砂の涙ー21 

 高台にある三倉邸の一郭からは街の灯が一望できた。星の光と街の光とがキラキラと入り乱れて、夢の世界に入り込んだような錯覚を覚えた。心なしか暗い木立も淡い光を放っていた。

「奇麗ね」

「ワンダーランドだ」

 数秒の沈黙があった。なんて満ち足りた時間と空間だろう。アルファはこんな世界を見せてくれた美海への感謝の気持ちでいっぱいだった。

 彼女は真っ直ぐに彼を見て、

「すばらしいステップだったわ」と褒めた。

 若い男は「君のものまねさ。おかげで明日は筋肉痛かもしれない」と笑った。

「踊りは好きだけど、ああいう場所は苦手なの」

 自分が云おうとした言葉を先取りされて

「ほんとう? 君が一番輝いていたよ」と言うと、

 はにかんで「あなたとこうしている方がいいわ」と言った。

 彼が返答に詰まっていると、

「肖像画を描いてもらっているとき、とても楽しかった。心が通い合って一つになったようで」

 若い女性の告白により会話が音楽のように流れ出した。

「僕も楽しかった。世界でもっとも美しい鳥を描いているようだった」

「わたしは鳥? 」

「丹頂鶴かな。翼を広げると三mくらいになる。しなやかで、優美で、頭のてっぺんが赤い」

「赤い? 」

「だって、僕のつぶやきにあんな風に応える人なんて初めてだよ。情熱的で頭がよい」

「だから赤」

 令嬢は笑った。

「でも、あなたは知っているのかしら? わたしは絵の中にいるような天使じゃないわ」

 そう言って視線を落とした。

「それじゃ悪魔? 」

 冗談めかしてそう言うと

「そうかもしれない」と真面目に答えたので、

 彼はさりげなく「それでもいいよ。美海さんは美海さんだ。天使であろうが悪魔であろうが美海さんだ」と受け流した。

 女は不満そうに

「美海と呼んでほしいな」と要求した。

 男は「三倉家のご令嬢を呼び捨てにはできないよ」と却下した。

 彼女は驚いたように

「え? あなたはそのようなことを気にする人の? わたしをここから救ってくれる人だと思っていたのに」と言った。

「君を救う? 」と反問すると

 令嬢は「退屈な毎日。ひとりぼっちの日々」とつぶやいた。

「こんなに何もかも恵まれているのに? 」

 彼女はとても不満そうに戦いの真似をした。

「時の虐殺。それがもし可能なら、

 それだけで、地獄よりもいっそう地獄的な幻想がわたしをとらえる。

 同一の単調音。

 それさえも消えた白々とした明るさ!」

 アルファは驚いた。

「君は詩人だね。才知、美貌、名誉、富、人が欲しがるものを全部持っている」

 美海は神妙にそれを否定した。

「でも、一つだけないものがあるの」

 彼がわからないという表情で「それは? 」と訊ねると

 彼の耳元に顔を寄せて「こ・い・び・と」とささやいた。

「求婚する青年なら山ほどいるでしょう? 」

「だめ。好きになれないの」

「なぜ? 」

「わからない? 」

 美海は彼を指差すと

「それは、あなたと出会ったから」

 令嬢は恥じらうようにターンして身を引いた。そして、ミュージカル女優のようにウェストサイド物語の『トゥナイト』を歌った。英語の発音も歌声も心にとろけるようだった。まるで映画のワンシーンにいるようだった。

 歌い終わると美海は、アルファに近づいてその手を取った。しかし、彼には躊躇いがあった。それを感じた彼女は静かに手を放して

「梨咲ちゃん、かわいそうね」と言った。

 急にそんなことを言われて、彼は自分がすっかり少女のことを忘れていたことに気づいた。

「俺は薄情な男だ。梨咲のことをすっかり忘れていた」

 その一言が女の心に刺さった。

「梨咲ちゃんのことは梨咲と呼ぶのね」

 若い女は空を見上げてそう言うと、意を決したように彼を見つめ、それから品をつくるように微笑した。

「梨咲ちゃんがあなたにあげられなかったものを、あなたにあげるわ。

 わたしを美海と呼んでくれたら」

 木陰に身を隠して甘い声で誘った。

「来て‥‥」

 目の前には目には見えない立入禁止の線が引かれていた。向こうには彼が求めるヴィーナスがいた。しかし、その線を越えることは転落を覚悟することだった。身を焦がすような恋がある。でも、それでまさしく身が焦がされてしまう。

「来て!

 飛び越えて来て! 」

 美海はアルファにイカロスの翼を求めた。太陽に焼かれて落下するイカロス。それでも勇者は空を飛んだ。俺はどうなのだ? 目には見えない背中の翼が震えた。

 彼女の声はせつなく響いた。

「あなたが来なければわたしの恋は死んでしまうわ。

 来て! わたしを助けて! 」

 彼は自分の心を抑えきれなくなった。

「美海‥‥」

 恋の火が稲妻のように光った。衝動のままに二人を隔てる境界を越えて抱きしめた。女のからだがあった。視線だけでは感じられない生命の熱が皮膚から伝わった。唇が触れた。イカロスの翼がはばたいた。何回もキスをした。首筋に顔をうずめると女の唇からは甘い吐息が洩れた。

