砂の涙ー20
梨咲の肖像画を武居宅へと届けた日、アルファに一通の招待状が届いた。三倉美海からだった。三倉邸で舞踏会を開催するのでぜひ参加してほしいという。日時は梨咲の四十九日が明けた翌日だった。
美海とは梨咲の葬儀の日に見かけて目礼したきりだった。そのとき覚たちも彼女を見てたまげていた。葬儀の最中であるが、あでやかさが群を抜いていた。黒い喪服を纏っているのに美貌と物腰が妖艶でとてもこの世の人とは思えなかった。傾国とはこのような美女を言うのだろう。歴史上は存在していたと思われるが、現世には存在しない美人。クレオパトラか、楊貴妃か、小野小町か・・それは詩人の想像の中でしか会うことのできないような絶世の美女だった。でも、どこかに暗い陰があった。そこがまた魅力でもあるのだが、ちょっと怖いと思わせるようなところもあった。
拳士郎が思わず「美人だなあ」と感嘆した。
覚も「いや、麗人だよ」と称賛した。
となりにいた二人の女子高生はそれを聴いて男達をにらんだ。
拳士郎はその視線に気づくと慌てて
「でも、何か違うな。愛結の方がいい」と付け加えた。
覚も照れ隠しのように
「そうだな。優希ちゃんの方がかわいいな」と弁解した。
二人の女性は、「そりゃそうでしょうよ」と口をそろえた。でも、もっともショックを受けていたのは彼女達だった。ひと目で女としては敵わないと降参させられていた。
梨咲の葬儀場だったのでそれだけで事は済んでしまったが、美しい令嬢はそれぞれの心に強い印象を残した。
招待状を届けたのは奈美だった。
武居宅の門を出たところで通せん坊をされた。このような時はいつもミリタリールックだった。
「帰さない」と言ってにらむので、
アルファが「お茶に付き合えばいいのかい? 」と訊くと
「ものわかりがいいわね。つまらない」と笑った。
喫茶店に行くと招待状を渡された。
「梨咲を理由に断らないでね。美海さんは先生を励まそうとして三倉会頭にお願いしたの。VIPクラスじゃないと参加できない会なのよ」
アルファは美海と会いたかったが、紳士淑女の中で堅苦しい想いをするかと思うと行きたい気持ちが萎えた。
「そういうのは苦手なんだ」
「あらあら、ほんとうに臆病なのね。せっかくのチャンスなのだから堂々と自分を売り込みなさいよ。そんな弱気でどうするの。先生が日陰に埋もれているのを梨咲が喜ぶと思うの」
奈美の攻撃は鋭かった。
「ぐずぐずしているなら、わたしがお手手をつないで連れて行ってあげるわよ」
さすがにカチンときたが、何か嫌な予感がした。
そこにコーヒーが来た。少しの間ができた。喉をうるおし、セブンスターに火を点けて考えた。煙が空中に大気の模様を描いていた。
梨咲とはお互いの関係にバランスが取れていたが、美海とではよいバランスを保てそうになかった。彼は若い教え子を深く愛していたが、それはまさしく愛だった。花を愛するように少女を愛していた。
しかし、美海は危険な炎だった。その女に感ずるのは恋だった。しかし、その恋は初めから破綻していた。身分が違いすぎる。三倉家の令嬢は縁を持ってはいけない高嶺の花だった。これまでは梨咲への愛が画家の恋に理性のブレーキを掛けていたが、そのブレーキが外れてしまった今、彼女に接近するのは恋の炎に油を注ぎかねなかった。梨咲不在の虚無感をその女が満たしてしまったならば、火花が発生するだろう。それは彼が望んでいた人生だったが、あってはいけない人生だった。美海は天から舞い降りてきたヴィーナスだった。恋心に火が点けば、あとは夏の夜の花火のように空に昇って美しく散るばかりだった。
アルファは破滅を恐れるような男ではなかった。少女の教師としての役割を終えた今、失うものは何もなかった。覚や拳士郎に相談してみようか? でも、それも大人気ない。梨咲が心配して彼を止めているようにも思えたが、彼女を忘れることなどあり得なかった。大きな溜息をついた。心の中でカタンと何かが外れた。
「行くよ」
奈美は手を打って喜んだ。
「そうこなくちゃ。おもしろくなりそうだわ」
舞踏会の日、アルファは覚には行先を告げた。
一言、彼は「ママに心配はかけるなよ」と言った。
三倉邸には本館の横に鹿鳴館のようなホールがあった。そこがパーティ会場だった。
アルファは奈美が用意してくれた黒い紳士服を着て三倉邸を訪れた。そこで初めて美海の父、三倉大蔵(みつくらだいぞう)に会った。威厳があり、恰幅のいい初老の紳士だった。彼には社会を自分の手で動かしている自負と誇りとが感じられた。脇に真紅のドレスを纏った美海がいて笑顔で父を紹介した。大蔵は「ようこそ」と目礼し、前方にいた紳士と歓談を始めた。無名の画家など眼中にないといった様子だった。
そこには日本の舵取りをしている紳士淑女の面々がいた。政治家、官僚、経済人、学者、ジャーナリスト、テレビで見たことのある芸能人もいた。恐ろしい人脈だった。武居家の人々は梨咲のこともあり、奈美以外は出席を控えていた。
舞台のそでにいた楽団が絶え間なくワルツや映画音楽などを演奏していた。ダンス会場の脇には宴席が設けられ、極上の酒や料理が振る舞われていた。クリーム色のドレスを纏った奈美はアルファを席に案内した。
小声で「もっと堂々としていなさいよ」と注意した。
この場では、彼女の方が彼よりもずっと大人に見えた。美海と話したかったが、令嬢は接待役を担っていたのでなかなか彼らの前へは現れなかった。
