砂の涙ー17
妖怪たちとの戦いがあっても、アルファは美海を描く手をとめなかった。それもまた一つの勝負だった。冬から春にかけて絵は描かれた。雪が降り、雪が融けた。もっとも寒い時期、それは画家の至福の季節となった。
美海を見ているとき、目が見えていることの喜びを感じた。それはいかに真剣になっても見飽きることのない芸術だった。そのような対象物に初めて出会った。いや、美しい夕暮れや、満天の星座や、深紅の薔薇や、梨咲の瞳や、母の笑顔や、自然の幻想のなかでそれは見たことがあった。永遠の生命からこぼれ落ちる光のしずく。神話の世界に住むヴィーナスの誕生。原初の生命・聖母の記憶。血の花びらから生まれた奇跡。それは音楽であり、数理であり、偉大なる命のエネルギーが凝縮した妙なる造形だった。
画家の魂に火が点いた。この時ほど具象の力を信じたことはなかった。美海に想像力は不要だった。彼女をありのままに描写すればよかった。細部まで丹念に、写真のように・・しかし、写真を愛で越えなければならなかった。肌に血が通うように、神の微笑みが生まれるまでに。アルファはその絵におのれの理想を込めた。絵に永遠の命を宿そうとした。あえて優美なポーズはとらせなかった。モナリザのように真正面から上半身を描いた。そこから踊る彼女の全身が感じられなければならなかった。肖像画の王道であるが、それはもっとも難しい作業だった。
美海は画家の筆が止まると、椅子を離れ自由にステップを踏みさまざまのポーズを取った。そこには無言の会話があり、無音の音楽があった。心臓の鼓動が奏でる躍動があった。無料で一流の芸術を独り占めしている気分だった。彼に微笑みがもどると、彼女も微笑んでまた席についた。初めのうちは奈美も同席していたが、「先生が美海さんを描いているのをただ見ているだけなんてつまらない」と、あまり姿を見せなくなった。それは画家にとって幸運だった。美の女神と二人だけの空間をキャンバスに創造したかったからである。
アルファは令嬢と一つだけ約束をした。それは完成するまで決して絵を見ないことだった。彼女はその約束を守った。
三倉美海は美しいだけの女ではなかった。才気が溢れていた。画家はときどき長い沈黙をきらい、独り言のように空想の詩文をつぶやいた。バレリーナはその響きに反応し、時に言葉で、時にしぐさで、まなざしで、その答えを返した。
「さびしがり屋の影法師が、堤防に腰かけて海をながめていた。
その姿は、雲にやさしさを求めるようにうつろに黒く沈んでいた。
せつなくて両手で支えたい。春風のように抱きしめたい。しかし、抱きしめると壊れてしまいそうで、じっと見つめていることしかできなかった。
彼女は青空の影なのだ。では、彼女はどこにいるのか? 俺は勇気をふるってその肩にふれた。するとガラスで斬ったような痛みがはしり、影はどこかに消えてしまった。
そして俺の腕には、古傷だけが青痣のように残った」
若い女はその詩に応えた。
「荒野には
ただ独りの影が
枯れ木のようにくっきりと写し出されていた。
巡り会いを悲劇に変える美貌。抱くものをみな砂に変えてしまう鬼婆の腕。
青春の詩の亡霊は白いレースのカーテンを裳裾のように引きずりながら独り部屋をさまよっていた。
道連れがほしい。
君がほしいと、痩せた手を差しのべながら」
若い男は驚いた。
そこで
「汝の運命は 衣を捨てた身の
悪魔の爪牙に傷付き
胸奥よりぽたぽたと滴垂る鮮血を酌む 不思議にもうるわしき大器にて
その舞台は 命を賭した身の 飛翔する心の
完全なる生か! 完全なる死だ!」と語ると
さらりと
「すてきね。あなたに好かれた女は幸せ者だわ」と微笑み、挑発的な詩文を口ずさんだ。
「彼は紅い薔薇の花園だった。
貴い神秘の具現者であり、無数の点描の集積した光と影の世界だった。
わたしは彼から多くの神秘の啓示を受けた。そして差しのべた手を茨で幾度も傷つけられた。しかし、その美しさは、わたしに同じ過ちを繰り返させた」
自称詩人は笑った。
「言論の自由。少しの間、まともな話はしないことにしよう(笑)。
さすらいの旅人。彼には狂人との噂があった。天才は理解されないとき、そのように呼ばれたりもするが、彼は単に狂人であった。
そのような批評はしかし時に美辞麗句にもなる。例外者や別天地の代表者は、イエスもそうであるが、狂人扱いされるのが常だからである。彼はむろんキリストではない。夢遊病者という診断が適切である。
だが、ETが喜ばれるように狂人も時に人を喜ばす。彼は退屈で孤独な日常生活に風穴を開けるからである。その狂人を詩人といったり、芸術家といったりすることもある(笑)。
密室に穴を開ける掘削人。通気口は、部屋に酸素を供給する。自由の風は、メディアを通して世界を駆けめぐる。
しかし、真の表現者は、自由の怖さを知っている。
義人と罪人との間には、明瞭な区別があるわけではない。義人が罪をなすことも、罪人が義をなすことも有り得る。芸術家もまた同じである。そしてこれらの人びとが、常人の理解を超えているとき、精神病院の患者同様に風狂人と呼ばれる栄光に浴するのである」
美しいバレリーナはその物語を踊りで表現した。それがチャップリンの無声映画のように面白いので、彼も大笑いをした。二人は似た者同士だった。現実には大きな身分の差があるが、彼はその壁を飛び越えて彼らの時間をキャンパスに刻み込んだ。
春の終わり頃、肖像画は完成した。
アルファは令嬢に絵を披露した。そこには画家の熱情が克明に描かれていた。彼女にはその想いが痛いほど伝わってきた。美海は彼に抱きついて喜んだ。そしてその才能を褒め称えた。
「お金にはかえられないわ。どれほど支払えばいいのかしら? 」
これほどうれしい評価はなかった。
彼は語った。
「これは進呈します。そのかわり、これからもあなたを描かせてください」
令嬢は笑顔で「わたしでよろしければ」と舞台のプリマドンナのようにうやうやしく礼をした。
とは言ったものの‥‥
彼の帰宅後、肖像画のまえに立った。静かに鑑賞し、近より、遠ざかり、目を凝らして眺めて
「違う! 」と叫んだ。
「彼は気付いてない。これはわたしじゃない! 」
それは美海を忠実に描いた名画だった。しかし、彼女にはその姿が天使に見えた。画家が見ていたのは神の姿だった。若い女は絵の中の自分に嫉妬した。
「彼が愛しているのは、わたしじゃない。
そう。あの娘よ」
絵に描かれた瞳は、どこか梨咲に似ていた。そう思うのは屈辱だった。
「あんな小娘に負けるなんて」
プライドが痛く傷つけられた。それゆえ狂おしい恋の炎が強く激しく燃え上がった。
「必ず、
必ず奪ってやる! 」
悪魔の恋は肖像画では成就しなかった。心を溶かす熱い唇が必要だった。彼女はアルファが描いたのがまさしく彼女の本質だったことを知らなかったのである。
誘惑の機会を待つことにした。まだ、その時ではなかった。美海はせつない女心で梨咲の死を願った。
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