砂の涙ー23
アルファは美海を抱いている時、まるで宇宙を抱いているように思った。きっとこのような愛の営みから宇宙も誕生したのだろう。愛情と欲望とが一つに溶け合って喜びの音楽を奏でていた。
ただ、将来に不安はあった。この恋の行方はどうなるのだろうか? それを考えると心は揺れた。三倉家の令嬢はあまりに深く彼の人生に侵入していた。もはや彼女がいない世界は考えられなかった。別れが恐ろしかった。だから、この今に命を燃焼させた。決して後悔はしないようにと。
若い男は美しい女に生の喜びを極限まで感じさせようと努めた。それが、彼女が自分に与えてくれた愛への返礼だった。彼女もまた彼との恋を成就させるため、すべてを投げ出した。そこには狂おしい涙があり、したたる汗があり、燃えたぎる血があった。原始の生命の営みがあった。
二人は激しく求め合いながら行為のあとに頬を濡らした。愛し合って一つになる喜びと、愛し合っても一つになれない悲しみと、それらが入り混じったような涙だった。二人はそれぞれの涙を口に含んで微笑した。
「愛しているよ」
「愛しているわ」
二人はお互いが鏡になったように声を交わした。
アルファの愛は真っ直ぐだった。美海の愛も真っ直ぐだった。星がキラキラと辺りにこぼれ落ちるような営みは幾度も幾度も繰り返された。そのたびに訪れる喜びは回を重ねるほどに強くなった。
二人は傷つくことを恐れなかった。血の花びらが舞ったとしても壊れないほどに強く身も心も結ばれた。二本の紐は美しい水引模様を描いた。様々な形の行為があった。そのたびに異なる模様は、彼らの恋が描いた時の芸術だった。いかなる刃でもそれを断つのが難しいほどに固く結ばれた絆。それを日々強めるのが二人に与えられた日課だった。
画家がキャンパスを飛び越えてモデルを愛してしまったならば、それは作家としての堕落だろうか? アルファは画家の魂を忘れたわけではなかった。彼は愛の行為の合間に複数の絵を同時進行的に描いていた。一枚のキャンバスに美海を収めるのは困難だった。彼女を多面的に様々の角度とポーズから書いた。イカロスの翼が羽ばたいていた。太陽に焼かれ地上に落下してもかまわない。アルファは美海という生命の太陽を熱く描き続けた。美しい女は彼の熱い視線にキラキラと輝く星のように応えた。
愛の格闘があった。どちらの愛が強いのか、その勝負にはどちらも負けるわけにはいかなかった。負ければ相手を悲しませるからである。もっと高く、もっと高く、どこまでも高く。その欲望は尽きることはなかった。
彼女の髪、瞳、唇、うなじ、乳房、腕、手首、指、爪、背中、腰、腹、ふともも、ふくらはぎ、足首、かかと、爪先・・すべてが愛の芸術だった。触れるたびに反応する心とからだ。息遣い、声、熱、香り、味、生きている、肌から染みてくる命の鼓動、死を越えた陶酔、忘我の境。体内に送り込まれる精気、体内から溢れ出す生気。興奮、動悸、歓喜の爆発、愛の波動、宇宙の誕生、生命の産声・・それは古より繰り返される自然の秘め事だった。
花火大会の季節は過ぎていた。
その日は珍しく二人は別邸の二階にいた。そこからは東京の街並みが樹木の間から垣間見えた。
画業の合間の休憩だった。アルファは白いポロシャツのボタンを外し、くつろいでいた。美海は青いドレスを纏ってやすらいでいた。
彼はバックからウ井スキーを取り出し、令嬢に思い出を語った。
「昔、煙突のてっぺんで花火を見物したことがあった」
「煙突のてっぺんで? 」
「満天の星空が間近にひろがって奇麗だった。花火も奇麗だったよ」
「どうして煙突に登ったの? 」
「屋根の上で花火を見物していたら山に隠れて大輪が半円しか見えない。だから、もっと高いところと思って見渡したら、ガラス工場の煙突が目に入った。煙突は黒い煙を吐いていた。でも一本だけ、焼却用の煙突は煙を吐いていなかった」
「それで・・」
「従業員の目を盗んで頭陀袋を担いで登った。風が吹いているのに鉄梯子が錆びていてひやひやした」
美海は驚いた様子もなく「いいわね。わたしも登ってみたかった」と言った。
アルファは呆れた。
「落下したら死んじゃうよ。高さは三十m以上ある」
「あなたは登ったのでしょ? それなら、わたしも登りたい」
「ご令嬢がいう言葉じゃないよ。君がいっしょなら僕は登らなかった」