音楽に合わせて踊っている人達がいた。グラスを片手に立ち話をしている人もいた。でも、だれもがその場の雰囲気を壊さないようにしていた。酔って大声で叫ぶ無礼者や、悪ふざけをするような破廉恥漢はいなかった。自由でありながら、どこか整然と皆が会の進行を楽しんでいるようだった。
和服の夫人もいたが、エレガントなドレスを着ている女性が多かった。明るいシャンデリアの下、上品な笑い声や、軽妙なトークがあちこちに飛び交っていた。
でも、アルファには、そこが猛獣の住むジャングルのように思われた。能ある鷹は爪を隠しているのである。その逆鱗に触れれば、たちまち爪牙の餌食となる。軽やかに冗談をまじえて情報交換や商談や密談もなされているのだろう。
彼は小声で
「ここはアフリカのジャングルのようだね」と呟いた。
奈美は吹き出して
「ここは妖怪のすみかなの」と耳打ちをした。
でも、それもまた表面のことだった。ここには立派な人達もいた。政治家や経済人が皆腹黒い人物だなどと考えるのは幼児の思考である。悪魔に身を売っているような人物もいないとは言えないが、神の摂理に従って繁栄を築いている人達もいた。才能や学歴ばかりではない。敬虔な信仰や、芸術文化への理解や、人を大事にするような心がなければ、社会で一定の評価をされることはない。
しかし、一方では弱肉強食も人間社会の現実だった。ここに集っているのはゆとりのある強者ばかりだった。敗北した者は去っていく。彼がアフリカのジャングルのようだと語ったのもあながち間違いではなかった。厳しい環境のもとで生き残るのは一握りの選民なのである。
アルファはあらためて自分の立ち位置を考えた。彼はここではもっとも弱い人間だった。ただ、失うものが何もないという意味ではもっとも強い人間だった。彼は社会での縛りがないもっとも自由な人間だった。もしかすると彼の中にも猛獣の牙があったのかもしれない。だから、そこに猛獣の牙を看守できたのである。
彼はもう一度三倉大蔵を見た。その時視線がぶつかった。無名のボクサーが世界チャンピオンに睨まれたようだった。身体が震えた。それは越えることのできない分厚い鋼鉄の壁だった。若者は目をそらした。
「三倉会頭と会うのははじめてなのね。やさしいおじ様よ」
奈美は事もなげに語った。
少し退屈した様子で「ねえ。踊りましょうよ」と誘った。
「失礼。ダンスはしたことがない」
「かまわないわよ。わたしに合わせて動けばいいの」
彼女はアルファの手を取ってダンス会場に入った。彼は周囲を見て素早くダンスの動きを学習した。しなやかで鋭い空手の型の動きがたおやかな舞踏の動きと融和した。ぎこちなかったが、すぐにキレのあるステップが修得できた。
「先生。ほんとにはじめてなの? うまいのは絵だけじゃなかったのね」
彼がダンスに楽しさを感じ始めた頃
「代わってくださらない」という女性がいた。
美海だった。
若い男はダメダメというポーズをしたが、令嬢は微笑して手を取った。
『美しき青きドナウ』の旋律が流れていた。希代のバレリーナは彼の動きをアドリブでカバーした。
しだいに二人の息は合い、周囲の耳目を惹いていった。自分たちの動きを止めて彼らを見つめるカップルも現れた。その動きに呼応するように周りの踊り手達はつぎつぎと観客に変わっていった。アルファは不思議な世界に誘い込まれた。周囲の人々の姿が視界から消え、美海と二人きりで踊っていた。肖像を描いていたときが脳裏をめぐり、彼女の動きに合わせて無意識に身体が動いた。彼の詩文に美海が応えたように、彼女の舞踏に若い男は応えていた。ワルツはドナウ河のさざ波を思わせるように、戦士に束の間の休息を与えるように、二人の愛を伝えるように舞い踊られた。彼の心に喜びが溢れた。
曲が終わり動きがやんだ時、美しい令嬢は感動していた。「ブラボー!」の掛け声に我に返ると、拍手の渦が巻き起こっていた。彼女は恥ずかしそうにその場を離れた。アルファはその時、背中に鋭い視線を感じた。三倉大蔵の視線だった。彼は振り返らなかった。奈美を見つけて席へと戻った。
「先生、踊ったことがないなんて嘘でしょ。
美海さんとあそこまで踊れるなんて、プロのダンサー並みよ」
若い画家は説明した。
「美海さんの肖像画を描いたとき、彼女が休憩の合間に見せてくれる踊りやポーズをよく見ていた。そして自分でもその動きを理解するために、一人のとき彼女の動きを何回も真似てみた。だから、彼女の動きに合わせて無意識で踊れたのだよ」
「へぇー、驚き。
天才だわ」と若い娘は舌を巻いた。
洋風の豪華な料理が並んでいた。ワインを飲み、ソテーを食べた。美味ではあったが、ゆっくりとディナーを楽しむ雰囲気ではなかった。舞踏会は続いていた。彼は奈美には先に帰ると伝え、人目を避けて庭に出た。
好奇の視線から解放された。深呼吸をして歩き出した。晩夏の風が大地の穢れを吹き払っていた。快い夜更けだった。
星明りの中、ベンチに座っている人影があった。
美海だった。
アルファはそっと近づいて
「サンダーはいないの? 」と訊いた。
彼女は微笑み
「繋いであるわ」と言った。
まるで彼が来るのを待っていたかのようだった。
「歩きましょう」
彼は誘われるままに歩き出した。
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