砂の涙ー22

 アルファは昨夜の情事について覚には何も話さなかった。事が大きすぎた。彼にも悪い結果は予測できた。しかし、動き出してしまった。もうどうにも止めることはできなかった。

 覚に舞踏会について訊かれた時、「アフリカのジャングルのようだった」と語った。意味ありげに「丹頂鶴もいたけどね」と付け加えた。

 その後アルファは、友人達と距離を置くようになった。美海と密会を重ねるためだった。三倉家の別邸がその舞台となった。肖像画を懸命に描いたアトリエは二人の愛の巣となった。

 三倉家訪問の理由は美海の絵を描くことだった。複数の絵を同時に描いていた。さまざまの切り口から見た麗しい女の姿だった。奈美や詩乃がいるときはしっかりと絵筆を握っていた。しかし、誰もいない時は、その腕で美海を抱いた。漆黒のソファが折りたたみ式になっていて、背もたれを外すとそこが二人のベッドになった。美しい二人は明るい陽射しの中でも平気だった。彼は女を抱きながら、彼女の人生を狂わせてしまうことに罪悪を感じないわけではなかった。結婚もせずに結ばれることは社会通念への反逆だった。ましてや富豪の令嬢ともなればその影響は計り知れなかった。俺は美海を幸せにできるのだろうか? 確信を持ってできるとは言えなかった。でも、命を賭けて愛することはできた。もしも美海が望まなければ、彼女の前から姿を消しただろう。しかし、相思相愛だった。二人の愛のバイブレーションが一つに結ばれて増幅していた。一旦矢が放たれれば、それはどこまでも真っ直ぐに進んで行かざるを得ない。障害は幾つもあった。それを突き抜けてどこまで進めるか、愛が試されていた。

 二人の関係は不思議と露見しなかった。多忙な三倉大蔵が別邸を訪れることは滅多になかった。一度アルファが描いた肖像画を見に来て「すばらしい! 」と絶賛していたと美海が言っていた。奈美は二人の関係を疑っているようだったがあっけらかんとしていた。友人ではあるが力関係が家来のようだったので、彼女の口から令嬢に不利益な情報が外部に漏れることはなかった。詩乃は二人を世間から護る監視人だった。口にはしないが二人の関係を知っているようで、別邸に二人がいる時は外部からの出入りを一切遮断した。誰かが来るとサンダーが吠えた。三倉家の別邸は詩乃とサンダーに護られた秘密の花園だった。園芸業者が庭の手入れに訪れることがあったが、その日はアルファの休日だった。


 覚はアルファが三倉邸を訪れるのを仕事であると信じていた。梨咲を失った悲しみから立ち直るためにも仕事に夢中になるのはよいことだった。妖怪たちとの戦いのあと、周りに異常な変化は見られなかった。妖怪たちが語った『女王様』が何者かを考え続けていたが、分からなかった。X先生殺害事件の真相は闇に包まれたままだった。ただ、これですべてが終わるとは思えなかった。彼は次なる戦いに備え、ペンを竹刀に切り替えた。

 拳士郎は、周りにあった妙な気配が消えたのを不思議に思っていた。ポチがそんなに怖かったのだろうか? :あれだけ倒しても、倒しても、起き上がって来た妖怪達が、ポチの一声で参ってしまった。解せなかった。いずれもっと大きな事件が起こるのだろう。それに備えて日夜心身の鍛錬に励んでいた。

 愛結子は拳士郎が仕事を終えてから夜遅くまで道場で特訓を重ねているので、身体を壊しやしないかと心配していた。そこで甚平に頼んで休日を増やしてもらおうと思ったが、一人では心細かったので優希に同行を願った。

 優希は友人の頼みとあっては断れず、マスターがひとりで料理場にいるときを狙って作戦を開始した。

「おじさん。お願いがあるの。きいてくれる? 」

 セーラー服をきた可愛い女の子が猫なで声で手を合わせるので、

「何だい? 給料の前借かい? 」と訊くと、

「違うの。一生のお願いなの」と言う。

 そのセリフは前にも聞いたことがあったが、今度はとなりに愛結子もいた。

「きょうは何のお願いだい? 」と微笑んで問い返すと

 こっそり耳打ちをするように

「拳士郎さんの仕事を減らしてほしいの」と頼んだ。

 甚平は眉毛を吊り上げ、

「それは駄目よ。料理の仕事はそんなに甘いもんじゃない」

 にべもなかった。

 優希は『これは手強い』と思った。そこですべてを正直に話すことにした。

「実は、これは愛結子の願いなの」

「愛結子ちゃんの? 」

 隣にいた友人が頷いた。

 優希は愛結子の代わりに語った。

「そう。拳士郎さんは、ここの仕事を終えたあと、夜遅くまで武道の練習をしている。事情はよくわからないけど夢中になっている。それを愛結子が見ていて、からだを壊さないかと心配しているの」