それを聴くと「そしたら、わたしが登ったでしょうね。あなたが後からついてくるように」と笑った。美海なら本当にやりかねなかった。
「君には負けるよ」
グラスに氷を入れウヰスキーをそそぎ、まなざしを交わしてカチンとグラスを鳴らした。男は一気に飲み干した。
「そのとき煙突のてっぺんでウヰスキーを飲んだ。どこかにいるであろうもう一人の誰かに乾杯して。でも、そんな馬鹿なやつはどこにもいないと半分あきらめていた」
「わたしは馬鹿なやつ? 」
「そうさ。ここは煙突のてっぺんだ。僕は花火を見ている。星空が間近に迫っている。そこで奇跡が起きた。僕の願いがかなって美しい星が天から降りて来た。そしていっしょに座っている。
僕がどれだけうれしいか、わかるかい? 」
パートナーがいることの喜びは、誰にとっても本質の喜びだった。
「あなたは独りじゃない。
独りじゃないわ」
美海はウヰスキーを口に含み、キスをしてそれを彼にそそぎ込んだ。これほどの美酒はなかった。彼も真似をしてアルコールを彼女の口へそそぎ込んだ。唇から酒が数滴こぼれ落ちて青いドレスに染みた。
「あなたは来てくれた。わたしのもとへ。恐れずに飛びこんで来てくれた。
ここは煙突のてっぺんより恐ろしいところよ。欲望が渦巻いて、雁字搦めで、人に隙は見せられない。人が望むものは何でもある。でも、愛だけはない」
「愛がない? 」
「母は亡くなった。父は仕事、仕事、仕事、仕事。
人は沢山集まってくる。でも、三倉家の娘だというだけで誰もほんとうに心を開いてはくれない。作り笑いや、お世辞や、嫉妬や、羨望や、好奇の目。わたしはだれよりも幸せ、でもだれよりも不幸なの」
アルファは美海の孤独が自分よりはるかに深いものだと感じた。
彼女の渇愛は、戦場にいる兵士を思わせた。人類が誕生して以来、繰り広げられて来た戦いの歴史。暴力、剣のキラめき、銃の火煙、大砲の炸裂、そして原子爆弾の光‥‥恐ろしい虚無への情熱。
人々の嘆き悲しむ姿。女・子どもの死。差別、偏見、貧困。飢え、難民、誘拐、火災、テロ、戦争、事故、災害・・それらはいまだに地上にある現実である。それを考えれば、煙突のてっぺんなど危険のうちには入らない。単なる愚か者の所業だ。アルファには分かっていた。とるに足らない狂気の自己主張だと。
しかし、彼は時代の虚無を日本国民と共有していた。戦争に負け、価値観を百八十度転換され、ひたすら経済活動に明け暮れた日本。焼け野原から立ち上がり世界第二の経済大国を実現した。しかし、何か、何か、足りないのである。
魂がさすらっていた。淋しい。不満だ。苦しい。退屈だ。
彼は美海にも同じ魂を見た。コミュニケーションの断絶がもたらす深淵、そこに投げ入れられた魂の孤独。
アルファはつぶやいた。
「だれも君の孤独をわかってくれない」
美海は立ち上がって彼を見つめた。
「あなたにはわかる? 」
その瞳は悲しげに『あなたにもわからないでしょう』と語っていた。アルファには覚や拳士郎がいた。優希や白石や下宿屋大楽の住民達がいた。妹夫婦もいた。そして何より梨咲がいた。美海には奈美がいたが、彼女は従者のようだった。母はなく、父は仕事人間だった。その外には対等な者はなく、すべてが家来のようだった。それは他人には理解できない王者のような絶対孤独だったのかもしれない。
令嬢は告白した。
「この世でいちばん悲しいもの・・それは砂の涙よ」
あまりに詩的な言葉だった。砂が涙など流すはずがない。不毛な言葉遊びか。でも、イメージとしては心に響いた。どうしようもなく満たされない想い。乾いた悲しみ。水晶のように透明で、無機質で、冷たい。死の先にある空虚からしたたるしずく。陽に焼かれ、風に吹かれ、波に洗われて細かく砕けたものの悲哀。いや、それでも何か言い足りない。何か究極の悲しみの涙だ。それを安易に分かるとは言いたくなかった。
アルファは微笑んだ。
「僕にもわからない。でも、僕は君の味方だよ」
美海は肩の力を抜いたように
「正直な人。あなただけは好きよ」と身を寄せてきた。
「わたしを愛して。もっと、もっと。愛が夏の陽射しよりもまぶしく輝くように! 」
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