砂の涙ー14

 クリスマスの翌日、武居宅の門を出たところで若い女に通せん坊をされた。武居奈美だった。女子大生なのにミリタリールックのような服装をしていた。

「帰さない」と言ってにらむので、アルファは苦笑したが、

「そこまでつきあって。話があるの」

 そう言って喫茶店の方角を指差した。

 まるで交通整理をさせられているようだったので「道路標識みたいだね」というと

「一方通行よ」といって笑い出した。

 しかたなくついて行くと、そこで聴かされたのは思いもかけぬ申し出だった。三倉家令嬢の肖像を描いてほしいというのである。依頼主は本人だった。これまで彼は依頼を受けて肖像画を描いたことはなかった。売れっ子の画家ならばいざ知らず、どうしてそのような依頼があったのか訝しがっていると、

「美海さんは青春の思い出を残したいのですって」という。

「なぜ僕に? 」

「お母さんが梨咲と先生とのことを話したの。そしたらすぐれた才能の手助けをしたいという話になって肖像画の依頼をしてくれたの。美海さんがモデルならきっと傑作が生まれるわ。こんないい仕事ないでしょう? 」

「ほんとうに僕でいいのかな。梨咲ちゃんのこともあるし・・」

「あら、あんがい臆病なのね。梨咲のために仕事を断るっていうの? 病気の妹を理由にしないでちょうだい」

 奈美の一言が画家の負けず嫌いを刺激した。

「報酬は? 」

「三倉家のご令嬢よ。いい絵がかければ先生の望みしだいでしょう。いいパトロンなってくださるわよ」

「了解です。引き受けましょう」

 商談が成立した。

「それにしても不思議ね。美海さんはこういうことには興味を示さない人なの。芸能界のスカウトも相手にしなかったし。先生はラッキーだわ」

 奈美はそう言って、コーヒーを飲みながら意味ありげに微笑した。


 翌日、奈美とともに三倉邸を訪れた。そこは由緒ある大名屋敷に建てられた邸宅だった。

 広い芝生の庭があった。美海は犬と散歩をしていた。二人を見ると手を振り、長い黒髪をなびかせて駆けて来た。黒いスーツの上に着た深紅のコートが風にゆれていた。武居家の玄関で見た時よりはずっと親しみがあった。そのとき黒い猟犬が獲物を見つけたように駆け出し、アルファに飛び掛かろうとした。彼はとっさに左手を突き出して身がまえた。

「サンダー! だめ! この人を噛んだら承知しないから」

 犬は唸り声をあげていたが、飼い主の叱責におとなしくなった。

「ごめんなさい。知らない人をみるとすぐ攻撃しようとするの」

 若い男は構えをといた。

「先生、強いのね。サンダーの動きを止めるなんて」

 令嬢は犬を鎖につないだ。

 奈美もホッとした様子で「サンダーはつないでおいて。獰猛なんだから」と言った。

 アルファは訪問早々とんでもないところに来たような気がした。


 美海は二人を別邸へと案内した。それは本館から少し離れた木立の奥にあった。

不思議な建築物だった。外見はプラネタリウムのような半円形をしていた。中に入ると大きな窓から陽が射しこむ広々とした空間だった。まるい空間は中央から半分に仕切られ、その下半分は一面が鏡張りになっていた。そのためそこは円形の空間に見えた。板張りの床、半円の高い天井。そこはそのまま理想的なアトリエだった。壁の上部は白塗りでアルプスの絵が飾ってあった。その左右に窓が二つあった。壁にはドアが三つあり、向こう側には空調設備やトイレやリビングルームがあった。二階があってそこからは室内と室外の景色を同時に見られる部屋があった。広間の窓際にはガラス製のテーブルと漆黒のソファが対になって置かれていた。テーブルの上の花瓶に真っ赤なバラが二輪挿してあった。暖房が効いていて寒さは感じなかった。そこから見た庭の景色は極楽浄土のようだった。

