砂の涙ー15
その日、若い画家は喫茶店カノンに立ち寄った。夢見心地を醒ますようにいつものコーヒーが飲みたくなった。
カウンターに覚がいた。セーラー服を着た優希もいた。二人はミルクティーを飲みながら談笑していた。アルファは覚のとなりに座り、コーヒーを注文すると今回の仕事の内容を打ち明けた。友人はそれを聴いて喜んだ。
「へぇー、そりゃすごい。三倉邸なんて、そうそう入れる場所じゃないよ」
「俺も不思議でたまらないのだ。どうしてこんな具合になったのか」
「梨咲ちゃんに熱心にかかわっているから、神様がご褒美をくれたのだろう」
「断ろうとしたのだよ。けど、武居家のお嬢さんにけしかけられて。それで」
「ご令嬢は美人? 」
「うん。麗人だね。バレリーナで、丹頂鶴のような人だ」
「へぇー、君にそんなことを言わせる女性がいたものかね」
黙って聴いていた優希は「変。なんか変」と言った。
「三倉グループのご令嬢で、美人で、バレリーナで、丹頂鶴のような人って、なんか変よ」
覚は彼女の前で不用意な会話をしたと思った。
カノンのママは話を耳にしたようで、アルファのコーヒーを置くと
「相手はお客さまですよ。画家は昔から王子さまやお姫さまを描いていたの。それが仕事の一つなのよ」と笑った。
優希の母である恵子(けいこ)は清楚な感じのする人で水商売の人には見えなかった。以前はОLをしていた。同じ会社で働いていた仁と出会ったのがきっかけで脱サラしてこの店を始めた。
好きな音楽がメインの店だった。学生運動が下火になり誰もが魂のよりどころを探していた。喜多原夫妻は都会に憩いの場を提供しようとこの店を開いた。彼女たちも心の広い人たちだったので、カノンは大龍同様に繁盛していた。
恵子は馴染み客の接待を始めた。アルファはカノンのコーヒーを飲んだ。いつものようにうまかった。しかし、三倉邸で飲んだものとは比較にならなかった。あそこは異次元の世界だった。すべてが超一流だった。だから、カノンのコーヒーを飲んで夢から醒めたようにホッとした。自分がこの世にいることが確認できたからである。
優希は胸騒ぎを感じていた。
「梨咲ちゃんのことだけでも大変なのに、そんな仕事を引き受けてだいじょうぶなの? 」
アルファは彼女の心配を可愛らしく思った。確かに不安もあった。
「そう言えば、サンダーっていう猟犬がいてさ。噛みつかれそうになった」
「そんな危ないとこへ行っちゃだめよ」
優希は真剣に彼を止めようとした。
愛くるしい少女の眼差しにいたずらっ子のように
「だいじょうぶさ。もしも妖怪の住処だったら、いっしょに遊んでやるまでさ」
そこで詩乃のことを思い出した。
「そう言えば、魔法使いのお婆さんもいたよ」
「いやだあ。真面目に話して」女子高生は口をとがらせた。
「嘘じゃないよ。詩乃さんっていうお手伝いさんがいて、魔法使いそっくりだった」
彼女は目を丸くして
「だめ。絶対、そんなところへ行っちゃだめ」と立ち上がった。
彼女の制止が尋常ではないので、覚も少し不安になった。
「本当にだいじょうぶなのかい? 」
「何だい君まで。俺は信用がないのだな」
「だってアルファさんは、最初のときも傷だらけだったでしょ? 」
そう言えばそうだった。雨の日、リンチにあって下宿屋大楽に担ぎ込まれた。迷惑ばかりかけていた。それなのに家族のように心配してくれる彼女の心は有り難かった。
フーッと溜息をつき、
「優希ちゃんは母親みたいだな」と言った。
女子高生はそれを聴いて腰を抜かしたようにストンと椅子に座った。
両親と死に別れているアルファにとってそれは褒め言葉だった。しかし、恋する乙女にとっては打撃だった。
絶え間なく音楽が流れていた。カラオケ未使用の時は、ジャズやクラシックも流れていた。若い店員が冗談めかしてベートーベンの『運命』のレコードに針を落とした。
ジャジャジャジャーン ジャジャジャジャーン
優希は髪をくしゃくしゃに掻き乱して
「もういいです。好きにして。どうせ止めても行くんでしょうから」
その通りだった。
「でも、みんなに心配かけないで! 」
彼が頷くと、ミルクティーをゴクゴクと飲み干した。唇から滴がこぼれた。優希はあわてて口元をハンカチで拭いた。セーラー服に薄い染みがついてしまった。『ああ、洗濯しなきゃ』と思いながら、『どうしてこんな人のことを好きになってしまったのかしら』と思った。ハラハラドキドキさせられてばかり。でも、それが理由かもしれなかった。いつも感情を掻き乱される。憎らしい人。でも、やっぱり好きだった。だから、思いっきり傷つけばいいとも思った。わたしがいっぱい優しくしてあげるから。そう思って晴れやかな気持ちを取り戻した。
「覚さん。アルファさんをしっかり監視していてね。まったく、大きな子どもみたいなんだから」
嵐が通り過ぎたようだった。
友人は「ハイハイ」と答えて「今日から優希ちゃんをママと呼ぼうか」と若い画家に呼びかけた。
優希は彼が答える前に「いやだあ。気持ち悪い」と笑った。
アルファは心の中で『ママ』と呼んでクスリと笑った。
若い娘の心配は当たっていた。それが彼女に大きな試練を与えることになろうとは、神のみぞ知る未来の出来事だった。
年が明けてから三倉邸に行き美海の肖像画を描き始めたが、これまで通り武居家の勤めも果たしていた。心に決めていたのは、梨咲には決して迷惑をかけないことだった。令嬢の絵を描いていることは伝わっていたが、さほど話題にはならなかった。アルファはこれまで以上に少女の良き家庭教師であろうとした。それが彼を救っていた。それが美女に呑み込まれそうになる自分を現実に引き止めていたからである。一方梨咲の病状は一進一退だった。少女の死も近い将来起こり得る現実だった。そこから彼を救っていたのは美海だった。彼女を描くことがアルファの新たな生きがいとなったからである。それは危ういバランスだった。どちらかの重りが消えた時、何か分からない暗い淵へと真っ逆さまに転落する虞がある微妙な綱渡りだった。彼はノートに一片の散文詩をつづった。
運命の拷問
天国のような地獄。地獄のような天国。
それが頭の中でゴロンゴロンとドラム缶のように転がっている。
ここは長い坂なのか?
それとも苦悩の音楽堂か?
それにしてはバッハの荘厳な響きが欠けている。
ロマンチックというには卑近な苦情が多すぎる。
ああ、
ドラム缶に押し込められて、当てもなく坂を転げているようだ。
旅にしては行方が知れない。
仕事にしては情がもつれる。
暑い陽射しに焼かれ、このまま海まで転げていくのか?
アルファは、窓を開けて思いきり外気を取り込んだ。そしてはるか遠くの空を眺めた。浮雲に救いを求める詩人のように‥‥。それは彼の現実だった。しかし、それに反して想像の翼は巻きおこる現実の風をうけ自由に空を駆けめぐっていた。
下宿屋大楽の住人たちは、彼の心の支えだった。覚や拳士郎とはX先生の殺害事件後、特に関係が緊密になった。
覚はX先生の事件について結論のない思考を巡らせていた。真相は闇の中だった。しかし、彼は考えることを止めなかった。周囲にあらわれた微妙な変化。それを感じながら解決の糸口を探っていた。それを積極的に掴もうとしたのは桜木拳士郎だった。
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