砂の涙ー18

 アルファが病気の少女に出会ってから一年半になろうとしていた。

 初夏が訪れていた。病状はよくなかった。ひと時回復の傾向が見られたが、血液のみではなく肺や心臓にも衰弱の兆候が現れていた。手足にはむくみが生じ、呼吸困難になれば酸素吸入が必要だった。そのような中、その子は海に行くことを望んだ。医師は命を縮めることになると警告したが、無理には止めなかった。残された時間に患者の欲求を満たすのも終末医療の要だった。両親は娘の希望を叶える決断をした。少女は絵の教師に同行を求めた。彼は承諾した。

 彼女が旅先に選んだのは、塩野崎灯台があり、美空ひばりが「みだれ髪」で歌った海だった。少女にも焼け野原から立ち上がった日本のスターだった歌姫の絶唱は胸に響いた。そこに溢れた人生の哀感は明るい歌よりも確かに心の平安をもたらした。昭和のたそがれ、人生の終焉、何ものかの終わり、その寂しさの中には新しい希望の芽もあった。六月の終わり、彼らはその海を訪れた。海水浴にはまだ早く浜辺は閑散としていた。

 車椅子を用意していたが、アルファは梨咲を背負いながら砂浜を歩いた。少女は純白の衣装を着ていた。彼はG服にジーンズ姿だった。足元に波が打ち寄せた。夫人と看護士は少し離れて後からついてきた。光、青空、砂、風、水、無言の中で多くの会話がなされていた。

 少女は自分の一生に想いを巡らせた。父、母、兄、姉たち、あまり通えなかった学校、クラスメイト、親切にしてくれた人たちの顔、顔、顔。そして苦しかった治療。孤独の嘆き、死の恐怖。長い夜。‥‥小春日和、好きだったルノアールの絵。心地よい色彩。生の喜び。アルファとの出会い。描いた水仙、薔薇、紫陽花‥‥。愛する人、笑顔、声。風が吹いていたが、初夏の陽射しはまぶしく、彼の背中は温かかった。その体には太陽が隠れていると思った。永遠に連なる通路があるように思えた。いつも生の不安に怯えてきた。でも、死はもう怖くなかった。ただ彼と離れることだけが怖かった。

 アルファは梨咲の一生を背中に感じていた。十五才の少女としては軽かった。彼女の一生とすれば重かった。俺のような男が生きのびて、若い枝のようなこの娘が枯れてしまうのか? 人生の皮肉だった。一歩、一歩、一歩、一歩。この一歩、一歩が死出の旅だというのか? わけもなく泣きたくなったが、泣きたいのは俺じゃない。この子なのだ。彼は波の音に合わせ歩いた、風に吹かれ歩いた、陽ざしを浴びて歩いた。このままどこまでも、宇宙の果てまでも歩き続けたかった。

 犬と散歩しているおじいさんとすれ違った。

「今日は」と笑顔で挨拶された。

「今日は」と言葉を返した。

 ここでも人々は元気に生活していた。東北といっても関東に近い県であるが、ここにも二百万の人達の営みがあった。家があり、町があり、村がある。子どもが遊び、漁船が走り、トラクターが動き、『いらっしゃいませ』の声がする。この海が荒れ狂い彼らの生活を奪ったとしても、それでも残された人々はその困難を克服して生きて行くだろう。アルファはそれを信じることができた。そう思わせてくれたのは梨咲だった。彼女が人と人とのコミュニケーションの原点を、人を信じることの大切さを、人を愛することの歓びを教えてくれたからである。

 部屋でほとんど寝たきり状態だった少女には、彼の背中が未来への旅立ちだった。それが大人への階段ではなくあの世への転生を意味しているのなら、彼女の人生とは何だったのだろうか?

 人は何のために生きているのだろうか?

 一人ひとりが考えなければならない、人間の価値を、人生の意味を。迷いながら、悩みながら、戸惑いながら、悲しみを越えて、苦しみを越えて、己が果たすべき使命を自覚しなければならない。

 人生には、喜びも、楽しみも、幸せも、野の花のように散らばっている。夭折の人とは、それだけ早く人生の課題を終えた人なのだ。どんな人にも平等に死は訪れる。寿命の長短ではない。長寿は喜ばしいが、十五年で八十年を生きる人もいる。いや、一年半で永遠を生きる人もいる。梨咲は俺の心の中でこれからもずっと生きていくのだ。彼はそう思って足を止めた。

 太平洋。この海は世界に繋がっている。何十億年もの時をかけて形成された惑星の芸術。それに比べれば、人の一生なんて粟粒のようなものだ。そう感じることの清々しさ。この大自然と一体となる歓喜。死もまた一つの風物詩。それよりも大きな生の営みが、この大宇宙を形成している。

 どこまで世界は広いのだろう。自分が考えているよりも、何倍も、何百倍も、何万倍も、いやそれ以上に世界は広いのである。生命の誕生より始まった歴史の連鎖。それは人の活動とともにこれからもずっと続いていくのだ。

 そのときアルファには、海の彼方に巨大な柱が立っているのが見えた。その周りを天使が鳩のように舞っている。柱は金色に輝き、不動明王のごとくどっしりと地下に根を張り、真理の塔のように雲を突き抜けて天へと伸びている。そのような幻想は、彼が自然の中で時折感じる霊感だった。感覚だからうまく説明できない。しかし、妄想と片づけてしまうにはあまりにリアルな感動だった。梨咲にはこの景色は見えているのだろうか? 声をかけようとしたが、少女は寝ているようだった。再び海を見ると、その柱は青空に溶けて見えなくなった。

 彼は潮風に包まれてまた歩き始めた。砂が風紋を描いていた。引き波の砂浜に青空と雲とが写っていた。遠くサーフィンをしている人が二、三人波間に消えては浮かんだ。波の激しいところにテトラポットが並んで波を遮っていた。海のはるか彼方に船舶の上方だけがわずかに見えた。群青の海だった。

 砂浜には骨のように白くなった貝殻があった。砂鉄がくっきりと波の模様を描いていた。青い波が盛り上がっては砕けて白い泡となった。砂に記された足跡は風に吹かれてその形を変えていく。雲間から陽が射してあたり一面がキラキラと輝いていた。空にカモメが飛んでいた。

 うっすらと汗が滲んだ。少女のあたたかさと、日のあたたかさ。快くて切なかった。切なくて快かった。打ち寄せた波がサーッと足元を洗った時、背中の少女は強く彼を抱きしめた。

「死にたくない」と声がした。

 アルファは言葉の代わりにしっかりと少女の足を抱えた。


 東京に帰って三日後、梨咲は永眠した。


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