砂の涙ー24

 イーゼル、キャンバス、油絵の具、パレット、絵筆・・それらの道具は、画家にとって表現のための武器だった。

 初めのうちは訪問着のまま描いていたが、集中するにつれ汚れてもいいラフな恰好で絵筆を振るうようになった。床にはブルーのシートを敷いた。ところが美海は、そのシートを緋色の絨毯に変えた。

「汚れてもいいの? 」と訊くと

「絵の具の海にしてもいいわよ」と微笑した。

「でも、その前に・・

 来て」

 彼女はそう言って絨毯に身を横たえた。

 彼がその脇に寄り添うと、そこは二人の愛のベッドになった。

 繋がり、汗がこぼれ、喜びがあふれた。ジーンと痺れるような余韻の中で令嬢はささやいた。

「さあ、私を描いて。貴方のキャンバスに」

 画家は身なりを整え、絵筆を握った。それはアーティストにとっての剣だった。絵の中に永遠の愛を刻むための。

 彼は我を忘れて描いた。一瞬の今が永遠となるように。


 足早に時が過ぎ、秋の実りの中で四枚の絵が完成した。最初の肖像画の制作スピードを考えれば驚異的な早さだった。命の完全燃焼が異常な集中力を生んでいた。残りはもう一枚だった。

 アルファは美海の裸体を描きたかった。それは自然が創造したもっとも美しい造形だった。しかし、問題が生ずるのが明らかなので慎んだ。裸体は彼の腕の中にあった。それに衣装を着せて描けばよかった。

 秘密の花園からは、美しい姿の鳥が次々と誕生した。真紅のコスチュームの美海は喜びに溢れ火の鳥のように空へ飛び立とうとしていた。漆黒のドレスの美海は宇宙と星空を暗示するように妖しくほのかに輝いていた。水色の薄絹をまとった美海は愛の喜びにせつなく震えていた。浅黄色のセーターを着た美海はくつろいで嬉しそうに微笑んでいた。ただ、純白の衣装を纏った美海だけは完成しなかった。静かにたたずむ麗人の孤独を描こうとしたからである。

 その絵は初めの肖像画を描いた時のように二人の距離が必要だった。『あなたにもわからないでしょう』と語りかけているような王者の孤独。異様な悲哀をこらえて毅然と立つ心と身体。侵し難い気品。古代の女王のような神秘の力。

 アルファは怖かった。その絵が完成されてしまうのが・・。知ってはならない秘密の扉を開けてしまいそうで。

 以前に描いた肖像画は美海の好んだブラックを基調に描いたが、その顔も手も黒い衣装に隠れた心も身体も麗しい天使だった。今回は天使にお似合いの純白の衣装を纏っているにもかかわらず、その孤独を描こうとするとその姿は天使にはならなかった。美しいが、何か魔的なものがあった。怖くなるような美しさ。美とはとても怖いものなのかもしれない。もっとも怖いものとは美しいものなのかもしれない。歴史上には美女が国を傾ける史実もある。彼女には何か人を狂わせてしまうようなものがあった。だから惹かれたのだ。そのような相手でなければ恋の火花は発生しない。自分を一気に呑みほしてしまうような魔力。自分をはるかに凌駕するものに人は跪拝する。それによって呑み込まれたものの孤独は消える。しかし、凌駕したものの孤独は深まる。永遠に癒されることはない。砂の涙とは永遠に続く悲しみの比喩なのか?

 考えるまい。ただ全身全霊で感じよう。愛したことが罪ならば進んでその十字架を背負うまで。アルファは美海を凌駕しようとした。彼女の持つ深い孤独が永遠に消え去るように。


 師走の下旬、最後の絵が完成した。

 それは令嬢のすべてを映しだしたように毅然と立っていた。美しいがそれだけではない。深い孤独をにじませながら不敵に微笑している。宇宙の底から湧きあがるような暗いエネルギーが胸に迫った。梨咲の瞳はなかった。天使の面影もなかった。ただ、そこには美海がいた。

 絵の完成に女は狂喜した。それはまさしく自分自身だった。彼女はアルファに心から愛されていると確信した。

「ありがとう。あなたの愛をからだじゅうに感じるわ」

 美海は喜びを胸に最高の秘密を打ち明けた。

 アルファの手を取り、自分の腹部にあてた。

「ほら、生きているでしょう? 」

 小さな生命の鼓動を感じた。

「僕たちの子ども? 」

「ええ」

 愛の果実を得た。それは絵の完成より嬉しいことだった。

 美海を優しく抱きしめた。

『もうずっと離れない』

 彼の腕は無言でそう語っていた。

 結婚式の挙げられない秘密の恋だったが、アルファは彼女にプラチナの指輪を贈った。そして美海も彼にプラチナの指輪を贈った。

 恋が成就した。

 折しも冬の稲妻が走り、雨が窓を激しく叩いていた。

 時計の針が十二時を差し、目覚めの時を告げた。

 その時美海にはすべての記憶が甦った。自分が悪魔であることが・・。

 女は冷静になった。恋人は無邪気に懐妊を喜んでいた。

『可愛い人。

 もう少しだけこの幸福を続けましょう』


 雨はやんで陽が射していた。美海はアルファを動物園に誘った。屋外での初めてのデートだった。彼女は最後に描かれた絵と同じ純白のドレスを着ていた。有頂天のあまり悪魔は判断を誤ったのである。

 二人は最高の恋人同士だった。美海は陽気に檻の前で動物の真似をした。フラミンゴ、モンキー、豹、白熊、キリン・・その姿があまりに綺麗で面白いのでアルファは笑顔で見惚れていた。さすがに体型が違いすぎてカバの真似だけはできなかったので、彼が代わりに真似ると彼女は腹を抱えて笑った。

 周囲の観客は美しいカップルの振る舞いに好奇の視線を送ったが、二人は平気だった。若い男は美しい女を命に代えても守らなければならないと思った。子どもができた今、三倉大蔵という高い壁をも乗り越えなければならなかった。それができなければ打ち砕かれるまでだった。

 その時思いもかけぬ人物と出会った。画家の白石透だった。彼は頭にニット帽を被り寒そうに紺の外套に手を入れて歩いていた。

 アルファは彼を呼び止め、笑顔で美海を紹介した。

「こちらは三倉家のお嬢さん。招かれて絵を描いている」

 そして彼を紹介した。

「白石透さん」

「お名前は伺っております。お会いできて光栄です」

 美海と白石との視線が合った。

 目の前に雷が落ちたようだった。

 彼は毛を逆立て身体を震わせてアルファの手を取った。ムンクの描いた『叫び』のような表情だった。

「アルああああ、

 あぶあああ。

 か、か、かのああ、

 悪ああ」

 白石は必死で何かを伝えようとしていたが、どもりがひどく聴き取れなかった。

顔面が蒼白だった。美海には彼の言おうとしている内容が理解できた。

ニコリとして

「あなた、天才ね」と言うなり、つんと横を向き

「行きましょう」と恋人の腕を引いて歩き出した。

 彼は戸惑いながら、

「じゃ、またね」と白石に手を振った。


 帰り道、アルファは寒いからだを温めるように鯛焼きを買って美海に渡した。ベンチに座って二人で食べた。彼女は何か考え事をしているようだったが、彼のささやかなプレゼントに笑みを浮かべた。

「おいしい」そう言いながら、決然と天を仰いだ。

 翌日、下宿屋大楽に激震が走った。

 覚が血相を変えてアルファの部屋に来た。

「白石さんが死んだ! 」

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