砂の涙ー6

 下宿屋大楽は甚平の妻である幸子(ゆきこ)が仕切っていた。彼女はどっしりとした体型のおばさんで下宿人たちの賄いをしていた。庭をLの字に囲むように二階建ての宿舎があり、二階には男性用の個室があった。一階は食堂や調理場、洗面所、男女別の風呂場やトイレ、女性用の個室があり、その一角に大楽夫妻は住んでいた。庭にはツツジの植えこみがあり、その横に大きな水槽があった。そこにはメダカが数百匹住んでおり、プランターにはパンジーやシクラメンなど四季の花々が植えられていた。メダカの飼育は甚平の趣味であり、花の手入れは幸子の趣味だった。子宝に恵まれなかった夫妻は、下宿人たちを家族のように待遇していた。

 そこは公園に隣接しており、周囲には松や楓などの樹木があった。瓢箪型の広い池があり、睡蓮が咲いていた。遊具やベンチもあった。

 その区域は東京のベッドタウンのような場所で、商店街の裏手には団地やビルや住宅街が広がっていた。近くに高校があり、少し離れたところには大学や消防署もあった。街の北側には堤防があり、河がゆったりと流れていた。その近くには水神様を祀る神社もあった。


 風があちこちに枯葉の吹きだまりを生じさせるように、人の縁も目には見えない風に吹かれて似た者同士を寄せ集める。一見雑然とした都会であるが、運命の作用はここにも働いていた。

 下宿屋大楽は風変わりな連中の宿泊所だった。拳士郎とそのほかの従業員、漫画家志望の若者や、かけだしの歯科医、気の弱そうな警察官、あまりパッとしない女優などがいたが、特に変わっていたのは新進画家である白石透(しらいしとおる)だった。

 白石は髪が長く痩身だった。食べることより絵を描くことが好きな男だった。言語障害があり対人恐怖症でどもりがひどかった。ところが、眼力と才能は卓越していて画家の仲間からは大楽の天才と呼ばれていた。略して楽天だった。

 アルファも彼の名前は知っていたが、まさか中華料理店裏の下宿屋で出会うとは予想もしなかった。時に感じることであるが、世界は思っているよりも狭い。思わぬところで思わぬ縁があったりする。彼はその幸運に感謝した。

 下宿屋大楽にとどまったのは白石の影響もあった。アルファは無名に近い画家だったが、彼が自分を知っていたことには驚かされた。彼はめったに声を出さない。絵や筆談で対話する。

 初対面のとき、メモとペンを持ち

『君はアルファ君じゃない?』と書いて見せた。

 とっさに

「なぜ僕を知っているの?」と訊くと、彼は黙って一冊の美術誌を見せた。

 そこには『煙突の上の酔っ払い』と題した一枚の絵が載っていた。少年が煙突のてっぺんに座って花火をながめている油絵だった。展覧会に出展し受賞を逃した作品だったが、酔狂な編集者がおもしろがって誌上に掲載してくれたのである。

 白石は、

『君が絵描きだと聴いたとき、この絵の作者だと思ったのだ』と書いた。

 しかし、その絵には、夜空に少年の背中が描かれているばかりだった。

「この絵に顔は描いてないよ」というと、

 目を輝かせて

『君の顔にはこの絵が描かれているよ』と返答した。

 彼はそれを見てゾッとした。

 白石はつづけた。

『僕はこの絵が好きなのだ』

 アルファの顔は熱を帯びた。彼は本質を見抜くような眼力を恐れる男ではなかった。むしろそれを喜ぶ男だった。

「ありがとう」

 笑みを浮かべて感謝を伝えた。

 今度は楽天が驚いた。その笑顔が真紅の薔薇のようだった。

 彼が絵から感じたのは解放された狂気だった。現実を突き抜けて宇宙を駆けめぐる強靭な想像の翼だった。ところが、実際の作者に会ってみると彼自身が一個の名作のようだった。白石には障害があり、肉体コンプレックスの克服が創作の原動力となっていた。ところがアルファは、神の恩寵ともいうべき美貌を持っていた。その上にきらめくような才能も持っていた。通常であれば妬みの対象だろう。しかし、白石はそれほど心の狭い男ではなかった。美しいものは美しい。ありのままをありのままに認めるふところの深さがあった。彼はアルファに惚れたのである。

『君はかっこいい』

 お世辞をいうような男ではないと感じたものの、彼は言下に「ノー」と否定した。白石はそれを聴いて満面の笑みを浮かべた。ないものねだりは人の常で、すでに持っているものについては(それはあたり前なので)さほど興味を示さないものである。アルファにとっては楽天の眼力こそが羨望の的だった。

 白石はこれまでもさまざまなコンテストで受賞し、現在は近所にあるアトリエ・アマランスで画業に没頭していた。美貌の画家はそこに招待されて絵を描くようになった。奇しくも、画業における真の理解者と最強のライバルとを同時に得たのである。

 下宿屋大楽は一段とにぎやかになった。優希も何かと用事を見つけてちょくちょく顔を出すようになった。まさかそこに、アルファを台風の目とした大嵐が吹き荒れることになろうとは誰にも予想できないことだった。

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