「東京にこんなところがあるとは驚きです」

 アルファは正直に感想を述べた。

 奈美は「ここは別世界よ。ここに比べたらわたしの家なんてオモチャ箱みたい」と笑った。

 美海は「そうかしら? わたしは武居宅のほうが好きだわ」と言った。

 ソファに座り、女同士の会話が始まった。若い画家はそれを聴きながら、じっくりと令嬢を見た。

 美の力が迫ってきた。自然のエネルギーが凝縮して一つに結晶していた。長い黒髪に白い肌、眉、瞳、鼻筋、唇、首筋。しなやかな指、手首・・至上の美を体現したような容貌が、黒の衣装により艶やかに見えた。『ヴィーナスだ! 』と思った。夢が空から舞い降りて来たようだった。

 令嬢はアルファを見て先ほどの非礼を詫びた。

「いつもはサンダーをつなぐのですが、二人を見たらうれしくて、つい」と笑みがこぼれた。

 そこにホームメイドが挽き立てのコーヒーと焼き立てのアップルパイを運んで来た。目が少しはれぼったくて不愛想な老婆だった。黒い帽子をかぶせ杖を持たせれば、彼女はそのまま魔法使いだった。若い男はお伽の国に迷い込んだような錯覚をおぼえた。

「詩乃(しの)さん。ありがとう」

 メイドは「いえいえ。ごゆっくりどうぞ」と言って戻って行った。

 彼女は美海の母親代わりだった。母は彼女が幼い頃に亡くなったので、それ以来ずっとその子の世話をしていた。

「父は仕事でお会いできません。でも、先生のことは伝えてあるので、ご心配なく。

 さ、どうぞ」

 コーヒーを口もとに運ぶと甘い香りが立ち籠めた。一口飲むと暑い日ざしに青々と茂るコーヒー園の情景が浮かんだ。これは上質の飲食物に出会ったときに感ずる風土の味わいだった。

 彼が静かに目を閉じていると「いかがです? 」と声がした。

 アルファはふっと嘆息して「青々としたコーヒー園が目に浮かぶようです」と評価した。

 令嬢は彼の答えがお気に召したようで「暑い陽射しが降りそそいでいるでしょう」と応じた。

「そうそう」と相槌を打った。まるで心の中を読まれているようだった。

 パイもいただいたが魔法が掛けられているような美味だった。

 感嘆して「おいしい! 」と伝えると

「詩乃さんに伝えておきます。きっと喜ぶでしょう」と微笑みが返った。

 アルファは美海の微笑の陰に言い知れぬ孤独を感じた。彼は人の精神を直視する目を持っていた。言葉のみではなく目や雰囲気で会話できる人間だった。令嬢も同類だった。奈美にも少しそんなところがあった。

「ここで美海さんと先生との格闘が始まるのね」

「格闘? 」

 美女の疑問符に、アルファは「よくご存じで」と答えた。

「正直、自信ありません。でも、あきらめません」

 令嬢はふと立ち上がり、いくつかのポーズをとった。その動きはあまりにしなやかで指先から光がこぼれ落ちてくるようだった。

「日本にあなたのような人がいたとは驚きです」

「美海さんはバレリーナなの」

 令嬢は奈美と同じ女子大の学生であるが、幼い頃よりバレーを習っていた天才肌の踊り手だった。「大倉家の娘がプロになる必要はない」という父の意向もあり、コンクールなどには出場しなかったが、大倉家で催されるパーティなどでその腕前は披露されていた。彼女はそこに集う一流の人々を熱狂させた。その中には名のあるアーティストたちもいた。英国の有名な振付師が彼女の舞台を見て「世界でも5本の指に入るバレエ団のプリンシパルにも劣らない」と評価したことが、大倉家の誇りとなっていた。

 ここはバレーのレッスン場だった。だから壁が鏡張りになっていた。そこは小さな宇宙空間だった。絵を描くには広すぎるように感じたが、彼女の存在よりは狭く感じた。アルファは仕事として報酬を期待して三倉邸を訪れたのだが、そのようなものを度外視しても彼女を描きたいと思った。

「年が明けたら来てくださる? 」

「はい」

「ああ、楽しみだわ」

 美海は高く腕をあげ解放されたように背を伸ばした。


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