砂の涙ー13
イヴの夜、アルファは眠れなかった。梨咲のことで頭が混乱していた。優希が置いていった手編みの襟巻も彼の魂を鎮めるには足りなかった。彼は『死』について考えていた。抽象的な死という概念についてではない。梨咲の不在を招く死についてだった。武市家の富をもっても止めることが難しい少女の死。それはアルファには受け入れ難い現実だった。彼女との交流に生きがいを感じていた彼にとって梨咲の死は生きがいの喪失を意味していた。一人の人間の人生が腕の中にあった。それが砂のように崩れ落ちていってしまう。その空想は彼の人生をも不毛にしてしまいそうだった。しかし、向き合わなければならなかった。梨咲の病状は快方に向かっていたが、根本的に治療されたわけではなかった。生と死との狭間を波のように寄せては返している身体。嵐が来れば、彼女はこの世から強引に連れ去られてしまうのだろう。人生の残酷さを感じずにはいられなかった。
少女の瞳はただ愛だけを見つめていた。彼女が描いたアルファのデッサンは若々しい戦士のようだった。それはある意味では、少女の魂の投影だった。病魔との戦いに明けくれた日々。彼女はアルファの姿に自分の魂を重ね合わせていた。この世の絶望を乗り越えて永遠にまで飛翔する翼。本物の愛。それ以外のものはいっさい瞳から消えていた。その意味では彼女は恵まれていた。困窮、悪感情、多忙、飢餓、魂をずたずたに食い破る世間の爪牙から守られていたからである。しかし、その代償があまりに早すぎる死であるとするなら、その幸運は褒められるべきだろうか。
人生は公平である。幸福と不幸とを足して二で割れば、幸福の量はそれほど個人差があるものではない。人は幸福である分だけ不幸に、不幸である分だけ幸福になる可能性がある。しかし、そのような理性的計算は彼にはできなかった。愛する者の幸福を願うのは、いつの世も変わらぬ人情だからである。
その梨咲との関係にサッと暗い影が差した。彼にはそれが救いの光のようにも思われた。美しい令嬢との出会いだった。三倉家といえば銀行や企業グループを率いる日本屈指の富豪だった。その家の娘で奈美の友だち。しがない絵描きには縁のない高嶺の花だった。若い画家はその美しさに魂がふるえたが、意識的にそれを打ち消した。ところが思わぬところから運命の歯車が回り始めたのである。
その頃から、少女とは会話の時間が多くなった。
「先生。永遠ってあるのかしら? 」
「難しい質問だね。梨咲はどう思うの? 」
「わたしはあると思うの。よくわからないけどあると思うの」
「そうだね。僕もあると思うよ。
太陽を見ているとき、星を見ているとき、花を見ているとき、梨咲を見ているとき」
少女は感動して頷いた。ベッドの脇に置いてある絵を持って
「だれにも言ってないけど、わたしね。この絵を見たとき、天使さまが見えたの。くっきりではないけど、透明な感じだけど、天使さまがほほえんでいたの。天使さまがわたしとこの絵を出会わせてくれたの」と語った。
その絵は嵐の河に架かる橋を描いた『希望』という作品だった。橋の向こう側に見えるわずかな青空。希望とは画家の希望でもあった。梨咲はその絵に天使の姿を見たという。アルファはこのような不思議な発言について、それをそのままに受け取ることのできる人間だった。何か目には見えない力、そのようなものによって世界は動いていると直感していたからである。
「僕も見たことがあるよ。山の上にうっすらと雲が棚引いていて、その上に白亜の城が見えた。薄桃色の花が咲いていて、鳩が飛んでいた。この世のものとは思えない光景だった。そのとき、青い光の中、白いものが紙飛行機のように飛んでいた。白鳥かなと思った。でも、違っていた。きれいな天使が羽衣を風になびかせて空に舞っていた。のびやかに、楽しそうにほほえんで‥‥」
嘘ではなかった。しかし、それが自分のイマジネーションなのか、霊の世界の投影なのか、彼には判断できなかった。
「すてきね。だから先生は、こんな絵が描けるのね。わたしは信じるわ。永遠の世界。夢のように美しい天の国。トラさんも、ヘビさんも、カエルさんも、なかよくしている。貧しい人も、悲しい人も、苦しい人もいない。みんなが笑顔でいられる世界よ」
「そうだね。そんな世界に住めたらいいな」
「ええ。
でも・・」と言いかけて、梨咲はしばし沈黙した。
「やっぱりここがいい」
家庭教師は微笑みを返しただけだった。ここがいいという理由と未来の予測とが、とても重いものだったからである。
梨咲は外の世界を映像や本を通して知覚していた。アルファは彼女にとって外部に開かれた窓だった。彼は、旅の話や、面白い本の話などを語ってきかせた。少女はそれを楽しんで聴いた。そこから共有の想像空間ができた。自然、四季、街、歴史、芸術、宗教、言葉は翼を得たように駆け巡って小さな宇宙を形成していた。ニュースで報道される日々の悲惨な事故や事件は語らなかった。少女にこれ以上の負担をかけたくはなかったから。それは現実の座標軸からは離れたおとぎの世界だった。しかし、彼女にとってそれは充分に広い世界だった。未知への好奇心、未来への夢、少女は新たな経験を欲していた。折にふれて「海へ行きたいな」と語った。そのたびに家庭教師は「体調がよくなったらいっしょに行こう」と約束していた。梨咲はほんとうにそれを楽しみにしているようだった。生命の故郷である海、世界とつながっている海、少女にとって海への憧れは未来への旅立ちだった。
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