砂の涙ー12

 イヴの日、梨咲は体調を崩して絵を描くことができなかった。アルファは気遣ってそのまま帰ろうとしたが、強く引き止められた。病人相手の家庭教師は話をきくのも仕事だった。若い教師は椅子をベッドの脇によせ腰かけた。少女は微熱があったが、彼と話せるのを喜んだ。

 夫人や看護師が退出して二人になったとき不安そうに問いかけた。

「先生。これからもずっとそばにいてくれる? 」

「そうだね。お嬢さんがそう望むなら」

「お嬢さんはいや。梨咲と呼んで」

 アルファは「梨咲がそう望むなら」と言い直した。

 少女はにらむように「先生が結婚しても、ずっとよ」という。

「僕は、結婚はしないよ」

「なぜ? 」

「今は、結婚なんて考えられない」

「どうして? 」

「どうしてかなぁ? 」

 笑顔で質問をそらしたが、

 梨咲は「それじゃ、わたしと結婚して」と言った。

 不意を突かれた。

「梨咲はまだ十五じゃないか‥‥」

「それじゃ、二十になったら結婚してくれる? 」

 少女の視線があまりに真っ直ぐなので、それを正面から否定することができなかった。

「そうだね。

 二十まで気持ちが変わらなければ、そのときにまた考えようか」

「わたしの気持ちは、絶対、変わらないから」

 彼は少女の言葉を信じることができた。彼女には嘘がない。だから、子どもだからといっていい加減な対応はできないと思っていた。恋愛感情があったわけではないが、その真っ直ぐな心根に愛情と信頼とを寄せていた。彼は少女の魂に共感することができた。

 梨咲は伏し目になり、

「でも、先生は、きっと他のだれかを好きになるのでしょうね。わたしじゃダメね。病気ばかりで・・」とつぶやいた。

「だいじょうぶだよ。きっと良くなるよ」

 少女は微笑み、それから宙をながめきっぱりと言い切った。

「ありがとう。

 ‥‥先生は自由でいいの。そのままでいいの。でも、梨咲は、絶対、他の人を好きにはならない」

 アルファは頭をハンマーで叩かれたように思った。

「世のなかは広いよ。いい人なんて山ほどいるよ」

「先生はこの世に一人しかいないわ。

 わたしの希望。だからずっとそばにいて」

 アルファは梨咲の時間が特別なスピードで流れているのを知っていた。幼い頃より死の影を背負って生きてきた少女にとって、その日その日が生きるための戦いだった。漠然とした未来を信じることのできない魂は、今を生きることに集中していた。だから、十五才の少女が結婚を口にしたとしても、それは思いつきではなかった。明日があるかないか分からない人間の切なる想いだった。幼い魂が背負っていた不安と孤独。彼女が求めていたのは魂の救いだった。死を乗り越える愛だった。アルファは彼女が選んだ永遠への架け橋だったのである。

 若い画家の心にもまったく同じような感情があった。花火のような人生とは、一瞬に描かれては消えていく美の再現だった。はかなく消えていくが鮮明に残る記憶。それは一瞬に表現された永遠であり、命の完全燃焼なのである。永遠への扉をひらく生の一撃なのである。彼は梨咲の魂におのれの姿を見ていた。彼女は、愛すべきものであり、信ずべきものであり、守るべきものだった。

 それにしても皮肉なのは、少女の魂を純化させていたのが病気だったことである。裕福な家に生まれた病人であるという状況が、彼女の魂を俗世間から隔離し純粋培養していた。梨咲は、世間が要求する余計なものをすべてはぶいて精神を直視する目を持っていた。アルファはその瞳に惹かれたのである。水に清められたような生の炎。それは一瞬の花火のように夜空に消えてしまうのだろうか? そこには何か耐え難いものがあった。折られた若枝が幹につながっているような姿。

 通常であれば入院していなければならない状態だった。しかし、少女の願いで自宅療養をしていた。両親は、娘の人生が良きものであったとするために最善を尽くしていた。看護士を雇い、担当医には定期的な検診を依頼していた。

 アルファは思った。花火のような人生であってはいけない。平凡でもいいから健康で幸せな人生を送ってほしい。自分の寿命をわけてあげてもいい。生きていてほしい。それは心から溢れ出した自然な願いだった。

 彼が『ずっとそばにいるよ』と言おうとしたとき、夫人が戻ってきた。梨咲は羽毛布団を握りしめ彼をジッと見つめた。その瞳が『今の話はお母様にも言わないで』と語っていた。

 微笑して頷くと、ホッとしたように微笑が返った。

「アルファさん。ごいっしょに夕食はいかがですか? 」

「いえ、もう帰ります」といって立ち上がった。

「そうおっしゃらずに、今日はクリスマス・イヴですから」

 喫茶店カノンでクリスマス会があることは話さなかった。会に参加できない少女が可哀想だったから。

「そうだ。プレゼントがあるのだ」

 アルファは茶色いバックに入れて来たスケッチブックを手渡した。少女はそれを開いて頬を紅潮させた。そこには梨咲のデッサンが何枚も描かれていた。それを見ながら少女は笑い出した。

 彼は笑われるような絵を描いた覚えはなかったので

「おかしい? 」と訊いた。

 彼女は「違うの」といってからだを起こし、ベッドの脇に隠していたスケッチブックを取り出して

「わたしからのプレゼント」と差し出した。

 そこには若い家庭教師の似顔絵が何枚も描かれていた。彼も笑い出した。二人でまったく同じプレゼントを考えていたのである。

 夫人は彼らの笑顔につられて

「まあ、仲の良いこと」と上品に笑った。

 梨咲は「ありがとう。宝物にするわ」とスケッチブックを抱きしめた。

「僕こそありがとう。まるで宝塚の男役だね」

 笑顔が溢れた。

 いつもの手習いは花瓶に挿された四季の花を描くことだった。花は彼がフラワーショップで買ってきた。庭に美しい花が咲いている場合は、それを摘んできて描いた。画題はその一点に絞られていた。若い家庭教師は教え子に命の美しさを伝えようとしていた。スケッチブックに描かれたデッサンは、彼らが独りのときに描いたラブレターのような絵だったのである。

