砂の涙ー5

 大龍はラーメンがメインの中華料理店であるが、夜は居酒屋風の店になった。店内は、客とのコミュニケーションを求めるマスターの意向もあり、調理場が中央にあり、コの字型にカウンター席が並んでいた。その周りにテーブルが配置されていた。宴会用の部屋も二間ほどあった。

 さまざまな客が訪れていた。都会の人の流れのままにはじめて訪れる客もいたが、マスターの気さくな性格に惹かれて訪れる馴染みの客も多かった。

 店員は調理人4名、そのなかに桜木拳士郎もいた。そのほかに配膳レジ係が5名いた。そのなかに優希もいた。彼女は隣のおじさんの頼みとあって不承不承アルバイトをしていたのだが、アルファが現れてからは非常に積極的に働くようになった。

 常連客には、経営者、警察官、定年後の爺さん、区役所職員、建築士、銀行マン、高校の先生、会社員、土木作業員、美容師、喫茶店員、ダンサーなどがいたが、たがいに冗談を言いあえる仲間だった。見ず知らずの他人同士が、大龍を縁として小さなコミュニティーを形成していた。そこは都会に花咲くオアシスだった。

 なかには酒癖の悪い客もいた。酔いがまわると決まって愚痴をこぼし始めるのである。

 カウンターに陣取り、好物のレバニラ炒めをつまみ、グラスで焼酎を飲みながら、

「サラリーマンはせつないねえ」

 ここで話が止まればよいのだが、青い格子縞のネクタイを手にして

「これは何だか知っているかい?」と始まる。

 甚平が、「小学生だって知っているよ。ネ・ク・タ・イだ」などと答えると、

「違う。それは違う。これは犬の首輪だ」

「犬の首輪なら鎖がついているよ。そいつはネ・ク・タ・イだ」

 サラリーマン氏はここぞとばかり、

「鎖ならしっかりついてらあ。これは、社会という小屋につながれている、善良な市民だという証拠物件だ」

「アハハ。酔っぱらっていると思ったら、難しいこと言いはじめたな」

「てやんでえ。犬の話だよ。尻尾のかわりに首をふり、サラリーをもらっては、ワンワンと吠えて喜ぶ犬だ」

「そんなおかしな犬がいるものかね」

「それがいるんだ」急に小声になり、

「ほら、そこにも、ここにも、あそこにも」

 主人は眉をしかめた。

 サラリーマン氏はさらにひそひそ声になり、

「何と言ったらいいのかね。

 金と会社の奴隷だよ」

 甚平はそのようなネガティブな考えは嫌いだった。

「まったく付き合いきれねえな」とそっぽを向いて仕事を始めた。

 彼は顔を横に向け、独り言のように語り続けた。

「同僚が、『人は何のために生きているのでしょうね』と訊くから、『自分で考えな』と答えた。『あの世はあるのでしょうか?』と訊くから『死んでみなけりゃわからんよ』と答えた。

 ある日、そいつはビルの屋上からバッタのように飛び降りた。しかし彼はバッタじゃなかった。ぽんと飛んだらグチャッと潰れて、はいそれまでよ。俺は泣きもしなかったし、笑いもしなかった。ただ、もろいものだなと思ったんだ。

 腐ったニンジンじゃないのだから、窓からポイはごめんだぜ。俺は生きている。まずは生きている。そして、もしこう言っていいならば、俺たちが、社会とその繁栄を支えているのだ。

 ふざけんな! 甘ったれるんじゃねえよ! 俺たちは、世界で一番我慢して、会社やガキを守っているんじゃねえか。イライラしているのは、てめえ一人じゃねえんだぞ。死にたいやつは勝手に死にな。俺は、どんなに辛くても、どんなに悲しくても、生きていくんだ」

 別会社ではあるが、隣で汗をかきながらチャーシューメンを食べていた社長が合いの手を入れた。

「そうだ。そうだ。君は偉い! 君のような男が、社会を支えているのだ」

 サラリーマン氏は涙を一筋。

 白髪まじりの取締役は「よし、よし」と子どもをあやすように頭を撫でた。

 その隣でビールを飲んでいた銀行員は、煙草に火をつけながら

「君の涙は、百万ドルだ」と冗談を飛ばした。

 サラリーマン氏は顔を伏せたまま手を伸ばして

「くれ‥‥」

 皆が笑い出したので、彼はからだを起こし一気に冷酒を飲み干した。

「犬の話はもうやめた」

 甚平はからかい

「とかいって、つぎは猫の話をするのだろう?」というと、

「いや、次はネズミだ」とニヤリ。

 翌日も彼はやってきて、今度はディズニーランドの話を始めた。一匹のネズミが世界を動かしてこの世に夢の国を創造したのだとミッキーとディズニーとの友情を褒めたたえた。それがビジネスとしても成功したのは偉業であると。さすがの甚平もまいったが、無害でたわいのない話であったので意外にその場は盛り上がった。いろいろとあっても、悩みがあっても、それでも日本は平和で著しい経済繁栄を謳歌していた。

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