呼ぶ声
鈴代
傍らの光
神に魅入られた子は短命だという。保育園に通っていたころ、そういう絵本を読んだことがある。
幼い美少女が家族と神社で開かれる夏祭りに行くが、はしゃいで先に行き過ぎたのか家族とはぐれてしまう。そんなとき、若く端整な顔立ちの男性が少女に手を差し伸べる。少女が男性の手を取ると、男性はどんどん奥に進んでいって、とうとう屋台も並んでいない闇のなかへ連れ込まれてしまうのだ。少女が不安に思っていると、男性は少女の頭に右手を添えてなにかを掴むそぶりをする。掴んだのは、淡い光を放つ、少女のなかの家族に関する記憶の糸だ。するするとその糸を引き抜いてしまうと、少女が抱えていた不安は霧散し、その顔に笑みを浮かべる。男性は笑い返して、少女を抱きかかえて静かに社のなかに消えていくのだった。そして、社の扉が閉まるその瞬間、男性の体が光に包まれて本来の姿に戻るのだ。家族が散々探し回って、今日はあきらめるべきかと思案していたとき、彼らは社の前で少女を見つけた。しかし、やっと見つけたその少女は既に事切れていたのだ。
その絵本の内容は、当時のわたしにとって衝撃的だった。自分とそう年齢の変わらない幼い少女が死ぬ物語なんて読んだのは、そのときがはじめてなのだから。
けれど、それだけがこの絵本を特別にしているわけではない。
疲れ果てて眠りについたのだが、二時間ほどで目が覚めてしまった。こんなときは必ず、声が聞こえてくる。こっちへおいで、と優しく呼ぶ声。それが光をまとって、わたしのもとへ届く。だが、その声の主をわたしは知らない。毎回同じ人物の声であるようだが、知人ではない。おそらく男性の声。
こっちってどこ、どうやって行けばいい。心のなかで尋ねても、答えなど返ってくるはずがない。なぜなら、どこを探しても声の主は見つからないから。疲労からくる幻聴か、あるいは心霊か。はたまた神か。
そんな思考もほんの数秒で途切れる。わたしには時間がない。というより、どうしても時間がないという考えを捨てることができない。受験生だから焦っているというのは確かにあるが、そんな一過性のものではない。わたしの心にはいつも余裕がないのだ。まるで心のパーツが欠けているかのように。
「……おはよう」
声の主が何者かなんて、どうせわたしには知りようがない。わたしには見えないし、気配も感じない。ただ呼ぶ声だけが聞こえる。
十分な睡眠がとれなかったため、頭は痛く体もだるいが、目がさえてしまった。それに、やることならたくさんある。今週末は模試があり、来週はテストがある。
鉛と化した体を起こして立ち上がると眩暈がして机に手をついた。一瞬の痛み。シャープペンシルの先が皮膚を裂いて血を滲ませていた。
血とともに兄の瞳が滲みだした。兄の瞳は血管が透けて赤い色だったのだという。わたしは兄の姿を実際に見たことがないけれど、その瞳だけは知っているような気がした。兄の写真は数枚しかないが、そのどれに写る兄も目をつむっている。だから、本当は兄の瞳なんて知りようがないのに。
というのも、兄は生後一週間も経たないうちに、この世を去ったからだ。わたしが生まれる五年前の春の日、風に吹かれて儚く散ってしまう桜の花弁のひとひらのように、その命の灯はあっけなく消えてしまった。
兄は、魂を細かく分けてあちこちに置いてきたのかもしれない。たとえば子宮のなか、産道、彼を抱いた母の腕。兄のおさがりの子宮のなかでわたしは十カ月も過ごした。そこで育つうちに、羊水にたゆたう兄の残滓はわたしに取り込まれていたのだと思う。兄の存在は確実にわたしの一部となっている。
兄の命が一瞬で散ったということは、その淡い赤色をした美しい瞳が、神の御心をも奪ったということだろう。兄はきっと神に魅入られ、愛された子なのだった。
「おにいちゃんは、かみさまがつれていったんだよ」
驚愕と困惑。母の表情は、それらの感情を雄弁に語っていた。母は結局何も言わないまま、わずかに目を伏せた。
そのときの顔が、絵本に出てきた少女の母親の顔とおなじだったのだ。その切なくやるせない表情がひどく胸を締め付けて消えない。この脳裏にこびりついた記憶が、あの絵本にわたしを縛り付ける鎖となっているのだ。
いつの間にか、机に突っ伏して眠っていた。まだ早朝で外は暗い。おいで、という声がいつもより近くで聞こえる。わたしが彼に近づいたのか、彼がわたしに近づいたのかわからない。もしかすると、わたしたちは互いをひきあっていたのかもしれない。あぁ、あたたかく、やわらかい声。もはや声の主など気にならなくなっていた。兄でも神でも、そのどちらでもなくとも一向にかまわないという気持ちが湧き上がってくる。おそらく、わたしの最も近くに最も長く寄り添ってきた彼が、傍らを離れることなく呼ぶならばわたしは――。
朝の日差しが瞳を刺した。わたしは布団のうえでタオルケットをかぶって横になっていた。自力で布団に戻った記憶はない。彼が寝かせてくれたのかもしれないと思った。そのとき、ふと胸のうちに宿る光に気がついた。そのあたたかい光は全身に広がって溢れ出て、わたしを包み込んでいった。それと同時に、あれほどしつこくまとわりついていた焦燥感がすっと抜けてしまった。
もう声は聞こえない予感があった。これからは浅い睡眠をとることはないだろうし、そもそも呼ぶ必要もないのだから。
わたしは彼をこの身に受け入れた。彼も、それを了承した。わたしたちはいまや、互いを呼ばずとも認識できる距離にいるのだ。
わたしの死後、焼却炉が開かれたときには注目することだ。きっと、わたしの骨のあいだから漏れ出した目も眩むような強烈な光に包まれて、きみたちは驚くことだろう。その光を目で追えば、満天の星空を見ることになる。光は空を目指してどこまでも高く昇り、きみたちはそれを見失うかもしれない。それで構わない。強く輝く光は最期のときまで、わたしの胸のうちに宿っていたということなのだから。
呼ぶ声 鈴代 @suzushiro79
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