 アルファが描いた肖像には微笑があった。瞳と瞳とが出会ったさわやかな一瞬やかわいい横顔ばかりではなかった。テラスで雲をながめている全身像や、庭を散歩している元気な姿、カナリヤと話している表情や、夢中で紫陽花をデッサンしている時などを描いた。そこには想像も含まれていたが、病気全快の祈りを込めて描いた。ベッドに寝ているリアルな様子も描かれていたが、次のページで梨咲はベッドから起きて立ち上がろうとしていた。最後のページには花の中にいるフェアリーのような少女が描かれていた。アルファは四Bの鉛筆で描かれたそれらのデッサンに淡い水彩を施していた。

 梨咲が描いたアルファの肖像には戦士のような風貌があった。絵はコンテと水彩で描かれていた。少女漫画の影響も見られたが、その線はすっきりとして迷いがなかった。光陰を明確にした立像や座像。星や花といっしょに描かれたファンタステックな絵もあった。表現に愛がこもっていた。この子が長生きすればすてきな女流画家になるだろうと思った。最後のページには少女と手をつないでいる若者の後ろ姿が描かれていた。二人は砂浜に座っていっしょに海をながめていた。絵の右隅には 梨咲&アルファ LOVE とサインがあった。

 アルファが自分をモデルとして描いてくれたこと、自分が描いた絵を彼が喜んでくれたこと、それは雨上がりの空に虹がかかったような喜びだった。しかし、梨咲は興奮したせいか急に咳き込んだ。看護士がきて休むようにすすめた。


 夫人は彼を伴って部屋を出た。

 廊下を歩きながら「あの子は、アルファさんが好きなのね」と呟いた。

 彼が黙っていると

「ありがとうございます。あなたのおかげで、あの子にも春の陽ざしが降りそそいでいるのでしょう」と言った。

 若い画家は「いえ、お嬢さんが春の陽ざしなのですよ」と答えた。

 武市家の食卓に招かれた。

 廊下の突きあたりにある白壁のゆったりとした洋間だった。となりに厨房が見え、南側にサンルームがあった。大きな柱時計が掛けてあり6時3分を示していた。壁にはルノアールの描いた読書をする少女の画があった。白いクロスのかかった長四角のテーブルの中央にはフラワーアレンジメントが飾られ、配膳されたソテーやシチューが湯気を立てていた。

 梨咲は自室で看護士とともに別メニューを摂っていた。

 入口付近に小さなクリスマスツリーがあった。主人は留守だったが兄姉たちがいた。笑顔で挨拶し、勧められるままに腰かけた。

 長男と長女は良家の模範的子女といった印象だが、次女の奈美(なみ)はどこか屈折していた。女子大生で短めの髪にパーマをかけていた。

「梨咲はいいわね。ハンサムな先生に絵を教えていただいて。わたしにも教えてくださらない? 」

 彼が答えに窮していると、

 夫人が「先生には無理にお願いしているの。これ以上、ご迷惑はかけられませんよ」と制した。

「はいはい。わかっておりますよ。梨咲は特別なのね」

 アルファには奈美の気持ちが手にとるように分かった。優秀な兄姉と病弱な妹に挟まれて窮屈な思いで生活をして来たのだろう。根深い愛の渇きが見てとれた。

 武居家の人々は資産家でも特に着飾っているようなところはなかった。幸江夫人も大学生である長女の真琴(まこと)も肩まで髪を伸ばしていたが、さらりときれいに梳かされていた。それぞれに小奇麗なウールのセーターを着ていた。若い画家も武居家を訪れるときは薄茶色のブレザーだった。

 商社マンである誠太郎(せいたろう)が食卓の話題をリードしたが、彼の話は政治や経済に関するビジネスモードの話だった。時は折しもバブル全盛期、ジャパンマネーが破竹の勢いで世界を席巻していた。真琴はしとやかにアルファへの感謝を伝えた。彼女は夫人によく似ていた。お互いに深く詮索はしないことが暗黙のルールとなっていたようで、彼もスムーズに食事を楽しむことができた。

 クリームシチューにパンとワイン、サラダに鶏肉のソテーがメインのディナーだった。デザートにケーキとレモンティーが出された。それを食べながら歓談してお暇することにした。

 夫人は家庭教師を玄関まで見送った。その時のことである。来客があった。

「あら、美海(みう)さん」

 玄関ですれ違ったのは、黒いドレスを纏った若い女だった。

 視線がぶつかった一瞬、閃光が走った。

「こちらは三倉(みつくら)家のご令嬢よ。

 こちらはアルファさん。梨咲の絵の先生なの」

 夫人の紹介に長い黒髪の女は微笑んで「ごきげんよう」と挨拶した。

 若い男は黙って頭を下げたが、心臓が高鳴っていた。

「奈美さんはいらっしゃいますか? 」

 奥から武居家の次女が来て「美海さん。いらっしゃい。さ、どうぞ」と笑顔で招いた。

 玄関にはゴッホが描いたヒマワリの複製画があった。アルファは、その花の影から彼女が姿を現したように思えた。

「失礼します」と退出したが、もう一度赤いスリッパを履いた美海と視線が合った。その瞳に吸い込まれそうになった。印象派の時代ではなかった。それよりはるか古代の生命の息吹が全身を覆った。運命の出会いだった。

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