 庭は静寂で、芙蓉の花が妖しく揺れていた。

 美海のからだからは、それまで隠していた心の牙が現われはじめた。禁断の恋が赤い花びらを咲かせていた。愛だけではない。魔性の口は彼の欲望をも丸ごと飲み込もうとしていた。彼の手を握り、自分の胸へと誘った。それはせつない恋の舞踏だった。

「ぜんぶ、ぜんぶ、愛して! 」

 女としては異常な行動だった。美海がアルファへ行ったのは好色な男が好色な女にするような行為だったからである。天に羽ばたこうとするイカロスの翼は傷つけられた。木陰に潜んでいた美しい獣に襲われて喉元を噛まれた鳥のようだった。妖魔の牙が肉に食い込み心に血がにじんだ。男は混乱した。女を愛していたからだった。せつなかった。自分の描いた肖像画の美海が傷ついて壊れていくようだった。これでも私を愛せるのと試されているようだった。

 女は彼の手首をつかんで捲りあげたドレスの中へ誘った。パンティがない! 素足だった。心が凍った。こんな状態で欲情するのは耐えられなかった。

 指が動かないのを感じて女は声を震わせた。

「お願い、わたし を愛して! 」

 ダダをこねる子どものようだった。男のプライドがどれだけズタズタに傷ついているのか分からないのか? これが本当に誇り高きヴィーナスなのか? でも、ここで行為を止めれば彼女は本当に壊れてしまいそうだった。

 美海は梨咲に嫉妬していた。アルファが描いた肖像画の自分に嫉妬していた。深くプライドが傷ついていた。梨咲を、肖像画の自分を、壊したかった。そしてありのままの自分を愛されたかった。そうでなければ愛されたことにはならなかった。自分のもっともはしたない部分を見せて、それをも愛して欲しかった。それが彼女の望んでいた恋だった。それは危険な賭けだった。彼が呆れて去ってしまうかもしれなかった。その時は後ろからナイフで突き刺してやろうと決めていた。その程度の愛ならば自分の恋心といっしょに墓場に沈めてやろう。その手で他の女を愛されるくらいなら殺してしまえ! 異常に歪んだ激しい恋だった。美海は興奮して待っていた。

『さあ、どちらかを選びなさい。生か? 死か? 』

 アルファには彼女の心が分からなかった。しかし、何かとても悲しいものを感じた。それは肉体の欲望以上に悲しいものだった。

 覚悟を決めた。

「君のすべてを愛していいのだね。本当にいいのだね」

 返事はなかった。

 行為は反転した。身も、心も、君がそれを望むなら、その闇までも愛してやろう。悪魔の魂がアルファに乗り移った。

 彼はもっと深い木陰へと美海を誘った。

「虫に刺されるかもしれないけど、かまわない? 」

 女は黙っていた。

 アルファは深紅のドレスをやさしく脱がせた。美しい女体が現れた。

「君にだけ恥ずかしい思いはさせないよ」

 自分も服を脱いだ。晩夏の夜風は肌寒かった。

 二人は生まれたままの姿で抱き合った。あたたかい。彼は禁断の木の実を食べる以前のアダムがイヴを愛するように女を抱いた。樹の幹にからだを押しつけ、唇に、首筋に、乳房にキスをした。熱い吐息がもれた。女体が美しい獣のように反応した。指の動きに合わせて「ああ、ああ」と嬌声が漏れる。その声に男の欲望が目覚めた。立ったまま二人は一つになった。アルファは美海に性の喜びを感じさせるために汗を流した。せつない行為は五分ほど続いたが、息を乱しながら動きが停止した。将来が心配だった。彼女を不幸にするのが怖かった。「やめないで。最後までして」その声に我を忘れた。「美海、愛しているよ」その声に女のからだが震えた。動悸が高まり、最後の一線を越え・・喜びの声が夜空の星に届くように上がり、二人は天に昇るかのようにからだを硬直させた。しばらくそのまま動くことができなかった。

 木陰に人影があった。詩乃だった。令嬢からだれも来ないよう見張りを命じられていたのである。「ウヒウヒ」と、ほくそ笑むその口元は本物の魔法使いだった。

 二人には愛の余韻を楽しむ時間が訪れた。

 キスをして微笑んだ。それからなぜか瞳が潤んだ。

「私を愛しているのね」

 今度はアルファが子どものようだった。彼女の首筋に顔をうずめた。

「可愛い人。

 これは部屋の鍵よ」

 ネックレスについた鍵を彼の首に掛けた。

「冒険しましょう」と誘った。

 二人は服を着て裏口から三倉邸に入った。ロビーを抜け、人目を避けて二階へと上がった。

「ここよ」

 鍵を開けると、そこは中東の宮殿のような部屋だった。

 美海はカーテンを閉めた。

 その時、トントンとドアをノックする音がした。

「お嬢様。旦那様がお呼びですよ」

「ごめんなさい。疲れているの。

 お父様には早めに休むと伝えておいて」

「左様でございますか。

 お伝えします」

 老婆はドアに耳をあて二人の気配を感じて、また「ウヒウヒ」とほくそ笑んだ。

部屋の灯りが消えた。


               ♡


 明け方、美海の導きで三倉邸を出た。

 アルファはネクタイを外し、河縁を歩いていた。転がっていた空き缶を蹴飛ばすと、缶はサッカーボールのように飛んで河に落ちた。今度の恋は、露見すれば踊り子のリンチではすまなかった。しかし、踏み出してしまった。後悔はなかった。あとは真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに愛するだけだった。

 彼は空を見上げて

「梨咲、ごめん」とつぶやいた。


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