 拳士郎は仕事中にはそのような様子は見せなかった。でも、たしかに最近は少し疲れているようにも思えた。それで、甚平が声を掛けると、いつも『大丈夫です』と言って取り合わなかった。そうだったのかと思った。

「だから、おじさんには、拳士郎さんには知られないように、こっそり休日を増やしてほしいの」

 虫のいい話だった。

「本人から頼まれたわけでもないのに、かってにお前は休めっていうのかい? 」

「そう」

「そんなバカな話が・・」と言いかけると

 優希は主人をにらみつけた。

「たいせつな調理人がからだを壊してもいいのですか? 病気で倒れてもいいのですか? それで、可憐な乙女が嘆き悲しんでもいいのですか? 」

 主人が返答に困っていると、

「それが原因で大龍をやめることになってもいいのですか? そんなことをしていると、優秀な調理人を大河道場にとられちゃいますよ」と畳みかけた。

甚平はその気迫に押された。

 優希は手を合わせ

「一生のお願い! 拳士郎さんにはないしょで休みを増やしてください。拳士郎さんはここを辞めたくないのです。おじさんが好きなのです」

 それが殺し文句だった。

「まいったなあ。優希ちゃんにはかなわねえや。いったいいつ頃までの話だい? 」

 愛結子が「特訓が終わるまで」と告げると

「ま、少しの間だけだよ」と譲歩した。

 優希は「さすが、おじさん。心がおおきい」とガッツポーズを取った。

 甚平は苦笑い。

「でも、拳士郎は、どうしてそんなに夢中で練習しているんだい?

 大事な試合でもあるのかい? 」

 愛結子は優希には拳士郎達と妖怪達との戦闘事件については何も話さなかった。友人として彼女を危険な目に遭わせるわけにはいかなかった。今回の件も、優希には『理由は訊かないで』と条件をつけて頼んだ。

 何と言おうかと迷っていると、なぜか優希が

「それは‥‥

 男のロマンです」と答えた。

 この一言は昔気質の甚平には意外に効果があった。

「ふふ~ん。男のロマンね。

 ま、今回だけは協力するよ。優希ちゃんや愛結子ちゃんに恨まれたくないからね」

 優希「おじさん。大好き! ありがとう! 」

 愛結子「本当にありがとうございます」

 これで成功。めでたし、めでたし。


 甚平から突然新しい勤務表を渡された拳士郎は、休日を多いのを見て「もっと働かせてください」と頼んだが、

「黙って俺のいう事をきけ。男のロマンだ」と申し渡されたので、若者は『戦いに備えよ』と神のお告げを聴かされたように思った。


 愛結子はこのように陰から拳士郎を支えていた。そして自分もこれまで以上に鍛錬を重ねた。目に見えない敵から彼らを守るために。

 優希はアルファが三倉邸を訪れているのを知っていたが、それを止める力のない自分を情けなく思っていた。彼女の脳裏には梨咲の葬儀でみた美海の姿が焼き付いていた。ほんの一瞬見ただけで、育ちも、能力も、美貌も、何もかも敵わないと思った。そう認めるのは辛かった。常識的な優希は、アルファと美海とは身分が違うので恋に落ちるとは思わなかったが、彼にはもっと自分のそばにいてほしかった。令嬢の肖像ではなく、自分を描いて欲しかった。出来たのは歌の練習だけだった。来年になれば高校も卒業する。優希はスターになって彼を虜にしてやると決心していた。

 覚は大学が卒業できるかどうか心配だったが、今はプラトンよりも王陽明だった。知行合一、実践あるのみ。剣道の練習の合間に妖怪に効く呪文の研究もした。できるかぎり戦いの準備をした。

 拳士郎は妖怪と戦う方法を考えていた。ポチの小屋へ行きその鳴き声をいくども真似たが、声帯模写は下手だった。それがうまくなっても、それで奴らを倒せるとは思えなかった。彼は犬真似はやめて、ひたすら秘剣の開発に挑んだ。

 アルファは空手の練習には熱心ではなかった。妖怪達との戦いが始まった時には当たって砕けるしかないと覚悟していた。梨咲は死に、美海とは恋に落ちた。友人達にはすまないと思っていた。それだけに令嬢との恋は真剣なものとなった。


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