お楽しみはこれからだ!

流々(るる)

初体験

「こんな所でやるのか……」



 日比谷駅の改札を出て階段を上がると、皇居のお堀と日比谷公園が見える。

 あれっ、出口を間違えちゃった。

 東京に住んでいても僕は日比谷なんて来たことないし、ましてやこれから行く先なんて一生縁がないと思っていた。

 地図アプリを立ち上げ、日比谷公園を右手に見ながら大通りを歩いていく。日生にっせい劇場を通り過ぎて――見えた。

 目的地の帝国ホテルだ。


 格式を感じる外観に圧倒されながらロビーへ入る。

 二層吹き抜けの高い天井、煌びやかなシャンデリアに、その光を映す大理石貼りの柱。やっぱり場違い感が半端ない。

 たしかスイートだって、言ってたよな。

 LINEに送られてきていた部屋番号ルームナンバーを確かめて、エレベーターに向かう。

 初めてなのに、いきなりこんな所でやるなんて……。

 涼しく快適なはずの館内なのに背中の汗は止まらず、唇も渇いていた。



 二週間前、ジムで高藤たかふじ会長に声を掛けられたのがきっかけだった。

「来週の金曜日、夜は時間空いてるかな?」

 へっ? 何? ……なんで僕?

 会長は穏やかな笑みを浮かべて、話し始めた。


 聞き終わってから、すぐに僕は「わかりました」と答えていた。

 憧れていた会長から声を掛けてもらえて舞い上がっていたのかもしれない。

 でも、それ以上にずっと興味を持っていたことも否めない。

 やってみたかった思いが、いま叶おうとしている。



 それなのに、ここまで来て躊躇する気持ちが生まれていた。

 教えられた部屋のフロアまで来たのにエレベーターホールから動けずにいると、電子音が鳴りエレベーターの扉が開いた。

「あっ……」

「やぁ、君も呼ばれたんだ。よろしく」

 そう言って肩を叩いて来たのは、ジムで顔見知りの高田さんだった。

「あれ? ひょっとして、今日が初めて?」

「はい……ちょっと緊張しちゃって……」

「大丈夫だよ、心配しなくても。経験者ばかりだからさ」

 高田さんに促され、一緒に歩きだした。


「ようこそ。待っていたよ」

 スイートルームでは会長が出迎えてくれた。

 さすが帝国ホテルのスイート、といった感じで、広いリビングに落ち着いた色調の家具と絨毯が目に入ってくる。

 テーブルには既にオードブルが並べられ、ソファに座ったり、立ったままグラスを持って談笑している人たちがいた。

「今日は八人参加の予定で、その他にゲストが二人。私を含めて十一人で始めるからね」

「会長は参加されないんですか?」

「今回はギャラリーとして楽しませてもらうよ。始まるまでは好きにしていて」

 ちょっとがっかりしたような、ホッとしたような気持でその場を離れた。


 喉がカラカラなので、クーラーボックスからコロナの瓶を取り出す。

 ジムで見たことのある顔も何人かいるけれど、全く知らない人もいる。

 ベッドルームも覗いてみると、そこには誰もいなかった。

 缶ビールを片手にした高田さんがやって来る。

「このベッド、寝心地よさそうだなぁ」

 曖昧な相槌を打ち、オードブルを取りに行った。



 お酒が弱い僕は、参加者が揃う頃にはすっかり酔いが回っていた。

「それじゃ、始めようか」

 合図の声に拍手をする人、ヨシっと声をあげる人、みんな会長のお眼鏡に適ったガチムチ系か細マッチョばかりだ。

「最初の相手はくじ引きで決めよう。そうしないと好きな相手の奪い合いになっちゃうからな」

 冗談めかした会長の声にどっと沸いたが、僕は酔いと緊張で笑うどころの余裕はない。

 そんな状態なのに、僕は一組目になってしまった。


 お相手の坂口さんは三十代後半だろうか、背は僕と同じくらいだけれど体の厚みが全然違う。やはりあのジムに通っているそうだが、会ったことはなかった。

「よろしく、お願いします」

 つっかえながら頭を下げた僕に、坂口さんは笑顔を見せた。

「初めてなんだって? よろしく」

 そう言うと、おもむろにシャツを脱ぎ始めた。

「えっ、シャツは脱がなきゃ駄目……ですか?」

「いや、そんなことないよ。俺はいつもそうしてるから」

 太い腕が露になり、分厚い胸板には汗が光っている。

「僕は、このままで……」

 部屋の温度も上がっているのか、顔が火照ってきた。

 ギャラリーの熱気も伝わってきて、新参者に対する好奇の視線を痛いほど感じる。

「それじゃ、始めようか」

 坂口さんが僕の右手を握ってきた。

 僕は、握られた右手を強く握り返す――。


 

「はぁー」

 思わず声を出しながら、ベッドの上にあおむけで寝転がった。

 汗びっしょりになってしまった。やっぱり僕も脱いでおけばよかったな。

 そんなことを考えていたら、会長がこちらへ歩いてきた。

「いいよ、そのままで。疲れただろ?」

 慌てて体を起こそうとした僕に、そう声を掛けてくれる。

「どうだい? 初体験は」

「なんか、あっという間に終わった気がしますけど……今は気持ちいいです」

 上半身だけ起こしベッドに腰かけたまま答えた。

「シャワーも自由に使って。二回戦、若い君とやりたがっている奴が多いから」

 笑いながら、会長は次の組を観に行った。



        *



 高藤修一は日本人初のアームレスリング世界ランカーとして、ファンの間ではカリスマ的な人気を誇っている。

 自らが会長となったトレーニングジムには、「卓上の格闘技」とも呼ばれるアームレスリングを目指す若者が集まってきていた。彼はその中から有望な選手をスカウトし、アームレスラーとしてデビューする後押しをしている。

 アームレスラー同士の懇親会を年に数回プライベートで開き、自らの経験や夢を伝えているのも有名な話である。

 

 日本ではマイナーな印象の競技だが、アメリカやロシアでは高額賞金の掛かった試合も多い。

 富と名声を掴むには、まさに自らの右手に掛かっているのだ。

 高藤は若手レスラーたちを鼓舞する。

「お楽しみはこれからだ!」と。

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