け入れてもらえることを確認するために小説を綴っている。どれだけ退屈でも、面白ければ正解なのだ。それはつまり、面白くなかったら不正解だ、ということだ。
しかし彼女はどうだろう。
僕は全面色の揃った立方体から、真剣な顔で課題をしている一ノ瀬に視線を移す。ルービックキューブはすぐに揃えられたけれど、これがやるべきこととは思えなかった。
彼女の小説は全く上手くない。僕なら二秒で筆を折るレベルだ。それなのに、不正解なのに、彼女は自分の世界を描き続ける。そのバイタリティが不思議だった。彼女の中には何があるんだろう。何がそんなに、一ノ瀬蛍の筆を掻き立てるのだろう。
いつもの喧騒が嘘みたいな、間延びした夕方だった。だからかもしれない。いや、きっとそうに違いない。僕は、ずっと心のどこかで気になっていながら、その度に蓋をしていた質問をぽろりと口から零してしまった。
「一ノ瀬さん、どうして小説書いてるの?」
彼女はドリルを凝視したまま、こちらを見ようともせずに即答する。
「え、加瀬くんが書けっていうから」
「いやそうじゃなくて。確かにそれはそうなんだけども」
なんで小説書こうと思ったの、と聞くと彼女はノートから顔を上げ、おもむろに考え始めた。
「うーん……わかんない!」
彼女は数分悩んだ挙句、華やかにそう言った。いっそ殴りたくなるほどきっぱりとした口調だった。
その瞬間、自分の中に、暴力的なほどの思いが浮かんだ。
見事なぐらい、一次選考でぶち落ちればいいのに、という思いだ。才能がないくせに愚直に書き続ける姿が見苦しい。能力が低いくせに自分を諦めていない姿が無様で、真摯で、苛々する。彼女が現実に打ちのめされる姿を見たら、どれだけスッとするか。
彼女が優勝すればいいのに、と思った。
自分が目をつけた相手が評価された、というのは編集者にとって必要な実力だし。
……嘘だ。もし彼女が優勝したら、彼女に戦いを挑まない自分に美しく言い訳できると思ったからだ。もし、カエル同士のトーナメント戦だったら、勝ちぬいて井戸の外の敵に挑んでみようと思うかもしれないが、もし初戦の相手がヒグマだったら立ち向かうことすら諦めて、尻尾を巻いて逃げても仕方がない、と思えそうだからだ。
結局のところ、僕は彼女をダッチワイフにして惨めな自分を正当化しているだけだ。そんなことは分かっている。でも、汚れなき瞳でその事実を突きつけてくる彼女が、大嫌いだと思った。
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